小説『弱い心』の秘密

−なぜ二人は互いに理解し合わなかったのか?−

                     

(初出:「ドストエーフスキイ広場」142005

 

 

『弱い心』は一八四八年、新進作家ドストエフスキーが、比較的軽いタッチの一連の短・中編小説(『ポルズンコフ』、『人妻と寝台の下の夫』、『正直な泥棒』、『クリスマスと結婚式』、『白夜』など)を矢継ぎ早に発表していた時期の中編小説である。

主人公のワーシャ・シュムコフは筆写を仕事とする下級官吏で、身体がゆがんでいるという肉体的な欠陥を持つ見栄えのしない青年であるが、突然、リーザという気だてのよい婚約者ができ、また上司の愛顧を得、特別の、期限つきの筆写の仕事もあたえられて、幸福感の絶頂にある。同居人の親友アルカージイがお節介なくらい世話を焼き、ワーシャは新年を間にはさんだ期間を、気もそぞろな状態で過ごす。浮ついた気分で時間を棒にふったワーシャは、指定された期限までに筆写の仕事を終えることができず、義務不履行のために兵役に送られるという幻覚に襲われ、発狂してしまう。

 

これが小説の粗筋で、小説の主題はワーシャの発狂の理由ということになるが、その解釈にはこれまで一つの類型があって、その一つには、ワーシャは上司からあたえられた義務を遂行できなかったという罪の意識と恐れにさいなまれたこと、もう一つには、彼は「感謝のために」破滅したのだというのが定説のようになっており、ほとんどすべての論者がこの解釈を踏襲している。 特に後者の理由は、ワーシャ自身が「ぼくはこんな幸福を受ける資格がない!<・・・> いったい何のためにこんな幸福を授かったのだろう」といい、アルカージイがワーシャの仕事が手につかない心理を説明して、「きみは自分が幸福なものだから、みんなが、それこそ一人残らずみんなの者が、一時に幸福になればいいと思うんだ。きみ一人だけが幸福になるのがつらいんだ、苦しいんだ!」とのべるところから、一見、疑問の余地がない印象をあたえる。

 ここから万人の幸福が実現できなければ、個人の幸福をいさぎよしとしないというユートピア社会主義者の夢想(モチュールスキイ)や、アルカージイが体験したネワ河の幻想に、他人の悲しみの観察者・同情者から世界の不合理への反逆者への形象の芽生え(ベーム)を見る論調を始めとして、現在にいたるまでの内外の論者のパターン化した解釈が導き出されるのである。

 

しかしテキストの構造に細心の注意をはらって読むならば、まったく異なる結論に導かれるであろう。まず注目すべきは、冒頭から登場する「作者」なる語り手の機能の後退(反<自然派>的、一元的な作者の権能の消滅)とアルカージイの視点の肥大化(彼のワーシャへの過剰な同一化とワーシャのネガテヴな身体反応、他者性の挑発)である。この二つの要素を押さえることによって、この小説が小官吏の発狂という当時の<自然派>的主題(ワーシャのテーマ)のみならず、アルカージイ(アルカージヤ=桃源郷)に体現されたユートピア社会主義の人間学的思想の破綻というもう一つの主題が浮かび上がってくるのが見えるはずである。この小説は二つの主題で構成されており、もしかしたらアルカージイの主題のほうが、この小説の意味としては深いといえるかもしれないのである。アルカージイがフルネームで紹介され、ワーシャが省略して呼ばれる不可解さも、この二つの主題の並行関係と無縁ではない。

 

通常は飛ばし読みしてしまうであろう小説冒頭の奇妙な叙述の部分に、じつはこの小説を解く重要な鍵が潜んでいる。

「一つの屋根の下、同じアパート部屋の同じ階に、アルカージイ・イワーノヴィチ・ネフェデーヴィチとヴァーシャ・シュムコフという二人の同僚が住んでいた・・・なぜ一人がフルネームで呼ばれ、もう一人が略称で呼ばれるかを読者に説明する必要を、作者はもちろん感じている。それはせめても、例えば、そのような表記法が無作法であり、幾分、なれなれし過ぎると見なされないためにも必要である。しかしそのためには、登場人物の官等、年齢、地位、職務、はては性格までも前もって説明しなければなるまい。しかし、まさにそのような始めかたをする作家が多いので、この小説の作者は、彼等に似たくないばかりに(つまりは、おそらく誰や彼がいうであろうように、方図のない自惚れの結果として)(傍点・木下)注1、いきなり、出来事から始めることにする。」

 この叙述が重要なのは、ロシアの研究者V.トゥニマーノフ氏が指摘するように、『貧しき人々』での華々しい文壇登場の後の、ドストエフスキーの「自惚れ」をからかった、トゥルゲーネフやネクラーソフなどベリンスキー一派を皮肉りながら、同時に、当時支配的であった自然派のスタイルにドストエフスキーが挑戦状をたたきつけていることである。トゥニマーノフ氏の言葉を引こう。

 「彼(ドストエフスキー)は生理学的な描写の部分を極度に省略し、反対に象徴的な出来事の部分を強めながら、「自然派的」小説のジャンルを、内側から改変しようとした。生きた「事件」としての対話が作者の言葉を押し退けてしまった。小説の対話の機能も変化し、通常、作品の表出描写に当たるものを、対話が吸収してしまった(まさしく対話の中でワーシャ・シュムコフの性格を自分の友人に対しても、また読者に対しても、説明するのはアルカージイ・イワーノヴィチである)。『弱い心』にも、官吏小説のほとんどすべての伝統的な要素が見られるが、それらは目立たないように、線描画され、対話の中に溶かし込まれている。『弱い心』の芸術的構造は、「自然派的」もしくは「生理学的」小説のタイプで形作られたものに真っ向から対立するものである」注2

 このようにして、「自然派的」方法に挑戦状を突きつけた<全知の>作者は早々と前景から退場し、楽屋裏に引っ込んで、人物達の状況を説明する権能を控えてしまう。その後、作者に代わって二三度登場する一人称なる語り手<>は、シュムコフがリーザにプレゼントする帽子の見立てに関して、くだらない饒舌に熱中して、語り手としてのその権威を損なってしまう。その代わりに、前面に出て、ワーシャについての説明で、重きをなしていくのがアルカージイである。

 

ワーシャの心理を解説するアルカージイの、よく知られている言葉はこうである。「きみは自分が幸福なものだから、みんなが、それこそ一人残らずみんなの者が、一時に幸福になればいいと思うんだ。きみは一人だけ幸福になるのがつらいんだ、苦しいんだ!だもんだから、きみは今すぐ全力を挙げて、この幸福に値するだけのものになろうと思って、おそらく自分の良心を休めるために、何か難行苦行でもしかねない勢いなんだ! いや、そりゃぼくにもよくわかっているよ。きみは自分の勤勉ぶりと、才能と・・・それから、なんだ、感謝の念さえ示さなくっちゃならない場合に、きみ自身にいわせれば、不意に味噌をつけてしまったので、それできみは自分を苦しめてるに相違ない」注3

 アルカージイのモノローグ体でのもうひとつの解説はこうである。「ワーシャは自分の義務を履行しなかったので、自分自身に対して悪いことをしたと感じている、そこが問題なのである。ワーシャは自分を運命に対して恩知らずと感じている。幸福に圧倒され震撼されて、自分はその幸福に値しないものだと思い込み、それを証明する口実を探し出したにすぎない」

 アルカージイのこの言葉はワーシャ自身の言葉、また作者の言葉よりも声高に響き、その結果、読者はワーシャの破滅の原因を、自分ひとり幸福となることを罪と感じる、ユートピア的な人間観・平等思想の、心弱き犠牲者というふうな解釈に導かれる。

アルカージイがコンミューン、つまりユートピア的な共同体の理念を体現した人物であろうことは、その名の意味(アルカジヤ=桃源郷)からも推測されるが、彼は小説のはじめから終わりまで、ワーシャに対して、しつこいくらいお節介な、無邪気な善意の人間として振舞う。小説は全編、アルカージイのみならず、すべての人物、なかでも上司ユリアン・マスターコヴィチのワーシャ・シュムコフに対する同情と憐憫の雰囲気で充たされている。シュムコフを取巻く小さな世界はユートピア的な主観共同に染め上げられている。ただ限られた期限までに筆写の仕事を終えなければならないという、仕事上の問題だけが、彼の夢想と平安を脅かすだけである。

 

さて今度はアルカージイの楽天的な善意からの働きかけや提案に対するワーシャの反応はどうであったか。この点に関して、蔭の<全知>の作者の明確な声が響くのは、小説のフィナーレの部分である。「二人はお互いにとびかかって、最後の抱擁を交わした。二人はつらそうに抱きしめ合った。・・・それは見るのも痛ましい光景だった。なんという突拍子もない不幸が、彼らの目から涙を絞り取ったことか!いったい彼らは何を泣いたのか?この災厄はどこに潜んでいるのか?なぜ二人は互いに理解し合わなかったのか?」

 この蔭の作者の言葉から読み取れるのは、二人の親友同士の、見かけは親密かつ信頼にみちた友愛の間柄にもかかわらず、ワーシャの側においては、いつの間にか、アルカージイとの間に隠された無意識の葛藤が高まっていったという事実である。

 もちろんワーシャはアルカージイとの間のこの葛藤を、自らに意識することを禁じていた。しかし事実が物語るところでは、小説の幕開きの時から、ワーシャの人間的な尊厳はアルカージイによって、危機にさらされようとしていた。それは自分の婚約について、アルカージイにあらたまって真剣に打ち明けようとするワーシャに対して、アルカージイは冗談めかしてふざけかかり、せっかくのワーシャの気分を損なってしまったことにはじまる。ワーシャはいささかむっとし、「なかば笑いながらも」こう抗議する。「きみは善良だ、ぼくの親友だ、これはちゃんとわかっている。ぼくは何もいえないくらいの喜びと内心の感動をいだいて帰ってきたんだぜ。それだのに、ぼくは寝台の上で横向きになりながら、威厳を失ってきみに打明けなければならなかった。ねえ、アルカーシャ」とワーシャは半ば笑いながらつづけた。「これではまったく滑稽な恰好じゃないか。<・・・> ぼくとしてはこのことを卑しめるわけにはいかなかった。たとえきみが相手の名前を聞いたとしても、 誓っていうが、殺されたってぼくは、答えはしない。」 しかし、善良な心の持ち主ワーシャはアルカージイに不快な気持ちを述べつくすことはできず、反対に、相手に迎合するような、善意の気持ちをのべる。

「たくさんだよ!たくさんだよ!これはただちょっといってみただけさ。<・・・> これというのもつまり、つまりぼくが善良だからさ。ただぼくはね、きみに思った通りを話し、喜びを分かち、幸福をもたらし、よく語り、立派にぼくの秘密をうち明けられなかったのがいまいましかっただけさ・・・むろん、アルカーシャ、ぼくはきみを愛してるさ。きみがいなかったら結婚もしやしないし、第一、この世に生きていないだろうと思うくらいだ!」 「弱い心」の善良な若者ワーシャはアルカージイの善意と友情に疑問を抱かないのみか、結婚した後の共同生活さえも提案する。もちろん、ワーシャにもアルカージイ同様に、コンミューン的な共同生活のユートピア幻想が無縁ではない。しかし、ワーシャにはじょじょに、アルカージイとの間に、無意識の不協和音が響きはじめる。それが顕著になるのは、二人で婚約者のリーザの家を訪ねて、彼女に会った後のアルカージイが、語り手の叙述によると、「アルカージイ・イワーノヴィチは首ったけ、命も惜しくないほど、リーザに惚れこんでしまったのである!」という状態になり、自らも次のようなセリフをはくにいたるくだりである。「ぼくはきみを愛するのと同様に、彼女を愛する。あれはきみの天使であると同時に、ぼくの天使だ。というのはきみの幸福がぼくの上にまで溢れて、ぼくを温めてくれるからだ。あれはまたぼくにとっても主婦だよ。ワーシャ、ぼくの幸福は彼女の手中にある。きみの主婦役をやるように、ぼくの主婦役もさせてくれたまえ。きみへの友情は、同時に彼女への友情だ。こうなったら、きみたち夫婦はぼくにとって区別できない。ただ、ぼくはきみのような人間を一人ではなく、二人持つことになるだけだ・・・」

 こうしたアルカージイの無邪気な有頂天ぶりに対するワーシャの反応が注目される。

「ワーシャはは彼の言葉に心の底まで揺り動かされた。というのは、アルカージイからこんな言葉を聞こうとは、夢にも予期していなかったからである」 語り手はここで、ワーシャの内面をこれ以上覗き込もうとはせず、アルカージイが「空想的なことなどは頭から嫌いであった」にもかかわらず、「「いまはいとも楽しく、いとも新鮮な、いとも輝かしい空想にふけりだしたのである!」とのべる。そもそも、当のアルカージイこそが、ワーシャのことを「空想家」と名づけるのである。(「君の心の中がどうなっているか、ちゃんと承知しているよ。何しろ、ぼくらはもう五年間もいっしょに暮らしているんだからね! きみは実に善良な優しい男だが、どうも弱すぎるよ <・・・> おまけにきみは空想家だろう」

 アルカージイは明らかに、『地下室の手記』の主人公がいう、内省を知らない「直情径行」の人間であり、彼の度を過ぎたお節介が友を苦しめていることを自覚していない。それのみならず、アルカージイは旧ゴリヤードキンの地位を奪い、彼を発狂に至らしめた新ゴリャードキンを思わせる分身の役を演じているように思われる。アルカージイがワーシャの婚約者のリーザの前に現れた時の場面が注目される。

「彼女の驚きと突然な羞恥の発作は想像するに難しくない。というのは、ワーシャの真後ろに、まるでその影に隠れようとでもするように、いささか照れ気味のアルカージイ・イワーノヴィチが立っていたからである」

 この場面のあと、語り手の説明が続くが、それはアルカージイが女性に対しては不器用で、彼の置かれた立場は具合の悪いものであるとか、語り手「私」はワーシャの度が過ぎた感激性のために、時々間が悪くなることがあるとか、といった饒舌で、さらにはワーシャがリーザにプレゼントした帽子についてのとりとめのない、長口舌が続く。語り手なる「私」はここで完全に権威を失墜させているといっていい。肝心の場面での彼の関心事は「帽子」で、次いで、語り手の叙述はアルカージイの賛美に向けられる。

「アルカージイ・イワーノヴィチは完全に自己の体面を保った。筆者(わたし=Я) は喜んで彼のために賛辞を呈する。それはほとんど彼から期待できなかったことである。ワーシャのことをふた言み言話した後、後は巧みにワーシャの恩人ユリアン・マスターコヴィチのことに話しを移していった。彼は実にきのきいた話し方をしたので、一時間たっても話しは尽きなかった」 このようにして、アルカージイはリーザとその老母をすっかりとりこにしてしまう。リーザはワーシャの後見役としてのアルカージイに深く感謝し、「私達は三人で一人の人間のようになりましょうね」(傍点・木下)Мы будем втроём жить как один человек!»)  と、共同生活すら提案するのである。この言葉を彼女は、「無邪気きわまりない感動にかられて叫んだ」(вскричала она в пренаивном восторге) とコメントがつけられている。

  ここで注目すべきは、この間、ワーシャは文字通り、楽屋裏に置かれていたことである。これから先、中心的人物として振舞うのはアルカージイである。ワーシャの状態の描写はワーシャに必要な仕事の態勢を監督するアルカージイの視点からなされる。「今はただぼくのもとで頑張れよ(держись)、頑張るんだ。ぼくがきみを監督する。今日も、明日も、夜通し鞭を持って張り番して、無理にも仕事をさせるんだ。やっちまえ! きみ、早く片付けちまえ!」

 アルカージイはワーシャに新年の挨拶のため、自分が身代わりでユリアン・マスターコヴィチとリーザのアルテミエフ家に挨拶に行くことさえも提案する。アルカージイの申し出と行為が善意の友情からでていることは疑いない。それゆえ、ワーシャは親友の言葉を深い感謝の念で受けとめざるをえない。しかし、彼の心の奥では何かちぐはぐの反応が起きている。彼のアルカージイとユリアン・マスターコヴィチへ、そして自分の運命への過度の感謝がすでに何か別の事態を物語っている。時々、ワーシャには、アルカージイの言葉と行為に対する、謎めいた反応が起きるようになる。とりわけアルカージイはその意味をつかめない。「アルカージイ・イワノヴィチも不安になってきた。彼の矢継ぎ早な質問に対して、ワーシャはろくろく返事もせず、面倒くさそうにふた言み言吐き出したり、時にはまったく取ってもつかぬ簡単ですますこともあった。<・・・>「ああ、おしゃべりはもうたくさんだ!」とワーシャは腹さえ立てて答えた」「ワーシャはそれに答えず、何かぶつぶつ独り言をいった。二人は極度の不安のうちに、わが家までたどりついた。<・・・>彼(アルカージイ)はなんだか恐ろしくなってきた・・・「いったいどうしたんだだろう?」ワーシャの青ざめた顔やらんらんと燃えるような目や、一つ一つの動作に現れる焦燥を見ながら、彼はひとりごちた」

 これらの叙述はすべて、ワーシャが家で仕事に取り掛かった時の場面に関連している。したがって、ワーシャを苦しめているのは彼の仕事の差し迫った事情であって、そのために彼はアルカージイに対しても不機嫌な態度をとり、アルカージイはというと、問題の解決のために、親身の手助けをしているという印象をあたえる。実際にアルカージイはワーシャのことを心配し、こう助言したりする。―「少し眠るほうがよくはないかい?まあ、見ろ、きみはいま熱病にかかってるんだぜ・・・」 この助言に対して、「ワーシャはいまいましげに、悪意さえこめた目つきでアルカージイを見たが、返事はしなかった」と記されている。

 アルカージイに対するワーシャのこのような不快な反応の表現は突発的かつ断片的、かつ表面的な印象をあたえるため、二人の友情関係は覆されることなく、アルカージイのお節介は続く。アルカージイは友を救わなければならないと主観的に考えるが、蔭の作者は彼の独り善がりを見逃さない。「「あいつを救ってやらなけりゃならない。救ってやらなきゃ!」 実際のところ、つまらない家庭内(内輪の)のちょっとした不快事(домашние неприятности)を、自分ひとりで仰山に不幸化しているのに、自分でも気がつかないで、アルカージイはこんなことを口走っていた」

 蔭の作者によるこのアイロニカルなコメントは、二人の間に深刻な心理的不和が存在することを暗示している。それを示すのがさらなる事件である。ワーシャの代わりにアルカージイが上司のユリアン・マスターコヴィチの年賀に行くという申し合わせにもかかわらず、アルカージイが行ってみると、驚いたことに、上司の玄関の訪問者名簿に、すでにワーシャの署名があったことである。心配したアルカージイが駆け足で家へ向かう途中、「ネワ河のほとりで、鼻と鼻をぶっつけないばかりに、シュムコフと行き当たった」 ワーシャもまた走っていた。こうした叙述からうかがわれるのは、ワーシャが完全にパニック状態に陥っているということである。「アルカージイ、ぼくに何が起きているのかわからないのだよ、ぼくは・・・」と、彼はいう。それに対して、脳天気なアルカージイはこういって慰める。「たくさんだよ、ワーシャ、たくさんだよ!それがどういうことだか、ぼくにはちゃんと分かっている。気を落ちつけてくれ、きみは昨日以来興奮して、気が顛倒しているんだよ! <・・・>みんながきみを愛していて、きみのために世話をやいているんだから、きみの仕事もはかどるわけじゃないか。あんな仕事なんかすぐ片付くよ、きっとかたづくよ。きみは何か変な妄想を起こしているのだよ、何か恐怖病にかかっているんだ・・・」

 アルカージイは以前ワーシャが官職についた時、「喜びと感謝で」一週間ばかり棒にふった前例を挙げて、慰める。それに対してワーシャはこう答える「そうだ、そうだ、アルカージイ。だけど今はそれとは違うんだよ。今はまるっきり別のことなんだ・・・」といい、こう続ける。「きみがいなくて、ぼくは一人だとじっと座っておれないんだ。今は、きみがこうして一緒にいるので、ぼくは座っておれるんだ」

 いまや何がワーシャを脅かしているか、明らかである。ワーシャを不安にしているのは、アルカージイのお節介な後見によって、自分の自立性が侵害され、自分の許婚と職場のポストさえも奪われようとしていることである。楽屋裏で響きはじめるのは、分身による立場の剥奪と潜称のモチーフである。アルカージイのワーシャに対する過度の同一化はワーシャの感覚に、親友に対する「他者性」の意識をめばえさせはじめる。アルカージイは自分の善意の別の面を、最後まで意識しない。

「ワーシャ!ぼくがきみを救ってやる。もうすっかり事情が飲みこめた。こいつは冗談ではないよ。ぼくがきみを救ってみせる! いいかい、ぼくは明日にもユリアン・マスターコヴィチのところへいってくるよ・・・<・・・> きみがどんなにしょげかえって(убит)、どんなに煩悶しているかってことを、よく説明するから」

 アルカージイのこの申し出に対して、ワーシャは否定的な返事をする。「「きみは知るまいが、きみこそぼくを叩きのめそうとしているんだよ」(<Знаешь ли, что ты уже теперь убиваешь меня ?>)と、驚きのあまり全身を冷たくしながら、ワーシャはこういった」 ワーシャのこのような厳しい反応にもかかわらず、お人よしで「直情径行」の人間アルカージイは、ワーシャの心理についての自分の解釈を展開する。「まあ、聞いてくれ! どうも見たところ、ぼくはきみの気に入らないことをいっているらしい。なにぼくだってきみの気持ちはわかるよ。きみの心のなかがどうなっているか、ちゃんと承知しているよ。何しろ、ぼくらはもう五年間も一緒に暮らしているんだからね。きみは実に善良な優しい男だが、どうも弱すぎるよ。箸にも棒にもかからないほど弱い人間だよ<・・・> おまけにきみは空想家だろう」 こうのべて、ワーシャが何を欲しているかについて、アルカージイは自分の観察をのべる。

 このアルカージイの観察こそが、ワーシャの破滅の原因として一般に流通している解釈にほかならない。すでに前に挙げた、ワーシャの破滅の原因を、自分ひとり幸福となることを罪と感じる、ユートピア的な人間観・平等思想の、心弱き犠牲者というふうな解釈である。(「きみは自分が幸福なものだから、みんなが、それこそ一人残らずみんなの者が、一時に幸福になればいいと思うんだ。きみは一人だけ幸福になるのがつらいんだ、苦しいんだ!だもんだから、きみは今すぐ全力を挙げて、この幸福に値するだけのものになろうと思って、おそらく自分の良心を休めるために、何か難行苦行でもしかねない勢いなんだ! いや、そりゃぼくにもよくわかっているよ。きみは自分の勤勉ぶりと、才能と・・・それから、なんだ、感謝の念さえ示さなくっちゃならない場合に、きみ自身にいわせれば、不意に味噌をつけてしまったので、それできみは自分を苦しめてるに相違ない」)

友人のこの解釈に対して、ワーシャは積極的な反応をしない。「ワーシャは愛情に充ちた目つきで、親友を見つめていた。微笑がその唇をすべった」。さらにアルカージイは「ぼくがきみのために犠牲になるよ」といって、ワーシャの代わりにユリアン・マスターコヴィチのところへ、赦しを乞いに行くことを申しでる。ワーシャは「目に涙を浮かべ、アルカージイの手を握り締めながら」、その申し出を断る。「たくさんだよ、アルカージイ、たくさんだよ、<・・・> きみが行くのだけはよしてくれ・・・ これだけは聞いてくれ」と。しかしアルカージイは、あたかもワーシャの立場に立つかのように(「ぼくはきみの言葉で話しているのさ」(<Я по твоим словам говорил>)といって、自分の提案を撤回しない。それに対するワーシャの反応はこうであった。「ワーシャは疑わしそうに頭を振った。けれども感謝するようなまなざしを親友の顔から離さなかった」

 ここまでくると、ワーシャの弱い心に内在する不協和音は次のような言葉となって、溢れ出る。「ぼくは前からきみに聞こうと思っていたのだが、どうしてそんなにぼくをよく知っているんだね?」、「それにアルカージイ、きみの愛情さえもぼくをうちのめそうとしていたのを知らなかったのかい? (<даже твоя любовь меня убивала>) <.・・・> それというのも、・・・まあ、つまり、きみがそれほどまでに愛してくれるのに、ぼくは何一つきみに返礼が出来ず、自分の気持が楽になるようなことが出来なかったのだからね」

 ワーシャのこの心理の機微を理解する上では、『貧しき人々』のワルワーラがジェーヴシュキンを、結婚準備のくだらない用事で店を駆けずりまわさせる最終場面について、若きドストエフスキーの創作のすぐれた理解者であった批評家のワレリアン・マイコフが指摘している言葉がぴったりと当てはまる。注4

「当然のことながら、ジェーヴシキンの愛はワルワーラに、おそらく彼女が自分自身にさえもつねに強く押し隠していた嫌悪感を催させないではおかなかったのである。私達が負い目を負わされており、しかもなお(あろうことに!)、こちらを愛してくれている人に対する嫌悪をこらえなければならないくらい苦しいことは、この世にないであろう。自分の記憶をちょっと振り返ってみるだけでも、このうえもない反発を感じるのは、決して敵に対してではなく、献身的に自分に心服してくれてはいるが、自分のほうでは心底から同じように報いてはやれない相手に対してであることが思い出せるであろう。ワルワーラは自分の絶望的な貧困よりもジェーヴシキンの忠誠ぶりに悩まされたと思えてならない。それで彼女は彼に、下僕の役を何度か勤めさせることによって彼を苦しめ、それでやっと、厄介な後見からの自由を感じたのだ。 執心ぶりが見てとれる強要に長い間悩まされ、自分の同情心の踏みにじられた自立をとりもどすべく、いずれ踏み出そうともしないといのは、人間にとって不自然である。とはいえ、どうだろうか? このような事実を理解するに堪ええない感傷的な人々は、ワルワーラ・アレクセーエヴナがステップ地帯への出発を前にして、マカール・アレクセーヴィチにお手紙を書いて、彼のことを友とも、なつかしい人とも呼んでいることでもって、慰めを得るのである」

 ヴァレリアン・マイコフのこの言葉に照らしてみれば、ワーシャシュムコフの状況は明らかになるであろう。と同時に、ドストエフスキー文学の出発当初からの主要なテーマの一つである「他者性」の問題が浮かび上がる。この同じ場面で、ワーシャは意味深い告白を続ける。「実はね、ぼくはこういうことをいいたかったのさ。ぼくは以前、自分というものがわからなかつたらしい、― 本当に! それに他人というものも、つい昨日やっとわかったような始末だ。(傍点・木下)ぼくはね、きみ、それを感じなかったのだ。完全に評価できなかったのだ。ぼくは・・・心臓までこつこつだったからね・・・どうしてそんなことになったか知らないが、ぼくはこの世の誰にも良いことをしてやらなかった。そういうことが出来なかったからだ。ぼくは見かけだって感じがよくないからね(傍点・木下)・・・ところが、みんなはぼくに良いことをしてくれたんだ。きみなんか第一番だ。それがぼくに見えないと思うかい。ぼくはただ黙っていたんだ。ただ黙っていただけなんだよ!」

 楽天的で善意の「直情径行的」人間、アルカージイはワーシャに対する自分の心理的強制を最後まで自覚しない。ワーシャのこのような遠まわしの忌避の言葉のあとでさえも、友の苦しみの原因につての自分の解釈に疑いをはさまないで、こう思いこむ。「ワーシャは自分の義務を履行しなかったので、自分自身に対して(傍点・原文)悪いことをしたと感じている。それが問題なのである。ワーシャは自分を運命に対して恩知らずだと感じている。幸福に圧倒されて、震撼されて、自分はその幸福に値しないものだと思いこみ、それを証明する口実を探し出したにすぎない。つまり、昨日以来、思いがけない幸福のために、正気に返ることができない、- これが真相なのだ! アルカージイ・イワーノヴィチはこう考えた。あの男を救わなければならない、自分で自身を責めさいなむ心を和らげなければならない。あの男は自分で自分を葬っているのだ」

 アルカージイはまさしく昨日以来、ワーシャに生じたこと、つまり、アルカージイの側からの同情的態度に「他者性」を意識し、自分で自分を冷たい他者の目で眺め、自分は「見かけだって感じがよくない」と意識し始めたことに考えが及ばない。

 ここまでくれば、ワーシャの悲劇の原因がどこにあるかは明らかである。それは別の角度から見れば、アルカージイのユートピア的人間観の悲劇でもある。とはいえ、ワーシャの破滅の原因の秘密は、アルカージイには最後まで明らかにされない。友が発狂した後でさえ、アルカージイはユートピア的夢想にすがり、「みんなが不幸なワーシャの兄弟で、みんなが同じように彼のことで心を傷め、彼のために泣いているような気がしたのである」

 上司のユリアン・マスターコヴィチが「なんだってこの男は気が狂ったのだ?」とたずねたのに対し、アルカージイは「感―感―謝のためです!」と答えるが、蔭の作者はこれに次のようなコメントをはさむ。「みんなは納得のいかない様子でこの答えを聞いた。だれもが、奇妙な、信じがたいものに思われたのである」注5

 その先、親友同士の最後の別れの場面を、蔭の作者は、きわめて重みのある、感情のこもった言葉で、悲劇的に語るのである。

「二人はお互いにとびかかって、最後の抱擁を交わした。二人はつらそうに抱きしめ合った。・・・それは見るのも痛ましい光景だった。なんという突拍子もない不幸が、彼らの目から涙を絞り取ったことか!いったい彼らは何を泣いたのか?この災厄はどこに潜んでいるのか?なぜ二人は互いに理解し合わなかったのか?」(傍点・木下)

 

 小説のストーリイ、筋立ての上での主人公は言うまでもなくワーシャ・シュムコフであるが、理念的な主題構成の面での主人公はまぎれもなくアルカージイ・イワーノヴィチ・ネフェデーヴィチであるといえよう。一八四〇年代の小官吏を描いた常套的なテーマがユートピア的人間思想の危機のテーマに改変されたのである。小説冒頭部で、作者がなぜか「一人の主人公がフルネームで呼ばれ、片方の主人公が省略した名で呼ばれているか」の説明を回避したのを思いだそう。その原因は、私の考えでは、小説の主題の二重構成において、それぞれの主人公は別々のプランに属しているからである。一人は風俗的なプラン、もう一人は思想的なプランに。

 ネワ河畔でアルカージイが見る神秘的な光景は小説に深い意味を付与している。フェイエトン(時事戯評文)「詩と散文におけるぺテルブルグの夢」(一八六一)に同じ記述が見られることは、これがドストエフスキーの伝記的な要素をもっていることをうかがわせる。

この神秘的なパノラマの描写のあとの、アルカージイの不可思議な未知の感触の部分がフェイエトンではこう叙述されている。「私はその瞬間、今まで心の中にうごめいていたばかりで、まだ意味のつかめなかったあるものを悟った。それはさながら、何か、新しいあるもの、ぜんぜん新しい未知の世界を洞察したかのようであった(как будто прозрел во что-то новое, совершенно в новый мир) その世界はただ何かぼんやりしたうわさによって、何か神秘的なしるしによって、かすかに知っていたものである。ほかならぬその時以来、私の存在がはじまったものと考える」

 このくだりから推定できることは、フェイエトニスト(戯評文作者=若きドストエフスキー=ユートピスト)は、日常的な経験知によっては捉えきれない、カント的意味での「物自体」の世界、すなわち「可想的世界」に遭遇したのであって、それゆえ、直ちに次のような反問を提示しないではおれなかったのである。「「諸君、一つうかがいますが、私は空想家ではないでしょうか?そもそも少年時代からの神秘家ではないでしょうか?そこに何のできごとがあるのだろう?はたして何が生じたのか?何もありはしない、まったく何一つない。それはただの感触(ощущение)であって、その他はすべて平穏無事なのである」つまり日常経験的には何事も起こっていない事情を物語っている。そうしてさらに、この感触(ощущение)を筆者は、видение(ヴイーデニエ=洞察、ヴィデーニエ=幻想)と名づける。アクセントの位置によって二重の意味にとれるこの単語を使って、作者はこうのべる。「さてそれ以来、あのвидение(ヴーィデニエ=洞察、ヴィデーニエ=幻想)を見て以来(私はネワ河の感触(ощущение)видениеとなづける)私はしじゅうそういった奇妙なことを経験するようになった」注6

 

 このあと話は空想家、幻想家のテーマで展開するが、видение の第一の意味、つまり「見ること、洞察」(ヴーィデニエ)の意味がここでは重要であろう。すくなくとも、アルカージイの「感触」は「洞察」であったはずである。注7 直情径行のユートピスト、アルカージイは生まれてはじめて、「洞察・видение」の「感触」に遭遇し、日常経験的な「ありきたりの理性」では透徹できない別種の世界が存在することを洞察したのである。ネワ河の幻想的な奇怪な光景、地上的な秩序・構成が蒸気のように消滅し、崩壊する幻想はアルカージイの意識に他界からの力が浸入してきたことを象徴していよう。その結果として、彼は自分の意に反してのワーシャに対する自分の罪を意識したのであろう。彼のこの内面的危機を表現しているのが、次のくだりである。「彼のふるえて、目は急に燃え立った。彼は見る見るうちに青ざめてきた。この瞬間、何か新しいものを洞察した( как будто прозрел во что-то новое) ような具合だった・・・」 このショックのあと、彼は「気難しい退屈な男になって、いままでの快活さを失ってしまった。もとの住居がいやでたまらなくなったので、彼はほかへ引っ越した。コロムナの家へは行こうと思わなかったし、それに足が向かなかった」 

フェイエトンの作者は「この時以来、私の存在がはじまった」とのべる。このネワ河の経験の伝記的要素はこのようにして、ドストエフスキー文学固有の人間学的思想の深まりを暗示するものとなった。そしてさらに小説『弱い心』の構造は、『白痴』や『悪霊』など後期の長編に見られる「権威のない語り手」、「語り手的登場人物」、「蔭の作者」などの視点と声の交差するより複雑なポリフォニー的小説構成の特徴を早くもうかがわせるものであって、ドストエフスキーの創作の本質を理解する上では、きわめて重要な作品といえるのである。

 

 



この部分の訳は邦訳でも各人各様で、いずれも文脈に正しくはまった適切な訳とはいいがたい。米川訳「本文の作者はただ彼らを模倣するものといわれたくないばっかりに(とんでもない自惚れの結果、そんなことをいうものがいないとも限らない)」、小沼訳「この物語の作者は、ただただ彼らの亜流となりたくないばかりに(というのは、底知れぬ自惚れの結果、ひょっとするとそんなことを言い出すものがいないともかぎらないので)」、工藤精一郎訳(新潮社版)「この物語の作者は、ひとえに彼らに倣いたくないために(こんな態度を、ある人びとは、限りない自尊心の結果だなどと言うかもしれないが)」

ロシア語原文=< автор предлагаемой повести, единственно для того чтоб не походить на них (то есть, как скажут, может быть, некоторые, вследствие неограниченного своего самолюбия)>

注2 V・A トゥニマーノフ「S・P ポベドノスチェフの『可愛い人』とF・M・ドストエフスキーの『弱い心』」、「ドストエフスキー、資料と研究8」1988、レニングラード、245頁。論者は一八四〇年代の自然派の作家S.P ポベドノスチェフの中編『可愛い人』(«Милочка») に発狂した小官吏の主人公が書類書きに追われて空ペンを走らせる場面があることから、ドストエフスキーが自作に取り入れた可能性を指摘している。

注3 以下、『弱い心』からの引用は米川正夫訳(河出書房新社、愛憎決定版、全集二)を使用する

注4 ヴァレリアン・マイコフ(182347)は、ドストエフスキーが1846年『貧しき人々』によって文壇登場後、『分身』、『プロハルチン氏』などが、ベリンスキーの辛らつな批判にさらさられていた時期、ドストエフスキーの才能の本質を鋭く洞察し、高く評価していた批評家だった。しかしドストエフスキーの初期の数少ない作品を知るのみで、四七年夏、水浴中、心臓麻痺で、二四歳で早世した。彼の思想については、拙著『ドストエフスキー・その対話的世界』(成文社刊)、五八―六八頁参照のこと。

注5 この蔭の作者のコメントは、常套的な解釈に対する一種の「異化」といえるが、この場面でのワーシャの同僚に当たる「一人の小柄な男」の奇妙な言動もそのようなもとして理解できる。「彼にいわせれば、これはけっしてつまらない事件ではなく、かなり重大な出来事だから、このままうっちゃってはおけないのである」

注6 видение は米川訳では「幻想」、小沼訳では「まぼろし」、染谷訳(新潮社)は「ヴィジョン」

注7 ネワ河の幻想の直前、アルカージイが日暮れのネワ河に向けた視線は「物事の本質に透徹するような、見透かすような視線」(пронзительный взгляд)であったことにも留意しておきたい。 米川訳では「鋭い視線」