五人の集団で折返した後、私が軽くゆさぶりをかけると愛知県の選手と二人になった。今年の魚津蜃気楼ロードレースである。激しい先頭争い。並んで走る愛知県の選手の表情には余裕すら感じられる。今度は逆にゆさぶりをかけられる。苦しさに比例して「敗けるのでは!?」という不安が高まってくる。自然と顔もひきつってくる。魚津営業所が見えてくる。苦しまぎれにとるスポンジ。顔をぬぐって横を見ると「あれ?いない」。すうっと遅れていくではないか。「やったー」。思わず万歳してスポンジを真上にほうり投げた。急に元気が出た。「北電がんばれ!」の声援が大きく聞こえる。あとは白バイの先導のもと、栄光のテープを切ることができた。帰って優勝カップで飲むビールの味は格別であった。
私が、陸上競技に本格的に取組んだのは4年前からである。そしてそのルーツは新入社員マラソンにある。 大学卒業も近くなった2月、これといった運動をしていなかった私は入社に備えて数km走り始めた。体が追いつかず、週に1〜2回が限度であった。
入社後は毎朝1km走らされた。呉羽の新研修所に移ってからはさらに体育が追加され1時間のトレーニングをやった。2月からのトレーニングがきいたのか、1000m、1500mのタイムトライアルでは新入社員の中で最も速かった。そのタイムは3分11秒、5分5秒である。
研修所を出るとき、10kmマラソンがあった。まだ未舗装の神通川右岸の堤防道路を国鉄鉄橋から萩浦橋まで往復するコースであった。距離に対する不安は大きかったが、当日は折返し手前から抜け出し、2位と1分差の41分のタイムで勝てた。
気をよくした私は、もっと練習すればもっと速く走れるのではないかと笹津管理所配属後も走り続けた。国道41号線に5kmのコースを設定し、週に4,5回は走った。
かなり練習したつもりで、秋に地元辰口の町内駅伝に出たが、区間1位と、1分も離される悲惨な結果となった。辰口には県内最強の駅伝チームがある。地元の駅伝チームが走る度に優勝する記事を新聞で見るとうれしかった。町の誇りだと思った。その駅伝メンバーをびっくりさせようと走ったが全く及ばなかった。
翌年、秋、北電神通チームから大沢野の駅伝に出た。チーム入賞と区間賞をめざして走った。9人抜いたものの区間1位から11秒遅れの区間4位、チームは11位と、惜しくも目標は達成できなかった。しかしながらチーム成績がいつもの年より10ぐらい上がったということでみんなで喜びあった。
打倒辰口をめざして練習を重ね、翌春、辰口町内の競技会に出たが、何周も抜かれ、またもや自分の非力さを知らされた。
中央給電指令所へ転勤後も走り続け、秋には再び辰口町内の駅伝に出た。練習量を倍の10kmにしたせいか、区間賞をとることができた。駅伝メンバーの1人に勝っての区間賞だけによけいうれしかった。
練習方法に対する疑問と記録の伸び悩みを感じていた私はこれを機会に辰口の選手と一緒に練習するようになった。メンバーには北陸No1のK選手、インターハイ優勝の経歴を持つN選手など雲の上と思われる選手がたくさんいた。
休みのとき一緒に練習するうちに練習方法も変わり質、量共に増えた。朝、晩2度の練習をするうち着々とカはついた。N選手に、「おまえは練習すればすぐ5000mで15分台が出る」と言われ、大きな目標ができた。それなりの実績のある人から「おまえは伸びる」などと言われるとその気になるものである。15分台ははるかかなたと思っていたが手の届くところにあるような気がしてきた。
1年目は16分4秒と実らなかったが、2年目には15分52秒と達成できた。
3年目となった昨年の県選手権大会5000mは忘れられない。今までスタート直後から離されるレースがほとんどだったが、この日は自分のペースを無視しても先頭集団についていくつもりで走った。
1000m:2'59 ペースは速いがこのまま行こう。前には10人。
3000m:9'12 いつもより20秒も速い。なぜかまだ苦しさはきわまってこない。ひよっとすると最後までいけそう。
4000m:12'18 まだ苦しくない。いけそう。15分30秒は切れそう。走りながらどうしてこんなに速いんだろうと感激する。
4400m:あと1周半。ええい、飛び出してやれと自分からスパートする。耳をすますと1人の足音がついてくる。Kか。ペースを落とすとKはそのまま前へ。初めて全力を出し切るがつけない。Kと少しずつ離れる。あと半周でうしろの心配をするがそのまま2位15分17秒9でゴール!
ゴール後、思わず「やった!やった!」と叫び、誰ともなく握手してしまった。自己記録を35秒更新した。1年前の7位を考えると大躍進であった。雲の上のK選手とラストで競うことができた。県のトップランナーになれたことを思うと、その日は興奮のあまり、夜も眠れなかった。
この後、1万mで31分58秒、20kmロードで1時間4分12秒という記録が出たとき、「やった!」と思うと同時に自分自身でびっくりしたのも事実である。
去年の12月、瀬古と一緒に走った。といっても駅伝で同一区間を走っただけであり、私がスタートしたのは瀬古の10分後、それも繰上げスタートである。瀬古との差を7分ぐらいにしたかったが10分も差がついた。区間最下位はなんとしても避けたかったが区間30位に終わった。チーム成績も最下位の30位である。予想はしていたが、全国の壁は厚かった。全日本実業団駅伝で、辰口から出場し、最長区間の23kmを走ったときの話である。
今年4月には福井でマラソンに初挑戦した。スタート直後から集団の中に入り、前へ出たい気持ちを抑さえながら走った。25km手前でここだとばかりにスピードを上げたときは8位、30kmを過ぎて気がついたら2位になっていた。「2位だ!2位だ!」と喜んではみたものの、35kmを過ぎるとふくらはぎがけいれんしそうになり、はうようにしか走れなくなった。1人抜かれた。この後は「この先、何人抜かれるのだろう、ゴールがそこにあればいい」など思いながら、何度も後ろを見ながら走った。結局、そのままゴールできたが、一度歩くともう走れなかった。ひざ上の筋肉がはりさけそうで階段を降りるのが最も大変だった。足の痛みは3日も続き、3日目には熱まで出た。マラソンの大変さが身にしみてわかった。3位は目標以上のものであったが、後半のペースタウンが響いて2時間33分かかった。目標の27分には届かず、福岡国際マラソンの参加資格は得られなかった。が、いつの日か世界のトップランナーと走ってみたいものである。
今は夜しか走っていないが、毎日1〜2時間、練習している。これをささえるのは記録短縮への情熱である。15分台の目標を決めたとき、当時17分半のカから考えると達成の可能性に対しては半信半疑であった。高校生が好記録で走るのをみて素質をうらやましく思ったりもした。(いや、素質ではない、努力だ)といい聞かせて練習した。達成したとき、「努力すればできるんだ」という感じをつかむことができた。「情熱をもって努力すれば目標は必ず達成できる」この感じをつかんだだけでもマラソンにかけた青春は十分価値があったと思う。
1985年に会社の文化史「百川」に投稿したもの。
当時29才。自己ベストの出る直前である。
登場人物の実名は、
最初の町内一周駅伝の区間1位:村西慎也(当時寺井高校)
K:川本一光 N:中嶋敏一
1983年11月6日石川県駅伝の3区8kmの残り1km地点を金沢自衛隊の古谷選手と競っているところ。北国新聞の記者が迫力満点の接戦を取ってくれた。優勝していれば、新聞の写真に載ったかもしれないが、残念ながら城山クラブに負けた。町村の部では1位を保ったが石川県総合では1位の座を降りた。
3区でもこの写真の前を城山の行谷が走り35秒も離された。辰口はエース川本一光選手が入院欠場という苦しいメンバーであった。