椎名麟三とドストエフスキー

 

            (初出:「ドストエーフスキイ広場」122003

 

かつて「日本のドストエフスキー」と呼ばれ、ドストエフスキーとの出会いとその影響を自ら「ドストエフスキー体験」と称して多くのエッセイで繰り返し語った椎名麟三が没して、今年はちょうど三〇周年に当たる(一九七三年三月二八日没)。彼が生きた時代と生の体験ははるか昔の出来事のように思えるが、彼がドストエフスキーから学んだ文学の意味と方法の問題は、いまなお私達に問い掛けてやまないものがある。

椎名麟三によれば、文学の本質は救いを求める「叫び声」であり、そのことを彼はドストエフスキーから学んだ。椎名が出会った最初の作品は『悪霊』であったが、彼が繰り返し語るところによれば、「それは私に、たとえ人生に解決がなくても、助けてくれ!と叫ぶことはできるということを教えてくれたのであった」(「ドストエフスキーと私」191)、「私は、その作品によって文学への目をひらかれたのであります。つまり彼の作品から「この人生はたとえ意味がなくったって、助けてくれと叫ぶことはできるだろう、それが文学なんだ」ということを学んだようであります」(「ドストエフスキーとの出会い」223)、「とにかく彼は、追いつめられた者でも叫ぶことはできることを教えてくれたのだ。僕は、文学へ関心をもった」(「生きるための読書」180[i]

どのような状況でドストエフスキーと出会ったかについても、椎名は繰り返し語っている。昭和四年、一八歳の時に関西の私鉄の労働者として非合法の労働組合、および共産党細胞を組織し、昭和六年秋に逮捕されて、翌年、裁判一審で非転向のため四年の判決を受けた椎名は、控訴中の未決囚の独房で、差し入れられた文庫本の一冊・ニーチェの『この人を見よ』に出会った。彼はこの本を「失意の価値転換」のばねとして、「ニーチェの名を利用」して、昭和八年初めに転向の上申書を書いた。昭和八年四月末に執行猶予で出所するが、筆耕を職業として生活をしのぎながら、「主体的なニヒリズムの克服を求めて、いわゆる生の哲学の系譜を読んで」(「生きるための読書」)いくうちに、ドストエフスキーの『悪霊』に出会い、前記のような感慨をもって、文学に開眼したのだった。

一審非転向を貫いて四年の判決を受けた椎名がニーチェに依拠してとはいえ、なぜ急に転向上申書を書いたのか。これにはやはり昭和八年という時節の重圧を考えざるをえないだろう。椎名はこの頃のことをこうのべている。

「一審で転向しなかったために、四年の判決を受け、控訴した。一言でいえば、同志だけでなく、プロレタリア全体に対する僕自身の愛についての疑惑であった。その疑惑において僕は、自分を失い、そのような疑惑をもったということで、階級に対する裏切りを経験した」(「生きるための読書」179

椎名がこうのべていることの背景に目を転じると、昭和八年二月二〇日には小林多喜二が築地警察署で、拷問・虐殺されている。同年六月には佐野学、鍋山貞親ら共産党最高指導者が獄中で転向声明を出す。翌九年三月には「日本プロレタリア作家同盟」が解散する。そうした状況に符牒を合わせるように、ドストエフスキーの『地下室の手記』を論じたシェストフの『悲劇の哲学』が翻訳・刊行され、社会の軍国主義化が進むなかでの知識人の転向心理に影響をあたえ、文学の方法の問題としても、横光利一の「純粋小説論」や小林秀雄の「私小説論」に波及していくことになる ―この状況について、かつて私は雑駁ながら論じたことがあった。当時のジャーナリズムや論壇で「シェストフ的不安」「シェストフ現象」という表現で論じ、また「純粋小説」とは何かをめぐって論争したのは、既成の文学者や思想家達であったが、総じて手探りの観があって、問題の本質に迫りえているとはいえなかった。むしろこの時期、無名の文学青年・大坪昇(椎名麟三)において進行していた過程こそ、実はそれらの問題の本質を浮き彫りにするものではなかったろうか。

シェストフ的問題とは何か? 自己の理想への信念が崩壊して、足場を失った後に、なおかつ生きなければならないとしたら、人は何を拠り所に生きていったらよいのか、という問いである。このロシアの思想家の語るところを引こう。「理想主義が現実の攻撃に対して無力であり、又、運命の意思の儘に人が現実にぶつかり、美しい「先天的なもの」がすべて虚偽に過ぎないことを発見して驚いたときに、その時初めて懐疑の心が彼の内に湧き、古い空中楼閣の壁を一挙にして破壊するのである。ソクラテス、プラトン、善、人類愛、観念、−懐疑主義や厭世主義の悪魔から純な魂を守ってくれた聖人や天使の一群は跡形もなく消え失せ、人は地上の敵共に直面して恐ろしい孤独を感じ、己に最も忠実な、親しいものも決して自分を救ってくれることが出来ないことを知るのである。

悲劇の哲学が始まるのは此処からである。希望は永久に消え失せた。然も生きてゆかねばならず、生命はまだまだ長い。仮令死にたくとも、死ぬことはできない」

シェストフによれば、このようにして人の前に開かれるのは「物自体の世界」であり、「新しい現実」である。椎名が自分の転向について語り、作品の主人公の感覚について描く叙述は、どれをとってもシェストフの右の言葉を思わせないものはない。椎名は自分の体験を「何から何へ」の転向ではなく、「脱落」だとのべている。ニーチェの「自我主義」、「超人」の概念、それは椎名にとって「自己が自己を克服する、そういうマルクス主義には絶対に存在しない考え方」であり、それとの出会いがマルクス主義に対する「空虚でむなしい脱落感」をもたらしたとのべている。(『戦後派作家は語る』古林尚との対談、筑摩書房)椎名が刑務所の体験についてのべているところによると、「牢獄の経験はわずか二年たらずにすぎない。だが、この二年たらずの間に、私は精神的な危機というものを体験したのである。その危機は、その後の私の生き方を決定したといっていいであろう」 その体験の詳細は『自由の彼方で』という小説に書いてしまったといい、「一言で言えば、私の精神的土台の崩壊を見たといっていいだろう。一つは拷問のときの自己の無意味感である。何度か引き出されて拷問されたとき、今度は死ぬだろうと感じたとき、ふいに自分の一切が無意味に感じられたのである」(「わが心の自叙伝」)

過去の自分および周囲の一切に対する虚無感にとらえられ「自己が自分を克服する」ロマン主義的な自己超克に新たに自分の生の根拠を置いたとき、椎名の文学は出発した。椎名文学の最も大きな主題は「自由」であると思われるが、生のぎりぎりの、あるいはどん詰まりの境地から出発した彼の「自由」の性格とはどのようなものであったろうか。「自己が自己を克服する」という自我・主体性を強調する立場からの「自由」の追求が意味するものは、キルケゴールの「イロニーは主体性の規定である。イロニーにおいて主体は否定的に自由である」(180)という言葉に意味されているものに近い。

「イロニー的主体にとっては、あたえられた現実はその妥当性をまったく失っている」。(178)「なぜなら、主体に内容をあたえるべき現実がそこにはないし、あたえられた現実が主体をそのなかにとらえておく拘束から主体は自由だからである。しかし、主体は否定的に自由なのであり、そういうものとして漂遊的である」(180) 

 一人称で書かれた椎名の文壇デヴュー作『深夜の酒宴』の主人公は自分の置かれた現実に対して「堪える」という言葉をくりかえす。「堪えるということは、僕にとって生きるということなのだ。堪えることによって、僕は一切の重いものから解放されるのだ。そしてまた堪えることによってあの無関心という陶酔的な気分を許されるのだ」169

 「堪える」ということが、現実に拘束されることではなく、反対に拘束から主観的に抜け出し、軽さを獲得し「漂遊」することを意味するイロニー的な「自由」がここに示されている。アパートの管理人で伯父にあたる仙三から頬を強打された主人公はこう語る。

 「僕はそれに堪えた。・・・その時僕は自分の頬にあつい疼痛を感じたのだつた。それは何かの光のようだつた。

僕は眼まいを観ずるような早さで自分の頭が軽く明るくなって行くのを感じた。生きていると僕は考えた。僕は笑いだした。心から笑い出した」(172

 「自由」と並んで「笑い」「微笑」が椎名文学のイデーに迫るキーワードと思われるが、「自由」がやや遅れて『永遠なる序章』以降、頻出するのに対し、「笑い」は文壇デヴュー第二作『重きながれのなかに』で、次のような表現で引き継がれる。

 「突然僕は笑い出した。狂ったように笑いだした。全く人間がどうして自分の運命を変えることが出来るだろう。・・・人間に不幸と死をもたらすこの暗い重いものに腹を立てるということは、ただの道化ではないか。だから僕は笑うのだ。そして笑っている自分を更に笑うのだ。・・・僕はなお笑い続ける。何故ならこの笑いによって何者かへ陋劣な復讐をしているからだ」(3266

 この笑いもまた主観的に自己を超えようとするところからくる否定的、消極的な自由の表明にほかならない。主人公をこのような戦法に駆り立てるものは決定論的な「運命」の意識である。「絶望と死、これが僕の運命なのだ」とのべる『深夜の酒宴』の主人公は、運命の力を行使するものは何か、を自問しながら、「自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだった」(173)とのべる。

『重き流れのなかに』の主人公は自分にとって「神」は求めども不在であるといい、自分はすでに「発生に於てほろびていた」、「全く壊滅は僕の発生に於て起こつていたのだ。そしてこの自覚だけが、僕を愛に於て人類へ強く結びつけているのを感ずるのだ。未来や不幸や憎悪を超えさせていく僕の笑いもこの自覚から生じているのだ」(3271)とのべる。これらの言葉に見られるのは、椎名の主人公達の深いニヒリズムである。

『永遠の序章』以降になると、それまで「堪える」、「笑い」という生理的な表現で示されてきた境地が「自由」という観念に昇華される。またそれに並行する「微笑」も含意をともなったものになる。

『永遠なる序章』の主人公・安太は余命三ヵ月という状況で、その意識がもたらす戦慄のなかで、「歓喜」にあふれる。「全くどうして、酔うような強い歓喜が自分を打ちひらくのであろう。こんなことは今迄にないことだ。そして一瞬、安太は、この歓喜のなかに何かの啓示のようなものを感じている。その彼は、自分がまるでふいに殻をむしりとられたさなぎのような感じがしている。何か自由で、何かその自由が肌寒い」(1151)そして主人公は無意味な人生を意味あるものに変える「激情」にこそ「真の自由」があると考える。

絶望のなかでの精神の高揚としての「歓喜」、これはドストエフスキーの地下室人、またキルケゴールが『死にいたる病』で分析している「不幸な意識」を連想させるものがあるけれども、椎名の場合、絶対的主観の独善的自我主義に収斂していくのではなく、他者との「存在了解」、「生きている実感のなかに、人々とともにあること」の喜びを示す「微笑」として表現される。

『邂逅』では、主人公安志の「微笑」と「自由」の感覚にとりわけ重要な意味が付されているが、登場人物の視点が、相互に徹底的に相対化されているこの小説では、安志の「微笑」は別の人物(実子)の視点でこう批評される。「非人間的な微笑、笑いだけが、独立しているような笑い方だわ。彼女は屈辱を感じた。こんな男に支配されてたまるものか。あの微笑が自由に見えるのは、きっとあいまいさなのだ」(6136)「石が笑ったらあんな感じがするにちがいないという気がした。とにかくあれは自分の自由をもたない死んだ男の笑いなんだわ」(6137-8)また安志の妹のけい子は「あの兄に感じられる一種の快活さ、それは奴隷の快活さにすぎないのだわ」という感慨をのべる。

このような客体化された他者の視点にたいして、並列して描かれる安志本人の主観を語るモノローグはどうか。「おれたちの前に立つている銀行。現代を支配する宏壮な神殿。彼は微笑した。おれはお前たちのために苦しんでいるということは事実だが、しかし残念なことには、おれはお前たちが空虚な、白塗りの墓であることも知つているのだ。お前たちはおれに対して絶対的であることは出来ないのだ。死でさえもおれに対して絶対的なものであることは出来なくなっているのだ。・・・おれはおれの無力に苦しみ、悩み、疲れている。それがお前たちに対するおれの自由と喜びのユーモラスな告白なのだ。安志は自分と世界に対する親愛を感じながら微笑した。おれは自由なのだ」(6137

安志の「微笑」に警戒していた実子は、小説の最後には、あの男を拒否しなければならないという「理性」と、「はっきりとあの男によつて生かされているという愛との、理屈にあわない調和」、そしてそこに「新鮮な、ひどく現実的な力」を感じるにいたる。

このように見てくると、キルケゴール的な「否定的自由」の逆説性を身体表現(笑い、微笑)、感覚的気分(自由感)に転位させて、他者との連帯の倫理的モチーフにまで高めようというねらいが、椎名文学の理念的本質をなすものといえよう。

椎名へのドストエフスキーの影響を考えるとき、『地下室の手記』と『悪霊』が前面に出てくるのも偶然ではない。『自由の彼方で』の主人公は、ドストエフスキーの地下室人をなぞるかのように、刑務所の独房で、虫歯の痛みに快感を覚える。「強く押されるたびに起るむし歯の痛みや、鋭くとがった歯に食い込まれる指先の痛みや、むし歯特有のゴム臭などが、彼に深い快感をあたえるのだ」(290-91)ところで椎名は、「ドストエフスキーとの出会い」というエッセイのなかでは、自分の経験からいって、歯痛に快感を感じたことは一度もないといい、歯痛にともなう意地悪いうなり声が、実は神に対して向けられたものであり、そのことによって、歯痛の苦しさがある快感をあたえるのだと知ったが、それは後年キリスト者になってやっと分かった、とのべている。『自由の彼方で』は確かに入信後の作品であるが、歯痛のくだりはドストエフスキーからの転用であることは疑えない。

高堂要氏が平野謙を引用しながら指摘していることであるが、『深尾正治の手記』の主人公の重病の娘美代に対する振舞いに、地下室人のリーザに対する態度を重ねあわせて見ることができる。同じ下宿の住人である病気の美代の部屋を見舞いに訪れながら、その場の意地の悪い気まぐれで、娘をしたたかに傷つける。あなたの墓はみんなで決めた。ゴミ捨て場の近くだ。費用節減で棺桶は自分たちでつくるが、あなたの背丈はどれだけか。「死体になったら少しはちぢむということですが」といって、美代を怒らせる。主人公は金包みをそっと置いて逃げ帰るが、「もう僕はたしかに救いがたい人間である。しかしもうどうしようもないのだ。一体、誰がこの僕をとめることが出来るだろう」(6-54)と自分をもて余す。

椎名によるドストエフスキー受容の最深地点はエッセイ「矛盾の背後の光」 その他でのべていることであろう。それは『悪霊』のキリーロフとスタヴローギンの会話の場面にかかわる。

キリーロフがスタヴローギンに向かって、「すべてがよい」といい、後者が「少女を凌辱してもいいのか」と問い詰めると、キリーロフは「もちろんそうしてもいい。人間はすべていいからだ。しかしもし、それを悟ったら、娘っ子を辱めたりしないだろう」というくだりである。「すべてはいい」ということと、「そうしないだろう」ということの間にある「矛盾」に椎名はある種の啓示を受けている。「ここを読むたびに感動し、この矛盾した言葉の背後から、何かしら新鮮な自由をかんじさせる光が感じられてくるのであった」と、椎名はいう。そしてその自由の光が「この矛盾の両項を成立させているイエス・キリストからやってきたものだ」と分かったのは、のちにキリスト者になってからだった、と告げている。ここに「人間の全的な自由の宣言」とともに、そこから「個人的な自由として道徳を守る」という理想を、椎名は読みとっているのである。

このように、椎名は自らの作品の主題にかかわる理念をキルケゴール、ドストエフスキーから学びながら、同時に作品構成についても学ぶところが大きかった。昭和一七年、まだ作家修行を始めてまもなくの頃、椎名は「ドストエフスキーの作品構成についての瞥見」というエッセイを書いている10。そののべるところをかいつまんでみると、いわゆる通俗小説が「事件を線とする構成」であるのに対して、ドストエフスキーの作品構成の特徴の一つは、「事件を点とする構成」である。「構成の究極的な小単位としての事件」が多数独立して相互に無関係に存在するところへ、主題が持ちこまれ、作者の構成作業が始まる。その主題とは人物化した思想であって、「一つの観念の生命がその人物の生命となっているところの人物」なのである。その主題の思想の中に事件がとり入れられると、それらの事件はたちまち「小説的な生命をもち、何かへ発展しようとする機能をもつに至る」この段階ではまだ事件と主題は別個に存在し、発展の目的も作者にはまだ漠然としている。ドストエフスキーの巨大な才能が発揮されるのは、「実にこの主題(又は人物)と事件との関係づけに於てなのである。そこで彼は人間心理の深淵まで降りて行って、主題(又は人物)と事件との連続性あるいは因果性を感得するのである」しかもこの「事件の場」はプロットと呼ばれる時間上の固定ではなく、「場面として」固定される。

ドストエフスキーの作品構成の第二の特徴として椎名が指摘するのは、一つの作品に主題が「大小無数」にあること。いうならば人物と同じ数だけの主題があり、その軽重は人物の位置によって決まるが、「その主題群は、相互に連関を欠いているので、ドストエフスキーはその主題の間を緊密にし、全体的な主題の下に制約しようとした」

だいたい以上が椎名の所説であるが、「事件を点とする構成」、複数の人物化した思想としての主題の並存、さらに「事件の場」が時間的な展開ではなく「場面」として描かれるという論旨は、おのずとバフチンの次のような指摘を思わせる

「ドストエフスキーの芸術的眼の基本的カテゴリーは形成ではなくて、共存と相互作用である。彼は自分の世界を主として、時間においてではなく、空間において見、かつ思考した」(ロシア語版『ドストエフスキーの詩学の諸問題』1963―38頁)またイデー(観念)と主人公の関係についての、バフチンの次のような言葉は椎名の補注のごときものとして読むことが出来よう。

「ドストエフスキーのすべての主要主人公達は<・・・>めいめい「大きな未解決の思想」をかかえ、まず必要としているのは、「思想を解決する」ことである。思想(イデー)のこの解決にこそ彼らの真の生活と独自の未完結性のすべてが含まれている。もし彼らが生きている場であるイデーを無視してしまったら彼らの人物像は完全に壊されてしまうだろう。いいかえれば、主人公の人物像はイデーの像と密接に結びつき、彼らから切り離せない。私たちは主人公をイデーの中に、イデーを通して見、イデーを主人公の中に、主人公を通して見るのである」(同115頁)

椎名の文壇デヴュー作は『深夜の酒宴』(一九四七・二発表)である。この作品には原型ともいうべき、同じ題材で書かれた『黒い運河』という先行作品があって、四六年七月二四日に浄書完成していたものが、八月上旬には改題改作されて、『深夜の酒宴』として発表されたといういきさつがある11。この両作品にどのような違いがあるのか。まず登場人物、場面ともにほとんど同じであるが、叙述の視点とスタイルに明確な相違が見られる。『黒い運河』は三人称で書かれ、局外の語り手の存在が明確に感じられるのに対し、『深夜の酒宴』は主人公・須巻の一人称で書かれた手記という形をとっている。

舞台は下町の貧乏アパートで、そこの住人たちの生態を描いたものだが、確かに自然主義的描写にうってつけの題材ではある。戦時中、共産党員として獄中にいた主人公の須巻は敗戦と同時に釈放され、伯父・栗原仙三の経営する安アパートにころがりこんでいる。彼は『黒い運河』では獄中で気が変になり、入院したこともある無口で薄気味悪い、離人症の人間として描かれている。彼はアパートの人々に無関心で、人々も彼には注意をはらはなかった。「彼はここでは影の薄い存在だった」。同じアパートの少年が栄養失調で死んでも何の感情も示さないし、病身の女・加代が炊事場で倒れても、助けようともしない。彼はいつも飢えに苦しめられているが、意識の昏迷のなかで、白絹のドレスを着た「かぐや姫」の幻影を見る。

『黒い運河』では虚無感に閉じ込められている須巻を中心にその伯父の仙三、加代その他アパートの住人たちの人物像が三人称スタイルの客観描写で浮き彫り的に描かれていて、『深夜の酒宴』とは一味違った仕上がりを感じさせる作品になっている。

『深夜の酒宴』では全体が主人公・須巻の一人称の視野に移されることにより、主人公の気分と観念の描写が基軸となり、その実存的状況が強く印象づけられる。一人称の視野で描かれるだけに、各人物の輪郭があいまいに感じられる点は否めない。とくに、仙三の存在感は『黒い運河』のほうが強く感じられる。私はこの両作品を読み比べたとき、ゴーゴリの『外套』とドストエフスキーの『貧しき人々』の関係を連想せずにはおれなかった。椎名は『黒い運河』を書いたとき、おそらく自分の自然主義的手法に意識的であって、それゆえに、書き直した『深夜の酒宴』で、一人称の主人公にあえてこういわせたのである。「このアパートの人々は僕には古くさい昔話の人々のような気がしてならない。自然主義リアリズムとかいう小説を昔読んだことがあるが、そのように平凡で古くさくて退屈で、それだからその人々の生活を考えただけで陶酔的ないい気分になることが出来る」(51

『黒い運河』においても、各人物の運命にはそれぞれの主題が担わされていて、決して平板な自然主義リアリズムとは思えないが、椎名はデヴュー作『深夜の酒宴』に、在来の日本的な自然主義からの決定的な脱却を賭けたものと思われる。主人公はアパートの人たちとの自分の関係をこうのべる。「誰かが僕に親しく話しかけて呉れたならば、その人と楽しく笑い合うことも出来ると信じている。だが、僕が昔共産党員であってしかも在獄中気が狂ったという理由によって、アパートの人々は僕の顔やひとり言を薄気味悪そうにしているだけなのだ。勿論人々は僕と挨拶は交して呉れる。ことにこんにちはという挨拶やお天気の話などは、挨拶のなかで一番重要な深い意味をもっているのだから、僕はそれだけで至極満足している」(150

このように主人公の一人称の表白で語られる『深夜の酒宴』では主人公の異常さは読者には客観的には見えてこない。読者が知るのは状況のなかでの主人公の気分と意識である。「いや、これらの人々は僕に深い絶望を与えるのである。僕の心のなかにある或る憧憬を救いようのない絶望に陥れるのだ。だがそれが却って今の僕には快い。僕は自分の絶望を愛しはじめているのである。勿論その愛は憂鬱だ。だが憂鬱というやつは、夜寝床へ入るときのような楽しさを与えて呉れるのである。

僕には思い出もない。輝かしい希望もない。ただ現在が堪えがたいだけである」(155

このような精神状態にある主人公・須巻の目に映ったアパートの住人の日常が描かれるのであるが、主題の中心は加代、須巻、仙三にまつわるエピソードである。加代は仙三の愛人だった女性の娘で、身寄りのないところから仙三のアパートに転がり込み、娼婦の生活をしている。『黒い運河』では炊事場で倒れる病弱のか細い女性として描かれている加代が、『深夜の酒宴』では自分の部屋に客の男を引き入れてはいつもすき焼きの匂いを漂わせている豊満な肉体をもった女として描かれている。須巻はこの女に「堪えがたい」思いをいだき、その鼻にかかる甘える声に「重苦しい嘔吐のような気分」を感じながらも、彼女の顔にただよう一種独特の「追憶的な気分」に誘いこまれる。小説の最後は須巻にやり切れぬ思いをもつ仙三が須巻にその場での首吊り自殺を命じる。加代の笑い声のなかで見事に失敗した須巻は加代とともに、仙三からアパートを退去するよう命じられる。最後に須巻は加代の部屋で酔いつぶれるが、彼の記憶にはただ一つのことが残る。「それは加代が酔いつぶれている僕の頭を子どものように撫でながら、脱けて来る髪を指に巻いては畳の上へ落としていたことだつた」

この小説最後の一場面は、論者たちによって、ドストエフスキーの『白痴』の最終場面でのムイシキン公爵とロゴージンを連想させるものとして、その影響がつとに指摘されているところである。『黒い運河』と『深夜の酒宴』の「決定的な相違」として、高堂氏は、須巻と加代に示される「矛盾し、両極に」引き裂かれて存在する二者が、「合一とは言えないまでも、同じ酒を酌みかわし、「共にある」という「あり得べからざる」在り方をしているところに、どこからか「不思議な光」が射すことを、椎名麟三はドストエフスキーから学んだだのではないか」とのべ、そこに叙述の視点の三人称から一人称への切り替えの必然性を説明している12。主観性の表出を可能にする一人称への切り替えによって、椎名文学の独自な出発点を切り開いたという意味で、高堂氏の指摘はまことに正鵠を得ているといえよう。

椎名は前記のドストエフスキー論を書き、小説の習作を「新創作」に発表していた昭和一七年当時のことを次のようにふりかえっている。当時、文学への関心の絶対的意味を見出させるものがあったとすれば、それは「ドストエフスキーであり、彼が作品においてさし示しているほんとうの自由の光であったといえるかもしれない」とのべ、同人誌の「新創作」へ習作発表においては、「日本の自然主義的な小説を書くと好評だった」、「しかし私は、日本の自然主義文学との違和感を常に感じていなければならなかったようである」(「わが心の自叙伝」23478)と記している。いわば「ゴーゴリからドストエフスキーへの転換」というべき革新が、『黒い運河』から『深夜の酒宴』への改作にあたっては、椎名の内部で喫緊に要請されていたように思われるのである。

 

参考文献

佐藤泰正著『遠藤周作と椎名麟三』(「著作集」7 翰林書房 1994

高堂要著『椎名麟三論 その作品に見る』(新教出版社1989)

 

 

 

 



[i] 「ドストエフスキーと私」「ドストエフスキーとの出会い」「生きるための読書」は椎名麟三『私のドストエフスキー体験』(教文館 1967所収)、数字は頁を示す。

「ドストエフスキー文学と昭和一〇年前後」(拙著『近代日本文学とドストエフスキー』 成文社 1993 所収)

シェストフ『悲劇の哲学』(河上徹太郎、阿部六郎訳 新潮文庫 1954)88

内田照子『荒野の殉死―椎名麟三の文学と時代』蒼洋社 1984 99101頁参照

「わが心の自叙伝」は椎名麟三全集(冬樹社 1973)第二三巻472

「イロニーの概念について」(『キルケゴール著作集』題二一巻 白水社 1967)括弧内は引用頁、以下同じ

椎名の作品の引用は括弧で巻―頁が示されている場合には、『椎名麟三作品集』全七巻(講談社 1957―1958)による。

8、 『おとなしい女』の「不幸な意識」について、拙著『ドストエフスキー その対話的世界』(成文社 2002)所収第一部第八章参照

椎名麟三『私のドストエフスキー体験』(教文館 1967)195199

10 椎名麟三全集(冬樹社 1973)第二二巻609-615

11 佐々木啓一『椎名麟三の研究』下(1980 桜楓社)所収、「椎名麟三年譜」による

12 高堂要『椎名麟三論 その作品に見る』(新教出版社1989)30