ドストエフスキーの「聖地」スターラヤ・ルッサ

木下豊房

 スターラヤ・ルッサはロシアの古都ノヴゴロドからイリメニ湖を間にはさんで、およそ100キロの距離にある古い田舎町である。毎年5月の最後の週になると、国内、旧ソ連圏、また外国のドストエフスキー研究者がこの町に集まってくる。この時期になると、長い冬の眠りから覚めた自然は一気に息吹き、樹木の新緑で町一面が被われる。とりわけドストエフスキー家の別荘博物館のあるポーリスチ川からペレルイチツァ川にいたる辺りは鏡のような水面に柳などの新緑が映え、ことのほか静謐の美しさが感じられる。「聖なるロシア」という言葉がふとイメージされる雰囲気である。(写真下)

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  ドストエフスキー一家がこの土地を初めて訪れたのは1872年の5月18日で、夫妻はこの自然環境が大変気に入り、その後数年は借家をしながら夏を過ごし、1876年5月には現在の博物館にあたる二階建ての木造の建物を入手した。ペテルブルグのクズネチヌイ横丁にいたるまでの住居が常に借家であった以上、スターラヤ・ルッサのこの別荘が生涯を通じてドストエフスキーの唯一の持ち家であった。1981年5月にここに記念博物館が設けられ、85年から5月の最後の週に“чтения”と称する研究集会が開かれるようになって、今年は17回を迎えた。(写真下 別荘博物館。フョードル・カラマーゾフの家のモデルとされる − ドミトリーが乗り越えた塀)

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  私はこの3月で千葉大学を定年退職し自由な身分になったのを幸い、現役であれば勤めを離れづらいこの時期、久しぶりにスターラヤ・ルッサへ出かけることにした。1986年7月、曾孫のドミトリー・ドストエフスキーの案内で初めて博物館を訪れて以来、1994年、1996年には研究集会にも参加したし、私にとって今回は初めての訪問ではなかったのである。毎年、研究集会の開催日は一定しないが、今年は5月23日〜26日が会期であった。

  5月22日に成田を発った私は、同日夕刻、3時間弱の乗り換え時間を利用してシェレメーチェヴォからレニングラード駅へ移動、ロシアの研究者達と合流し、プスコフ行きの夜行列車でルッサへ向かった。白夜の時期にさしかかっているとはいえ、早朝5時前のまだ空は白々として明けきれぬホームで他の車両から降りてきた仲間たちと落ち合い、保養所(курорт)差しまわしのミニバスで宿舎に向かった。

  そもそもスターラヤ・ルッサは2世紀ほども前から温泉地として有名で、とりわけ保養所の泥浴療法には特効があるとされている。白樺、からまつ林の中に点在する保養所の施設が、私達、参加者の宿舎であった。早朝一眠りして5階の宿舎の窓を開けた時、目の前に壁のように迫る白樺林の新緑の若葉の圧倒的な輝きに、私は一瞬、息をのんだ。力強い生のよみがえりという思いにうたれ、なぜか直感的にドストエフスキー文学の理念の根底に触れるような思いがした。この感じがスターラヤ・ルッサの風土とドストエフスキーの関係にある種の聖性のニュアンスをあたえているのではないかと思ったのは、もう少しあとのことである。

  11時に開会式と聞かされていたので、会場へ出かけると、閑散として人影がまばらである。そこで渡されたプログラムによると、8時から10時半までゲオルギエフ教会で祈祷式のミサが予定されていて、皆はまだそこから戻ってきていないのであった。早朝に到着した私達を、気をきかせてこのプログラムからはずしてくれていたらしいが、私は以前、このミサに立ち会った時のことを思い出した。あの時はミサの開始と終わりを告げる鐘が延々と軽やかに鳴りわたり、荘重な儀式がおこなわれる教会の中庭にいて、私はその雰囲気にすっかり魅了されたものだった。

  このゲオルゲエフ教会は別荘博物館のほど近くにあって、晩年のドストエフスキーとは親密な関係にあったらしい。1872年に最初にドストエフスキーがこの町に来た時はこの教会の主任司祭ルミャンツエフの家に間借りしたし、またこの司祭はドストエフスキーの懺悔聴聞僧でもあったという。そういう関係もあって、スターラヤ・ルッサではペテルブルグやモスクワその他のゆかりの土地では見られないほど、正教とドストエフスキーというテーマが重みを持つようである。開会式と閉会式には市当局の関係者と並んで黒い僧服姿の主任司祭が挨拶した。また僧服姿の神父が会議のプログラムに参加し、報告もすれば議論にも参加した。(写真下)

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  例年「ドストエフスキーと現代」と題するこの研究報告会はその性格からして報告のテーマに制約はなく、実に多岐にわたる。またプログラムには実に60本の報告が掲げられていたが、実際に参加した報告者はその三分の二程度であったろうか。日本からは私が「ナスターシャ・フィリッポヴナの心理の地下室的要素と『白痴』の主題の展開におけるその機能」と題して報告し、モスクワ大で留学中の東大院生の小林銀河君が「『白痴』の登場人物の表情描写の役割について」と題して報告した。今回の集会に限っては、外国人参加者は私達日本人だけだった。会議の基調音としてはやはりドストエフスキーの「宗教性」、「正教性」ということであったかと思われる。ここにはやはり、教会がスポンサーとして関係してきているという問題もあるようで、ロシア人研究者の中でも、教会の関与を否定的に見る人もいて、私にもこの問題で意見を求められた。

  ここでスターラヤ・ルッサの風土、そして作家の晩年との関係に思いがおよんだのである。この土地の自然と教会の持つ聖性は否応なしにドストエフスキーに投影されざるをえないということであろうか。ロシアの代表的な研究者の一人V.ザハーロフは閉会式でこう挨拶した。スターラヤ・ルッサは自分達ドストエフスキー研究者にとっては「聖地(святое место)」であり、年に一度、「聖地巡礼(паломничество)」の思いをこめてここへやってくる、のだと。この時私が確信したのは、ドストエフスキー一家が冬のペテルブルグからやってきていたこの5月末の目もあざやかな新緑の、生のよみがえりの季節という自然の聖性がそこには大きな役割をはたしているに違いないということであった。

 ゲオルギー教会の裏手にドストエフスキーの銅像が出現したのも驚きであった。膝を組んで沈思する坐像である。(写真下)

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 ちなみにドストエフスキーはこの土地で『悪霊』の一部と『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』の相当部分を書いたが、とりわけ最後の小説の主要な舞台はこの町だとされている。別荘そのものがフョードル・カラマーゾフの家のモデルであり、ドミトリーが乗り越えた塀もあれば、スメルジャーシチナがスメルジャコフを生んだとされる風呂小屋もあれば、川向こうのグルーシェンカの家、カチェリーナの家、イワンがアリョーシャに「大審問官物語」を語った料理屋もあれば、さらにはフョードルがスメルジャーシチナを暴行した草むら、アリョーシャが少年達に演説した時に立った石まであるということになっていて、博物館のスタッフがトポグラフィカルに興味深く案内してくれる。

 スターラヤ・ルッサの後、私は曾孫ドミトリー・ドストエフスキーの車でペテルブルグまで送ってもらい、3泊滞在した後、5月30日にモスクワへ行ったが、ここでようやく待望の、2000年8月千葉大・国際ドストエフスキー研究集会の報告論集の試し刷り3冊を手にすることが出来た。これはロシア・ドストエフスキー協会副会長で、文芸誌「ズナーミャ」編集部のカレン・ステパニャンに編集を依頼して、モスクワの出版社からの刊行を進めていて、すでに予定より1年遅れとなっていたものである。「ドストエフスキーの眼で見た21世紀人類の展望」というのがその書名で、560頁。ロシア語を基調とし、英語、ドイツ語のテクストにはロシア語訳が付されている。発行部数1500部。日本では「日ソ」の取り扱いで3500円で販売中である。(写真下 右からペテルブルグ・ドストエフスキー博物館館長アシンバーエヴァ女史、ドミトリー・ドストエフスキー、ロシア文学研究所トゥニマーノフ氏、私)(写真下 2000年8月、千葉大・国際ドストエフスキー研究集会報告論集)

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このページは「成文社」のホームページ掲載「リレーエッセイ」 第47回から転載したものである。