ドストエーフスキイの会

ニュースレター No.141

News Letter of Japanese Dostoevsky Society       2017.6.20

 

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事務局・〒2730853 船橋市金杉9-17-2 木下方 

TelFax047-448-9213

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240回例会のご案内

      

 

今回は『広場』26号の合評会となりますが、論評者の報告時間を10分程度とし、エッセイの論評も数分に制限して自由討議の時間を多くとりました。記載されている以外のエッセイや書評などに関しても、会場からのご発言は自由です。多くの皆様のご参加をお待ちしています。

                        

日 時 2017715日(土)午後2時〜5

 
場 所神宮前穏田区民会館 第2会議室(2F

        пF03-3407-1807 (会場場所変更、ご注意ください!)

 

掲載主要論文とエッセイの論評者

 

熊谷論文 ラスコーリニコフの深き欲望 ――太田香子氏
金沢論文  ドストエフスキーと「気球」 ――高橋誠一郎氏
チホミーロフ論文 「思想家達の形象による」思索の問題――

熊谷のぶよし氏
杉里論文  《貶められ辱められた子ども》の絶望と救済――

近藤靖宏氏
芦川論文  イワン・カラマーゾフのキリスト ―大木貞幸氏
エッセイ:冷牟田、清水、西野、石田、学会報告―フリートーク

 

司会 高橋誠一郎氏(+近藤靖宏氏)

 

*会員無料・一般参加者−500

 

 

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239回例会傍聴記

 

清水孝純氏の「悪魔のヴォードヴィル−『悪霊』における悪魔の戦略−」を聴いて

石田民雄

 

「『悪霊』においてドストエフスキーは、ニヒリズムをその極点において捉えた」と今例会報告要旨の冒頭に記されている。清水氏はその著書『道化の風景』の中で、『悪霊』を「無神論の究極的帰結、《神がなければ一切が許される》がこの作品を貫く根本的主題」だとしていて、その視座を「道化が演じる反世界的空間」から「悪魔が演出する喜劇的世界」へと変遷させて、そのニヒリズムの行方を射程に置いた。「ニヒリズムは人間に憑りつくものであって形あるものではあり得ない存在であり、それは一種の精霊というべきもの、否定する精霊、つまり悪霊なのだ(報告要旨)」と清水氏はニヒリズムを規定し、悪霊の本領は憑依の巧みさにあるのだとする。人間は悪霊に憑かれながら自身が悪霊に憑依、占領されていることに疑問を持つことなく否定する力を自身から得たものとして振る舞い、群棲し、そこに否定のユートピアを建設してしまう。無何有郷としてのこの楽園は否定という力が放恣な姿を取って、観客を楽しませる喜劇的世界を創出するのである。この世界では背徳的なもの、醜悪なもの、野卑下劣なものが、高貴なものと入り混じり、怪しげに人間の眼を魅了する。これこそが悪魔の演出する喜劇的世界なのである。通常の喜劇が人間社会を風刺、批評するのに対し『悪霊』ではそのような風刺性、批評性は存在しないとし、そこではプロットそのものに笑いが仕掛けられていて、プロット自体が既に社会に対する否定であり、嘲笑なのだとする。この喜劇が観客を楽しませるのは、プロット自体が否定のグロテスクになること、さらに嘲笑のグロテスクになることであり、この喜劇はヴォードヴィルと呼ぶのがふさわしいとする。

つづいて清水氏はヴォードヴィルの発達史とドストエフスキー文学におけるヴォードヴィルの受容の変遷および『悪霊』との連関に触れ、自殺直前のキリーロフの「この遊星の法則そのものが虚偽なのだ、悪魔の喜劇(ヴォードヴィル)なのだ」という台詞を示して、キリーロフは何故喜劇、茶番劇ではなくヴォードヴィルという言葉を使ったのかと問題提起する。元来喜劇は人間社会の愚劣・欠陥に対する風刺、批評であるので、世界をポジティブに描こうとするものだが、悪魔という否定の霊にとって人間社会の愚劣・欠陥こそ人間破壊のよき手掛かり、足掛かりとなるのだ。その愚劣・欠陥を逆に賛美することを通し、それを拡大し、終局的には破壊へと導くことが悪魔の狡猾極まりない戦略なのであって、この戦略にふさわしい喜劇の様式こそヴォードヴィルであり、『悪霊』を改めて「悪魔のヴォードヴィル」という視点から眺めてみる時、『悪霊』における悪魔の戦略―それは憑依するニヒリズム―もあぶり出されてくるとする。

なお清水氏はレジュメの第一章「5大小説のなかでの『悪霊』の特徴」で、「感情移入することのできる人物の欠如」を掲げているがその根拠は示されなかった。

これは「スタヴローギンの性格を理知判断でなく、場面と行動で、残らずスケッチする(カタコフ宛の書簡)」というドストエフスキーの創作上の「戦略」によ

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るところが大きく作用しているものと思われる。今報告の終盤において「悪霊」であることを越えようとした唯一の人物は、人神思想によるニヒリズムの超克を目指したキリーロフであるとし、さらに第五章「『悪霊』における〈悪魔のヴォードヴィル〉の大団円」において、死に至る悪霊たちに触れ、ピョートルのみはデラシネの世界に生き残る唯一の人物であり、二十一世紀の現代社会にも生き続けていることを示唆し、最終章「『悪霊』 このドストエフスキー風黙示録変奏曲」で『悪霊』におけるスタヴローギンの役割について、究極のニヒリズムの体現者であるとともに十字架を背負うキリストでもあるとするところが、『悪霊』をドストエフスキー風の黙示録的な変奏曲としていることを指し示して、今例会報告が結ばれた。

 

清水孝純氏の「悪魔のヴォードヴィル−『悪霊』における悪魔の戦略−」を聴く

長瀬 隆

 

(前文15900字省略、全文は長瀬HPnagasetarbou.my.coocan.jp>に掲載)ペレヴェルゼフは1921年ドストエフスキー文庫の解封にあたり、初めて「スタヴローギンの告白」を読み、『悪霊』への理解を深めた。かくて1922年、生誕百年記念の行事を主催し、基調報告をおこなった。革命後の現実のなかで目撃することになった小市民的な、すなわち左翼小児病的な「革命性」の噴出が、『悪霊』において予見されていたことを示し、その剔抉の必要を説いたその全編が『悪霊』論である「ドストエフスキーと革命」が出現した。そしてその年の『ドストエフスキーの創造』の革命後の初に、「序文に代えて」と括弧して注記しそれをまさに冒頭に掲げた。(拙訳書では時間性を配慮して末尾に掲げている)。「悪魔のヴォードヴィル」の語は『悪霊』ではキリ―ロフの言葉として出てくるのであるが、『創造』本体の時点でペレヴェルゼフにはこれには触れず、1922年の論文の時点で、これが『悪霊』の創作方法となっていることを指摘したのだった。このことの重要さはサラースキナによっても十分には把握されてはいない、と私は考えてきた。

 こうした経緯がある以上。私は清水報告の表題に格別な関心を抱き傍聴したのは当然だった。しかしすぐに氏がペレヴェルゼフについては何も知らず読まずに話されていることが分かった。私としては不満だったが、退屈することはなく、最後まで謹聴している。それはなぜだったか。

ソ連崩壊後ドストエフスキーをヨハネ黙示録に引き付けて論ずる一般的な風潮が存し、それは『チェルノブイリの祈り』のアレクシェーヴィチにまで及んでいる。しかし、この書の全面的否定者に、第一次世界大戦後のロレンスがおり、私は『ドストエフスキーとは何か』(2008,成文社)ではこれを援用している。清水氏のニューレター上の著者紹介にはロレンス関連の論攷があることが述べられていて、これが聞けるのではないかと期待したからだった。

 ドストエフスキー文学のヴォードヴィル的手法は『悪霊』で突然現れたのではなくて、『ステパンチコヴォ村』の退役大佐ロスターネフその他に早くから現れていたとする指摘は正しかった。しかしそれ以上に重要なのはドストエフスキー

 

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には出発当初から変装趣味があったことで、第二作には「貴族出の乞食」だの「仮面」等の言葉が散見される。小市民を主人公として出発しつつ、地主貴族をも登

場させなければならなくなって、作家はこれを利用・実践している。すなわち精神内容において小市民の人物に地主貴族の衣装を纏わさした。その嚆矢がロスターネフであり、以後、ムィシキン、スタヴローギン、ヴェルシ―ロフと続く。それは作中(記録)作家の登場と手を携えており、両者は密接不可分の関係にあるのだが、清水氏はこれを「悪魔の策略」と捉えているようだ。とすると『悪霊』では登場人物でもある「私」=アントン・ゲーこそが「策略者=悪魔」ということになるのであり、私はこの人物こそもっとも論じられなければならない存在と考えてきた。しかし清水氏はその前で立ち止まっているように見受けられる。

「感情移入することの出来る人物の欠如」と作品の特徴が定義されたが、集団による一人の元同志の陰惨な殺害を主題としている以上、仕方のないことであった。しかしそれさえもヴォードヴィルとして描こうとしたのであって、悲憤慷慨していない作者の冷静な手さばきは、やはりスゴイと思わざるをえない。清水氏の問題提起は先行者としてはペレヴェルゼフがいるだけの珍しい試みであって、この会では話題になること少なかったキリ―ロフに焦点を当てたことが非常に良く、チェーホフへの言及を含め、私としては共感して聴いた箇所は多々あった。

 

事務局だより

 

520日に例会に先だって、第48回総会を開き、会計報告その他、全会一致で承認されました。

 

 

 

平成28年度 収支計算書

(平成2856日〜平成2955日)    会計 近藤靖宏

                            監査 渡辺好明

前年度繰越

517,635

支出の部

 

 

 

 郵便料・送料

31,446

収入の部

 

 『広場』制作費

246,390

 会費収入

218,000

 ニュースレター制作費

46,546

 例会会場費収入

14,500

 例会会場借料等

20,400

 『広場』売上

6,240

 消耗品費

0

 『広場』掲載料

69,650

 運営費

21,290

 雑収入

4

 雑費

202

 収入計

308,394

 支出計

366,274

 

 

翌年度繰越

459,755

前年度繰越+収入計

826,029

支出計+翌年度繰越

826,029

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ドストエーフスキイの会

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48回総会と239回例会のご案内

      

           

    下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                          

 

日 時2017520日(土)午後1時30分〜5

           

場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   пF03-3402-7854 

     第一会議室

総会

       午後130分から40分程度、終わり次第に例会

    議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

 

報告者:清水孝純氏

 

題 目: 悪魔のヴォードヴィル 『悪霊』における悪魔の戦略

 

                          

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

 

報告者紹介:清水孝純(しみず たかよし)

 

ドストエフスキー研究ははるか昔からのことで、『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』論その他道化論をこれまで発表してきました。現在は作品論を進める一方で、「現代とドストエフスキー」という問題を中心に研究を重ねてきており、DH・ロレンス、ベルジャーエフ、中村雄二郎との関係を考察し、また昨年には『キリスト教文学研究』にドストエフスキーの終末論的予言性をヒトラーのカリスマの中に見るという論文を発表しています。IDSのシンポジウムにもたびたび参加して発表を行ってきました。漱石についても、ドストエフスキーとの対比を試みたりしています。

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239回例会報告要旨

 

悪魔のヴォードヴィル−『悪霊』における悪魔の戦略―

 

                     清水孝純

 

『悪霊』においてドストエフスキーは、ニヒリズムをその極点において捉えた。『悪霊』では真の主人公はニヒリズムという悪霊に他ならない。『白痴』もまたニヒリズムが主人公とは言えたが、しかしそこではニヒリズムはまだ隠れた主人公だったかと思う。イッポリートを除いてほかの登場人物はニヒリズムに侵食されてはいるものの、なお他の情熱に囚われている。作品中唯一ニヒリストといえるイッポリートにしても、自殺未遂後彼はかなり積極的に彼を取り巻く人間関係の中に入ってゆくのだ。ナスターシャ・フィリッポーヴナとアグラーヤといういわば恋敵同士を対決させる手引きをするのもイッポリートなのだ。というのも、イッポリートの若さは、なおニヒリズムを徹底させるには生命力に富んでいたというべきだろう。

『白痴』においていわば隠れた主人公ニヒリズムが、俄然主人公としてその恐るべき姿を現すのは『悪霊』においてだ。姿だって?ニヒリズムに姿があるのか?あるはずはない。ニヒリズムは人間に憑りつくものであって、形あるものではあり得ない。やはり一種の精霊というべきもの、否定する精霊、つまり悪霊なのだ。しかし悪霊の恐るべきところは、その憑依の巧みさといえるだろう。悪霊に憑かれ乍ら、悪霊による憑依を疑うどころか否定の力を自身のうちから得たものとして振る舞う。その否定の行使において、懐疑逡巡はない。こうして憑かれたものは、群れをなし、そこに否定のユートピアをつくる。この楽園、否定が放恣な姿を取って、観客を楽しませるこの喜劇的世界、そこでは背徳的なもの、醜悪なもの、思い切って野卑下劣なものが、高貴なるものと入れ混じり、妖しげに人の眼を魅了する。これこそ悪魔の演出する喜劇的世界といえる。通常の喜劇が人間社会を風刺、批評するのに対してここではそのような風刺性、批評性はない。なぜなら、そこではプロットそのものに笑いが仕掛けられている。プロット自体が既に社会に対する否定であり、嘲笑なのだ。観客を楽しませるのは、その否定の、また嘲笑のグロテスクなることだ。この喜劇はヴォードヴィルと呼ぶのがふさわしい。

ヴォードヴィルとはフランスで発達した一種の軽喜劇だ。1830年ごろはフランスで大いにもてはやされたものだ。ロシアにもそれが入って、ヴォードヴィルが創られ、上演される。グリボエドフ、ネクラーソフも手掛けている。ではドストエフスキーはどうか。VN・ザハロフは『ドストエフスキー 美学・詩学要覧』(1997)の「モチーフとしてのヴォードヴィル」の項でドストエフスキーにおけるヴォードヴィルの受容について述べているが、ドストエフスキーの文学では、「他人の妻とベッドの下の夫」「スチェパンチコーヴォ村とその住人達」「伯父さまの夢」などをあげている。さらに興味深いことには、『悪霊』で、自殺直前キリーロフがピョートルに言ったこの遊星の世界は「悪魔のヴォードヴィル」という

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表現に注目している。キリーロフはここで何故ヴォードヴィルという言葉を使ったのか。ヴォ―ドヴィルは邦訳では喜劇、茶番劇と訳されたりもする。なるほど「悪魔の喜劇」でも十分わかる。しかし元来喜劇は人間社会の愚劣・欠陥に対して鋭い批評をもって挑むものである以上、ポジティブに世界を描こうとするものだろう。しかし悪魔という否定の霊にとってその愚劣・欠陥こそ人間破壊のこよなき手掛かりであり、足掛かりなのだ。その愚劣・欠陥をこそ逆に賛美することを通して、それを拡大し、終局的には破壊へと導くことこそ、その狡猾極まりない戦略なのだ。戦略にふさわしい喜劇の様式こそヴォードヴィルといえるのではないか。『悪霊』を改めて「悪魔のヴォードヴィル」という視点から眺めて見る時、『悪霊』における悪魔の戦略もあぶり出されてくるのではないか。

 

238回例会傍聴記

 

 木下豊房氏の「『カラマーゾフの兄弟』における「ヨブ記」の主題―イワン・カラマーゾフとゾシマ長老の「罪」の概念をめぐって―」を聴く

 

                            大木貞幸

 

 『カラマーゾフの兄弟』への旧約「ヨブ記」の影響の解明に向けた、序説とも云うべき考察として興味深く拝聴した。ネット検索を駆使した、先行研究への幅広い目配りにまず圧倒された。浅学を顧みず木下氏の展開を辿り、また福井勝也氏が教示されたユングの『ヨブへの答え』を踏まえながら、感想を記したい。

 木下氏は、イワンが神の世界の否定の根拠とした子供に及ぶ「罪の連帯性」の概念への異和感から、当代ロシアにおける「連帯」概念を検証する。就中、カサートキナの考察から、ゾシマに連なる「連帯」=「つながり」における罪概念と、イワンの罪概念の抽象性の対照を摘出する。また、東西教会の「原罪」、「洗礼」の概念において、カトリックの恩寵―自然の対立と正教における自然崇拝の要素を指摘し、カサートキナの「ヨブ記」考察に即して、ヨブの友人たちの第三者的な位置、応報論的なヨブの罪の非難にイワンの罪概念を重ね、自然崇拝の視点から描かれたゾシマの罪概念がヨブの「立場」に近いと結論づける。

ついで、氏はこのゾシマ像のロシア正教における源流を探り、作家がオプチナの長老たちの「セライム派」、ロシア人の敬虔な信仰の流れを探り当て、その輪郭を予言的に延長したものだとする。特に、同時代のアムブローシイの共苦、行動する愛、神への誠信などの教説には外面的類似以上のものがあるとし、さらに全ての被造物への神の慈愛と苦行の犠牲の愛、神秘的主題においてシリアのイサク・シーリン、自然描写の繊細な抒情性においてチーホン・ザドンスキーとの連続性を認める。

 今回あらためて「ヨブ記」に言及するゾシマの説教を読み返し、心に沁みるものを感じるとともに、小説にはここそこに「ヨブ記」の主題が投影されていると思われた。スメルヂャコフの「まだ腹の中にいるとき自殺したかった」はヨブの

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「何故あなたは私を胎から出されたのか」からとられ、第7篇におけるアレクセイの「抗議」、「神は最も必要な瞬間そのみ手を隠した」は、己の不義と罪に関して問うヨブの「何故あなたはみ顔を隠」すのか、の弱められた主題のようでもある。もしかすると、イワンの「大審問官」の構想は、命を賭けて神に抗議しつつ、耳でなく眼前に顕現した神に屈服するヨブの主題の転倒した適用なのかも知れない。

ユングの著作は、独自の心理学の立場からユダヤ―キリスト教を結ぶ試みであ

る。ユングはヨブの屈服において、人間の道義がヤハウェに勝ったとし、ここから旧約の神の「人間化」(「ソフィア」の再想起と「人の子」の準備)が始まり、十字架上のイエスの神への呼びかけに至って、神はヨブへの「答え」を果たしたとする。さらに、ヨハネにおいて暴虐と愛の神の二面性、「太陽の女」(ソフィアに連なる神の「母」)の幻視、聖霊による神の受肉の一層の進展を望み、前世紀の「マリア被昇天」の教義公布へと結ぶ。

ユングの云う「神」は神のイメージであり、「神の人間化」は集合的無意識の元型と意識化の相克と交差の脈絡にある。これをかりに旧約的「主題」と新約的「構成」の両軸ととらえれば、小説への聖書の「影響」の考察に関して示唆的である。例えば上述のごとくに「ヨブ記」の主題群が小説に投影されているのだとすれば、スメルヂャコフの究極の自己否定はイワンとの分身関係とイエス―ユダの類比的構成と交差し、アレクセイの躓きはゾシマ像の構成的な分裂を暗示するように思える。感激に満ちたゾシマの教えは、彼とミハイルのイエス―ペテロに擬えうる関係と交差し、このことによってゾシマの伝記の「謎」が残りつづけているのではないか。また作者は、「大審問官」における主題論的な「失敗」を転じて、横軸とも云うべき福音書の構成に踏み込んだのではないか――。

なお、ユングの考察は神と人間、恩寵と自然の対立を前提するカトリックを対象としており、神と人間と自然の神秘的な融和をとる正教に関しては留保が必要と思われる。

 

事務局便り

 

415日発行、発送の「広場」26号がお手許に届いていることでしょう。質量ともに充実した内容の、読み応えのある一冊に仕上がったかと思います。表紙の絵はこれまで通り、故小山田チカエさんですが、デザインは渡辺夫妻で、会心の作かと思います。7月の例会が合評会となります。ご精読の上、多くの会員にご参加いただきたいものです。

43日にサンクト・ペテルブルグのセンナヤ広場近くの地下鉄で起きたテロ事件はやはり衝撃でした。『罪と罰』の舞台とされ、作家自身も居住した場所に近く、文学博物館にも隣接する地域であるところから、博物館館長はじめ友人達、ドミトリー・ドストエフスキーにお見舞のメールを送りました。ドミトリーからは「8人家族全員無事だ。あなたもお元気で!」の返事がきました。

 

                木下豊房   tkino@chiba.email.ne.jp