「思い出は人間を救う」

−ドストエフスキー文学における子供時代の思い出の意味について−

                              

               (初出:「ドストエーフスキイ広場」162007)   

 

ドストエフスキーの創作全体を通じて、自然描写がきわめて少ないことに、私たち読者は気づく。とはいっても、自然や田舎と結びついたロシアの生活の印象深い描写がまったくないわけではない。それは例えば、『貧しき人々』の女主人公ワルワーラの少女時代の田舎の思い出であり、また『虐げられし人々』の語り手イワン・ペトローヴィチの、ワシリエフスキイ村の生活についての思い出であり、『作家の日記』の「百姓マレイ」の章における、ダラヴォーエ村での、作家自身の自伝的な思い出にかかわる描写である。これらすべては、少年フョードル・ドストエフスキーが多感な十代の始めを過ごした父親の領地ダラヴォーエ村の思い出と、おそらく、強く結びついており、それらは作品の主人公や語り手の追憶のプリズムを通して伝えられている。

 ドストエフスキーの作品では、ツルゲーネフに見られるような、自然そのものの客観的な描写といったものはほとんど存在しない。その描写は作中人物ないし語り手の主観のフィルターを通して、ロマンチックな、あるいはセンチメンタルな情緒に染め上げられている。『貧しき人々』のワルワーラは少女時代の思い出で、次のようにのべる。

 「太陽はあたりを明るい光で照らしており、光線は薄い氷をガラスのようにひび割らせている。明るく輝いていて、浮き立つ気分!暖炉ではまたもやぱちぱち音を立てて炎が燃え立ち、皆はサモワールの方に身を寄せて座る。夜中、凍えきった黒犬のポルカンが窓越しにこちらを覗きこんで、尻尾を愛想よくひと振りする。森へ薪を採りにいく百姓が威勢のよい馬にまたがって窓のそばを通り過ぎる。皆が満ち足りていて、とても楽しい気分!・・・あゝ、私の幼年期は何という黄金時代だったことでしょう!<・・・>

 私はいま、思い出にふけりながら、まるで子供のように、泣きくれてしまいました。私はすべてを生き生きと思い出し、私の過去のすべてが目の前にあざやかに浮かびあがりました。ところが、現在はひどく色あせて、暗澹としています! 行く末、どうなることでしょう、どういう結末が待ち受けていることやら?」(下線―筆者 184

 ワルワーラのこれらの言葉のなかには、ドストエフスキーの思い出に共通する二つの特徴が見てとれる。1)自然の懐に抱かれた過去の生活は黄金時代として思い出される一方、2)現在の生活は、色あせて、暗澹としている。この二つ側面のコントラストはドストエフスキーの思い出の状況の特徴ということができよう。

 『虐げられし人々』の語り手的主人公イワンは、病で自分の余命が長くないことを意識しながら、田舎での過去の生活を次のように回想する。

「ニコライ・セルゲーヴィチが管理人であったワシリエフスコエ村の庭園や公園は何と素晴らしかったことか。私とナターシャはこの庭園へよく散歩にでかけたものだった。庭園の向こう側には、鬱蒼とした大きな森があって、私たち二人の子供は一度、道に迷ってしまったことがあった・・・・美しい黄金時代! 人生がはじめて、秘密めいて、誘惑にみちた姿で現れ、それを知ることは、何とも甘美であった」(下線―筆者 3178

『作家の日記』収録のエッセイ「百姓マレイ」では、少年時代にマレイとの出会いのエピソードを語るにあたっての前置きとして、作者はシベリアの監獄での自由のない拘禁された状態での心境を次のように回想する。

 「すこしずつ私はすっかり忘我の境地に入り、いつの間にか思い出に浸っていた。監獄の四年間、私は自分の過去のすべてを絶え間なく回想し続けていた。そして、あたかも回想の中で、以前の自分の生活のすべてを、再体験したといってもよい。<・・・>こんどは、どういうわけか突然、私の最初の幼少期の目立たないある瞬間が突然に思い出されたのである。それは私がほんの九歳の時のことで、私とて完全に忘れていた瞬時のことであった」(2247

 子供時代の体験が、少年の記憶に深く刻みこまれていて、気づかぬうちに、彼の人生の精神的な支柱になっていたことを、この一節は示している。続いて語り手は、マレイとの出会いの意味について語る。

 「つまりその出会いは私の意志とは無関係に、私の心に自然と目立たない形で刻みこまれていて、必要だった時に、突然、思い出されたのであった。その貧しい農奴の農民の柔和な母性的な微笑み、彼の十字のペンダント、頭を振りながらの「あれまあ、坊んず、びっくりこいだな」という彼の声が思い出されたのであった」(2249

 ここで思い出されるのは、1880年の『作家の日記』に見られる、プーシキンの『エウゲニー・オネーギン』のタチヤーナについての言及である。そこでドストエフスキーはタチャーナに「故郷との、故郷の民衆との、その聖なるものとの接触の感覚」があることを強調しながら、こうのべる。

 「彼女の場合、絶望にあっても、自分の生活は滅びたという苦悶の意識にあっても、やはり何か彼女の魂が寄りかかることのできる確固とした揺るぎないものがある。それは彼女の子供時代の思い出、故郷の思い出、彼女の慎ましやかで清らかな生活が始まった片田舎の思い出である」(26143

 こうした記述から感じとれるのは、思い出、追憶というものに、ドストエフスキーが人間の人格を育み、形作る大きな力、人生の危機や絶望の中にあってもその人を支える力、「魂が寄りかかることのできる確固とした揺るぎないもの」を見出し、深い意味をあたえようとしていることである。そうした魂の拠りどころとなるのは自然との接触や田舎の思い出にとどまりない。子供時代、少年・少女時代の家庭生活、出会い、幸せで楽しい出来ごとが人間の記憶に深く刻み付けられて、時を経ても人間を一定の行動に駆り立てる密かな動因となることに、ドストエフスキーは注目していた。

 そのような一例が、『罪と罰』のカテリーナ・イワーノヴナの「賞状」である。小説ではそれが三度現れる。最初はマルメラードフの居酒屋での告白に登場する。

「賞状はいまだに彼女の長持ちにあります。つい先日も女将(おかみ)に見せていました。女将とは犬猿の仲のはずですが、せめて誰かになりとも自慢したかったのでしょうな、昔は幸せな頃もあったってことを、伝えたくて。わたしはそれをとやかくいいません、とがめたりしません。なぜって、それだけが彼女の思い出に残った最後のもので、ほかはすべて消えてしまったのですからね!そうですとも、まったく。激しやすくて、誇り高い、一徹の女ですよ」(615

 彼女の「賞状」が二度目に現れるのは、マルメラードフの追善供養の場面である。カテリーナ・イワーノヴナは自分の「高貴な」素性、「いうならば貴族の出」であることの証拠として、それを自慢する。そして、それを根拠に、寄宿舎学校を作ることを夢見る。「賞状は今やカテリーナ・イワーノヴナが自分で寄宿舎学校を開設する権利を証拠だてるものとなるべきはずのものであった」(6298

 三度目に現れるのは、カテリーナの臨終の場面である。

「どのようにしてこの「賞状」がベッドのカテリーナ・イワーノヴナの傍らに現れたのか?それは枕のすぐそばにあるのだった。ラスコリニコフはそれに気づいた」(6334

 こうして見てくると、「賞状」はカテリーナにとって、少女の頃の思い出に残る「黄金時代」のシンボルであり、つねに屈辱の状態にあった自分の拠りどころでもあり、名誉回復のための唯一の手がかりであったということができる。おそらく、同じような意味をもっていたのが、『地下室の手記』のリーザにとっての、かつて或る医学生から貰った手紙であったろう。彼女にそれを見せられた地下室人は、シニカルな人物であったにせよ、リーザの突発的な行動の意味を正当に理解したのであった。

「しかしいずれにせよ、思うに、彼女はその手紙を宝として、自分の誇り、自分の弁明として、一生涯大切に保管していくのにちがいない。それで今、こうした瞬間、自分で思い出して、私に向かって無邪気に自慢し、私に自分を見直してもらいたいとばかりに、その手紙を持ってきたのだ。私がその手紙を見て、私にほめてもらいたいばかりに」(5163

 地下室人にとっては、思い出は全く別の意味を持っていた。『地下室の手記』の主題構成そのものが彼の生活についての思い出であり、しかも、「生ける生活」とは正反対の思い出である。反主人公である地下室人の言葉によれば、「我々みなが生活から離反してしまった<・・・>あまりに離反してしまった結果、本物の「生ける生活」に対してしばしば、嫌悪感のようなものさえ感じるにいたり、「生ける(・・・)生活(・・)()思い起こさせられる(・・・・・・・・・)()には(・・)たえ(・・)難く(・・)さえ(・・)なるのである」(傍点―筆者 5178

 ちなみに、地下室人において注目されるのは、彼には子供の時から家庭というものがなかったことである。彼はリーザに対してこう語る。

「ねえリーザ、僕は自分のことを話すよ。僕に子供の時から家庭というものがあったら、今のようにはならなかっただろう。僕はこのことをよく考えるんだ。家庭内がどんなにまずく行っていたとしても、やはり父と母だし、敵ではない、他人ではないのだからね。年に一度ぐらいは愛情を見せてくれるだろうよ。何といっても自分の家にいる気がするじゃないか。僕ときたら家庭なしで育ったんだ。だから多分こんな奴になった・・・感情のない人間に」(5156

子供時代の暖かい家庭の思い出が欠如した地下室人このような告白とも関連して、ドストエフスキーの作品において、思い出や記憶の意義を論じる際に、忘れてならないのは、その人物にとって、それが何かネガチブなもの、恥辱、苦しい悪夢としてさえ意味づけられる一連の主人公たちである。ドストエフスキーにあっては、思い出が肯定的な意味をもつ人物よりも、そのような否定的な意味をもつ人物のほうが、むしろ多い。例えば、『白痴』のナスターシャ・フィリッポヴナの娘時代の思い出は、は、トーツキイによる陵辱と恥辱に染められており、その後の彼女の矛盾した行動を導く一因を成している。「思い出を統御し、それに対して無関心たりうる」(1121)はずの『悪霊』のスタヴローギンも、最終的にはマトリョーシャの思い出に苦しめられる。『おとなしい女』の主人公質屋は連隊での名誉失墜と除隊の暗い思い出に苦しめられ、その屈辱の過去が、おとなしい自分の妻に対する奇矯な振る舞いにかりたてる原因となっている。

その意味でも、ラスコリニコフが少年の目で見る鞭打たれる痩せ馬の悪夢も見逃せない。これは単なる夢ではなくて、主人公自身の経験に近いリアリティがあたえられている。

「彼は七歳ほどで、お祭りの日の夕方、父親と町外れを散歩している。灰色の時刻で、蒸し暑い日、その場所は彼の記憶にあるのとそっくりだった。記憶の中での場所はむしろ、いま夢に現れた場所よりもはるかに、ぼやけていたくらいである」(646

ラスコリニコフのこの夢は、一五歳の頃、進学のためモスクワからペテルブルグへ行く途中、ドストエフスキー自身が実際に目撃した「伝書使にまつわる」事件の回想と結びついていて、一八七六年一月の『作家の日記』には次のように記述されている。

「このいまわしい光景は一生涯、私の記憶に残った。私は伝書使とロシアの民衆の中にある多くの恥ずべき残酷さを、忘れようとしても、どうにも忘れる事ができなかった。その後も長い間、その理由の説明をつけようとしたが、もちろんそれはもうあまりに一面的にならざるをえなかった。<・・・>その光景はいわば、シンボルのようなもので、原因と結果の関係をきわめて如実に明示する象徴ともいうべきものであった」(下線―筆者2229

筆者は続けてこう語る。

「わが国の子供たちはいまわしい光景を見ながら育ち、大人になるのである。子供たちは、百姓が力に余る荷物を載せてぬかるみに足をとられた自分の痩せ馬、養い親ともいうべき存在の眼のあたりを鞭でぶつのを見るのである。さらに最近目撃したことであるが、大きな馬車に子牛を十頭ばかり載せて屠殺場に運ぶ百姓が、自分は落ち着きはらって、馬車の上の子牛にまたがっている。彼はクッションのきいたソファーに座っているようで。楽チンだろうが、痩せ馬は舌を出し、目をむきだして、屠殺場に行き着かないうちに、こと切れしてしまいそうな様子だった。<・・・>このような光景は間違いなく人間を野獣化し、とくに、子供たちには退廃的な影響をあたえるであろう」(222627

このように、ドストエフスキーは「思い出」に「原因と結果の関係」つまり「因果関係」を見出し、これらの結果が子供の教育、人間形成に及ぼす影響を強く憂慮したのである。

一八七六−一八七七年の『日記』で、ドストエフスキーはクロネベルグ事件、ジュンコフスキーの夫妻の事件に関心を向け、同時に「偶然の家族」について論じている。その際、作家の論調の基準をなすのは、子供たちの印象や記憶が彼らの将来に及ぼす影響についてである。クロネベルグ事件(父親が七歳の娘をあまりに手ひどく折檻した)について、ドストエフスキーはシベリア流刑の可能性を含む父親への刑事罰の宣告の妥当性に疑問を呈したのも、子供の記憶にあたえる影響の観点からであった。

「問われるべきは、いまは何も理解のいき届かない子供であるこの娘のその心に、後になって、生涯にわたって、その後、彼女が一生豊かになり、<幸せに>なったとしても、何が残るであろうかということである。ご承知のように、家族の神聖を守るべきはずの裁判が家庭を破壊しないであろうか?」(2251

これにくわえてドストエフスキーが憂慮するのは、七歳の<子供の秘密の素行不良>が公衆の前に明らかにされて、「何かの痕跡が生涯通じて残りはしないか。それも心に残るだけではなく、もしや彼女の運命にも影響しはしないかということである」(2251

ジュンコフスキー夫妻の事件(十三歳、十二歳、十一歳の三人の子供を虐待した罪を問われたが、無罪とされた)に関して、ドストエフスキーはこのような犯罪はロシアの家庭では「ごくありふれた日常的なできごと」と見なされていると指摘しながら、そこに「怠惰な家庭の問題」を鋭く洞察している。そのような家庭の発生に責任があるのは、怠惰な父親である、と作家は指摘する。<怠惰と無関心>を産み出す<社会の解体状況>の時代にあっては、そのような父親ほうが、<勤勉な>父親よりも、数が<はるかに多い>。

「偶然の家庭」の発生について、作家はこう指摘する。「家族に対する父親たちの怠惰のもとで、子供たちはもう極端な偶然にまかされるのだ!貧困、父親の心配ごとは幼年時代から、子供たちの心に、暗い情景、時として有毒きわまりない思い出として浮かび上がる」(25180

 ここで作家の関心はまたしても、記憶、思い出が子供の将来の人生にあたえる影響に向けられる。「子供たちははるか老年になっても、父親たちの心の狭さや家庭内でのもめごと、非難、にがい叱責、さらには彼らに対する呪いさえも思い出す<・・・>そしてその後も人生において長いこと、もしかしたら一生、その思い出の汚濁を緩和するすべもわからぬまま、自分の子供時代からは何一つ受けとることが出来ないで、そうした昔の人々を無闇に非難することになりがちである」(同)

ドストエフスキーの憂慮はさらにその先の深刻な問題に触れる。

「そうした子供たちの多くは思い出の汚濁だけではなく、汚濁そのものを携えて人生に乗り出していく。わざとといっていいほどに汚濁を蓄えて、ポケットに汚濁でいっぱいにし詰め込んで、旅立つのである。それというのも、後でそれを事にあたって利用するためで、しかも、その親のように苦しみ、歯がみしながらではなく、軽い気持ちでやってのけるためである」(同)

このようにして社会のモラルが低下するのを懸念しながら、作家はこう主張する。

「人間は肯定的なもの、美しいものの胚子を持たないで、子供時代を出て人生へと出発してはいけない。肯定的なもの、美しいものの胚子を持たせないで、子の世代を旅立たせてはいけない」(2581

このようなわけで、一八七六−一八七七年の『作家の日記』の主要なテーマの一つは思い出、とりわけ子供時代の思い出の意味づけにあるといえよう。そしてこれは『カラマーゾフの兄弟』の主要なイデーの一つに対応しているのである。

カラマーゾフ家の「偶然の家族」のなかで、人間の将来の人生にとっての思い出、幼年時代の記憶の重要な意味を体現するのがアリョーシャである。それは幼児の時、彼の記憶に刻みこまれた母親の顔で、「彼はまだほんの数え四歳の時に母親に先立たれたが、母親の顔、愛撫を生涯、覚えていて、<まるで母が私の前に生きて立っているかのようで>あった」(1418)ここで語り手は幼児の頃の思い出の深い意義について強調する。

「このような思い出は早い年齢、二歳頃からでさえも記憶に残り(このことは誰も知っている)、暗闇になかの明るいスポットのように、絵のキャンバスの一断片 ― その断片を除いて、全体が消え、消滅してしまった大きなキャンバスの断片のように、生涯を通じて、ひたすら浮かびあがるのである」(同)

語り手はアリョーシャが修道院への道を選んだのにも、幼時の思い出がもたらした結果である可能性さえもほのめかす。「彼の幼時の思い出のなかに、母親に連れられて礼拝に行ったわが郊外の修道院についての何かしらが残っていた可能性がある。ヒステリー女の母親がアリョーシャを抱えて聖像画に向かって差し伸べた時に、聖像画に射しこんでいた日没の斜めの光線が影響したのかもしれなかった。もの思いがちな彼はその時、もしかしたら、ただ一目見るためにわが町にやってきて<・・・>そして ― 修道院で長老に出会ったのである」(142526

このように、幼時期の思い出はアリョーシャの運命に影響したのである。ここで注目すべきは、この弟とは対照的に、兄のドミトリー、イワンには幼児期の思い出が与えられていないことである。アリョーシャと同じ母親から生まれ、三歳年上のイワンに母親の思い出がまったくないのは、奇妙とさえいえる。イワンの知的な精神構造から見れば、子供時代の思い出は意味を持ちえないということだろうか。

この論稿の最後に、『カラマーゾフの兄弟』の思想的な本質のある深い側面に注目しておきたい。それはドストエフスキーの人間学に関わる側面といってよい。ゾシマ長老は子供の時に聖書物語に出会ったことに関連させながら、こうのべている。

「両親の家庭から、私は大切な思い出だけをたずさえて巣立った。なぜなら、人間にとって、両親の家庭での最初の幼時期の思い出くらい貴重な思い出はないからである。それはほとんどいつもそうなのであって、家庭内に結びつきのほんのわずかな愛さえあれば足りるのである。もっとも劣悪な家庭の生まれであったとしても、大切な思い出というものは、本人の心がそれを探し出す力をもっているならば、心に保たれているものなのである」(14264

ゾシマ長老のこの遺訓をあたかも実践するかのように、小説の最終場面で、アリョーシャは石のそばで少年たちに演説する。「良き思い出、とりわけ子供時代から、とりわけ両親の家から抱いてきた思い出くらい先々、生きていくうえで、貴重で力強くて、健全で有益なものはないのですよ。教育ということについて、君たちもいろいろ耳にするでしょう。子供時代から保たれてきた何かそのような美しい神聖な思い出こそが、おそらく、この上ない良い教育なのです。生きるに当って、もしそのような思い出を沢山集めえたならば、人は生涯にわたって救われるのです。例えたった一つの良き思い出であっても、私たちの心に残っているならば、いつかは、わたしたちの救いに役立つのです」(15195

ここに私たちはドストエフスキーの最後の言葉:「思い出は人間を救う!」というモットーを聞く思いがするのである。この言葉に続くアリョーシャ・カラマーゾフの亡きイリューシャ少年に耳を傾けよう。

「彼のことを決して忘れないようにしましょう。彼に対して、私たちの心の中の良き記憶を捧げましょう、これから先、永久に!亡くなった少年に永遠の記憶を捧げましょう!」― アリョーシャのこの言葉は、記憶の力、思い出の力によって、死者たちをも蘇らせることが出来るというもう一つの重要な意味に導く。

アリョーシャのこの言葉を受けてのコーリャの問いかけ―「カラマーゾフさん! 宗教によれば、われわれは皆、死者からよみがえって、生き返り、お互いに再会できる、みんなとも、イリューシャとも会えるとのことですが、ほんとうでしょうか?」に答えて、アリョーシャは次のように答えるのである。私たちはみな、「かならずやよみがえります。かならずや再会します。そして、過去にあったことをすべて、お互いに楽しく、喜びにみちて話しあいましょう」(15197

このようにし見てくると、ドストエフスキーの文学において、「思い出」の概念はその最も深い意味においては、二つの世界の重要な架橋の意味をも担わされており、人間の宗教感情の基層に位置づけられているといえるのである。

 

※本文中の引用はすべてロシア語ナウカ版30巻全集(19721900)による。括弧内の数字は巻と頁を示す。