亀山郁夫の著書について疑問に思うこと

                          冷牟田幸子  (2006.1/5

 

 

     「テクストというのは、いったん作家の手を離れたが最後・・・独立した自由な生き物になるのです」として、亀山氏は通説にとらわれない大胆な仮説を立て、テクスト、創作ノート、研究書を都合よく引用して客観的根拠とし、「真理」に仕立てあげている。作品をどのように解体しても自由だが、事実を歪曲したり、文献を恣意的に用いることには疑問を感じる。数あるなかから二、三具体例を挙げてみよう。

 

   .「告白」の文書は、「スタヴローギンの告白 ――チーホンの許で――」の章の一部であり、スタヴローギンを論ずるのに、チーホンとの意味深い会話を無視して「告白」に終始するのは問題であろう。そこからは、氏が提示する醜悪かつ傲慢なスタヴローギン像(「みずらが神の立場に立ち、神のまなざしで世界を見つめる快感に酔いしれる」スタヴローギン)を導きやすい。「告白」のもつポリフォニックな側面を考慮しないのだからなおさらである。チーホンとの会話で明らかなように、スタヴローギンは「告白」において素面を隠すために過度に自分を醜悪冷酷に描いている。だが氏は、告白とは「本来的に独白的、モノローグ的」として、スタヴローギンの言葉を額面通りに受けとめ、悪魔的な部分のみを拡大解釈する。スタヴローギンの良心的な一面を表す「(マトリョーシャの像を)呼び起こさずにはすまない」という文章は、氏のテクストであるアカデミー版にもあるのに、氏は「感傷」といい「校正刷ないしアカデミー版の精神からするとほとんど裏切りに近い逸脱」といって取り上げようとしない。氏は、スタヴローギンがなぜ「告白」を書いたのか考えられたことがあるのだろうか。単に自分の悪をひけらかすためではない、悔悟の道としてその公表の苦痛に堪えようとして書いたことを。「「告白」が、口頭ではなく、印刷物をとおして行われるという異様さ」に驚く氏には、「告白」の文書による公表の意味はまったく問題になっていないのであろう。

     

  二、「14歳、危険な年齢」とあるように、亀山氏は終始マトリョーシャの年齢を「14歳」としている。昨今、メディアをにぎわしている「14歳」を意識してのことだろう。しかし、本書のテクストで明記されているのは「10歳」であり、本書を読む限り、なぜ「14歳」なのかと疑う。校正刷では、冒頭マトリョーシャを紹介する個所で「彼らの娘」のあとに「14歳ぐらいだと思うが」の一句があったが消されている。また、「10歳」も校正刷で消されている。ここからわかることは、マトリョーシャは「子どもこどもした娘」であることで十分で、ドストエフスキーは彼女の年齢にこだわっていないということだろう。氏の強引さを感じる。

     

  三、「告白」には、校正刷とその修正、そしてアンナ夫人による筆写版がある。その理由は、『悪霊』の掲載誌の編集長カトコフに、内容が「家庭向きの雑誌にふさわしくない」として掲載を拒否され、スタヴローギン理解の要である「告白」の章を何としてでも作品に入れたいと、ドストエフスキーが、カトコフの意に沿うように加筆削除を施したからである。そのため、スタヴローギンの悪魔的な印象は弱められ、宗教性が強調されることになった。

亀山氏は、「その作業はもはや改作というよりも改悪」であるという。しかし。ドストエフスキーは初めから、「ふさぎの虫のために身を持ちくずしたが、しかし良心的で、生まれ変わってふたたび信仰を持つようになりたいと、受難者のように必死の努力を続けている人間のタイプ」(リュビーモフ宛書簡)としてスタヴローギンを描こうとしたのであって、校正刷の修正は、本来「告白」の章以後で明らかにされるはずの意味づけをかいま見せたにすぎない。「問題の本質をそのままにしておいて編集部の潔癖な方針を満足させる程度に本文を変え」たのである(ソーニャ宛書簡)。修正の結果、「告白」の主人公について「わが国の、ロシアの典型です」とまで言い切ることになるのです」と亀山氏はいうが、この「わが国のロシアの典型です」の一句は、『悪霊』第一部をカトコフに送ったときのドストエフスキーの言葉で、「告白」の章とは関係なく当初からスタヴローギンを規定していることが分かる。亀山氏の固執する上記の醜悪・傲慢なスタヴローギン像は、氏のひとりよがりとしかいいようがない。

またアンナ夫人の介在の可能性が否定できないことも、氏が修正の大きい筆写版を斥けた理由の一つにしているが、それは無用の憶測であろう。ドストエフスキーはマイコフ宛の手紙で「小生の仕事に関しては(アンナは)審判者ではありません」といっている。彼女の関与は考えられない。氏も認めているように「私が頭のなかで抱いているスタヴローギン像により近いほうを選」んだというのが実情だろう。自分のスタヴローギン像の肉付けに都合がよければ、ためらうことなく筆写版からも引用しているのであるから。

     

以上のことからも分かるように、筆者のイメージがすべてに先行している。初めに結論ありきで、しかも、その結論が「真理」として読者を納得させるように、論拠として文献が巧みに用いられている。ここでは、さまざまな工夫をこらした知的な作品が、極めて単純化されてしまっているように思う。初めて『悪霊』を本書で知って、いったい何人の人が作品を読みたいと思うだろうか。