ドストエーフスキイの会 ニュースレター No.141 News Letter of Japanese Dostoevsky Society 2017.6.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 (Tel&Fax:047-448-9213) Home
page: http://www.ne.jp/asahi/dost/jds
平成28年度 収支計算書 (平成28年5月6日〜平成29年5月5日) 会計 近藤靖宏 監査 渡辺好明
|
|
ドストエーフスキイの会 ニュースレター No.140 News Letter of Japanese Dostoevsky Society 2017.4.20 ----------------------------------------------------------------- 事務局・〒273―0853 船橋市金杉9-17-2 木下方 (Tel&Fax:047-448-9213) Home page:
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds
報告者紹介:清水孝純(しみず たかよし) ドストエフスキー研究ははるか昔からのことで、『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』論その他道化論をこれまで発表してきました。現在は作品論を進める一方で、「現代とドストエフスキー」という問題を中心に研究を重ねてきており、D・H・ロレンス、ベルジャーエフ、中村雄二郎との関係を考察し、また昨年には『キリスト教文学研究』にドストエフスキーの終末論的予言性をヒトラーのカリスマの中に見るという論文を発表しています。IDSのシンポジウムにもたびたび参加して発表を行ってきました。漱石についても、ドストエフスキーとの対比を試みたりしています。 ニュースレター140 2017―――――――2――――――――――――― 第239回例会報告要旨 悪魔のヴォードヴィル−『悪霊』における悪魔の戦略― 清水孝純 『悪霊』においてドストエフスキーは、ニヒリズムをその極点において捉えた。『悪霊』では真の主人公はニヒリズムという悪霊に他ならない。『白痴』もまたニヒリズムが主人公とは言えたが、しかしそこではニヒリズムはまだ隠れた主人公だったかと思う。イッポリートを除いてほかの登場人物はニヒリズムに侵食されてはいるものの、なお他の情熱に囚われている。作品中唯一ニヒリストといえるイッポリートにしても、自殺未遂後彼はかなり積極的に彼を取り巻く人間関係の中に入ってゆくのだ。ナスターシャ・フィリッポーヴナとアグラーヤといういわば恋敵同士を対決させる手引きをするのもイッポリートなのだ。というのも、イッポリートの若さは、なおニヒリズムを徹底させるには生命力に富んでいたというべきだろう。 『白痴』においていわば隠れた主人公ニヒリズムが、俄然主人公としてその恐るべき姿を現すのは『悪霊』においてだ。姿だって?ニヒリズムに姿があるのか?あるはずはない。ニヒリズムは人間に憑りつくものであって、形あるものではあり得ない。やはり一種の精霊というべきもの、否定する精霊、つまり悪霊なのだ。しかし悪霊の恐るべきところは、その憑依の巧みさといえるだろう。悪霊に憑かれ乍ら、悪霊による憑依を疑うどころか否定の力を自身のうちから得たものとして振る舞う。その否定の行使において、懐疑逡巡はない。こうして憑かれたものは、群れをなし、そこに否定のユートピアをつくる。この楽園、否定が放恣な姿を取って、観客を楽しませるこの喜劇的世界、そこでは背徳的なもの、醜悪なもの、思い切って野卑下劣なものが、高貴なるものと入れ混じり、妖しげに人の眼を魅了する。これこそ悪魔の演出する喜劇的世界といえる。通常の喜劇が人間社会を風刺、批評するのに対してここではそのような風刺性、批評性はない。なぜなら、そこではプロットそのものに笑いが仕掛けられている。プロット自体が既に社会に対する否定であり、嘲笑なのだ。観客を楽しませるのは、その否定の、また嘲笑のグロテスクなることだ。この喜劇はヴォードヴィルと呼ぶのがふさわしい。 ヴォードヴィルとはフランスで発達した一種の軽喜劇だ。1830年ごろはフランスで大いにもてはやされたものだ。ロシアにもそれが入って、ヴォードヴィルが創られ、上演される。グリボエドフ、ネクラーソフも手掛けている。ではドストエフスキーはどうか。V・N・ザハロフは『ドストエフスキー 美学・詩学要覧』(1997)の「モチーフとしてのヴォードヴィル」の項でドストエフスキーにおけるヴォードヴィルの受容について述べているが、ドストエフスキーの文学では、「他人の妻とベッドの下の夫」「スチェパンチコーヴォ村とその住人達」「伯父さまの夢」などをあげている。さらに興味深いことには、『悪霊』で、自殺直前キリーロフがピョートルに言ったこの遊星の世界は「悪魔のヴォードヴィル」という ―――――――――――3――――――――――ニュースレター140 2017 表現に注目している。キリーロフはここで何故ヴォードヴィルという言葉を使ったのか。ヴォ―ドヴィルは邦訳では喜劇、茶番劇と訳されたりもする。なるほど「悪魔の喜劇」でも十分わかる。しかし元来喜劇は人間社会の愚劣・欠陥に対して鋭い批評をもって挑むものである以上、ポジティブに世界を描こうとするものだろう。しかし悪魔という否定の霊にとってその愚劣・欠陥こそ人間破壊のこよなき手掛かりであり、足掛かりなのだ。その愚劣・欠陥をこそ逆に賛美することを通して、それを拡大し、終局的には破壊へと導くことこそ、その狡猾極まりない戦略なのだ。戦略にふさわしい喜劇の様式こそヴォードヴィルといえるのではないか。『悪霊』を改めて「悪魔のヴォードヴィル」という視点から眺めて見る時、『悪霊』における悪魔の戦略もあぶり出されてくるのではないか。 第238回例会傍聴記 木下豊房氏の「『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題―イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって―」を聴く 大木貞幸 『カラマーゾフの兄弟』への旧約「ヨブ記」の影響の解明に向けた、序説とも云うべき考察として興味深く拝聴した。ネット検索を駆使した、先行研究への幅広い目配りにまず圧倒された。浅学を顧みず木下氏の展開を辿り、また福井勝也氏が教示されたユングの『ヨブへの答え』を踏まえながら、感想を記したい。 木下氏は、イワンが神の世界の否定の根拠とした子供に及ぶ「罪の連帯性」の概念への異和感から、当代ロシアにおける「連帯」概念を検証する。就中、カサートキナの考察から、ゾシマに連なる「連帯」=「つながり」における罪概念と、イワンの罪概念の抽象性の対照を摘出する。また、東西教会の「原罪」、「洗礼」の概念において、カトリックの恩寵―自然の対立と正教における自然崇拝の要素を指摘し、カサートキナの「ヨブ記」考察に即して、ヨブの友人たちの第三者的な位置、応報論的なヨブの罪の非難にイワンの罪概念を重ね、自然崇拝の視点から描かれたゾシマの罪概念がヨブの「立場」に近いと結論づける。 ついで、氏はこのゾシマ像のロシア正教における源流を探り、作家がオプチナの長老たちの「セライム派」、ロシア人の敬虔な信仰の流れを探り当て、その輪郭を予言的に延長したものだとする。特に、同時代のアムブローシイの共苦、行動する愛、神への誠信などの教説には外面的類似以上のものがあるとし、さらに全ての被造物への神の慈愛と苦行の犠牲の愛、神秘的主題においてシリアのイサク・シーリン、自然描写の繊細な抒情性においてチーホン・ザドンスキーとの連続性を認める。 今回あらためて「ヨブ記」に言及するゾシマの説教を読み返し、心に沁みるものを感じるとともに、小説にはここそこに「ヨブ記」の主題が投影されていると思われた。スメルヂャコフの「まだ腹の中にいるとき自殺したかった」はヨブの ニュースレター140 2017 ――――――――4――――――――――――― 「何故あなたは私を胎から出されたのか」からとられ、第7篇におけるアレクセイの「抗議」、「神は最も必要な瞬間そのみ手を隠した」は、己の不義と罪に関して問うヨブの「何故あなたはみ顔を隠」すのか、の弱められた主題のようでもある。もしかすると、イワンの「大審問官」の構想は、命を賭けて神に抗議しつつ、耳でなく眼前に顕現した神に屈服するヨブの主題の転倒した適用なのかも知れない。 ユングの著作は、独自の心理学の立場からユダヤ―キリスト教を結ぶ試みであ る。ユングはヨブの屈服において、人間の道義がヤハウェに勝ったとし、ここから旧約の神の「人間化」(「ソフィア」の再想起と「人の子」の準備)が始まり、十字架上のイエスの神への呼びかけに至って、神はヨブへの「答え」を果たしたとする。さらに、ヨハネにおいて暴虐と愛の神の二面性、「太陽の女」(ソフィアに連なる神の「母」)の幻視、聖霊による神の受肉の一層の進展を望み、前世紀の「マリア被昇天」の教義公布へと結ぶ。 ユングの云う「神」は神のイメージであり、「神の人間化」は集合的無意識の元型と意識化の相克と交差の脈絡にある。これをかりに旧約的「主題」と新約的「構成」の両軸ととらえれば、小説への聖書の「影響」の考察に関して示唆的である。例えば上述のごとくに「ヨブ記」の主題群が小説に投影されているのだとすれば、スメルヂャコフの究極の自己否定はイワンとの分身関係とイエス―ユダの類比的構成と交差し、アレクセイの躓きはゾシマ像の構成的な分裂を暗示するように思える。感激に満ちたゾシマの教えは、彼とミハイルのイエス―ペテロに擬えうる関係と交差し、このことによってゾシマの伝記の「謎」が残りつづけているのではないか。また作者は、「大審問官」における主題論的な「失敗」を転じて、横軸とも云うべき福音書の構成に踏み込んだのではないか――。 なお、ユングの考察は神と人間、恩寵と自然の対立を前提するカトリックを対象としており、神と人間と自然の神秘的な融和をとる正教に関しては留保が必要と思われる。 事務局便り ◎4月15日発行、発送の「広場」26号がお手許に届いていることでしょう。質量ともに充実した内容の、読み応えのある一冊に仕上がったかと思います。表紙の絵はこれまで通り、故小山田チカエさんですが、デザインは渡辺夫妻で、会心の作かと思います。7月の例会が合評会となります。ご精読の上、多くの会員にご参加いただきたいものです。 ◎4月3日にサンクト・ペテルブルグのセンナヤ広場近くの地下鉄で起きたテロ事件はやはり衝撃でした。『罪と罰』の舞台とされ、作家自身も居住した場所に近く、文学博物館にも隣接する地域であるところから、博物館館長はじめ友人達、ドミトリー・ドストエフスキーにお見舞のメールを送りました。ドミトリーからは「8人家族全員無事だ。あなたもお元気で!」の返事がきました。 |
|
|