●高等学校女子硬式野球●

「水を飲むときは、井戸を掘った人のことを思え」
これは、市島町の有機農業者の会合に参加させていただいたときに耳にした格言で、今も私の記憶の端に残っています。人がはじめた物事には何であれ、気持ち・思い、そして苦労があったはずーー。

高校女子硬式野球の歴史は、日本での普及につとめた故・四津浩平さんのことからお話しすることになります。そして、純粋な気持ちで協力の手を差しのべた方々のことも。

▲丹波市 市島町で第3回全国女子高等学校硬式野球選抜大会を観戦中の四津浩平さん
女子高野連・初代事務局長(2004年10月逝去)

「女子野球を広めるにあたって私が目ざしているのは“Play Baseball”なんだ」
四津さんは私に静かな口調で打ちあけるようにおっしゃいました。
野球というスポーツを純粋に楽しむ、そんな女子野球に育ってほしい、という意味です。
「男子の高校野球開会式での行進は、あれはまるでーー」というところで言葉をにごした四津さんでしたが、
おっしゃりたいことは理解できました。
スポーツが、国威発揚、精神修養、学校や企業のPRなどさまざまな目的のための「手段」にされるのがあたりまえとなっている今、四津さんのこの思いを実現するのは難しいことかも知れません。そのことを四津さん自身自覚されていたのでしょう、市島町での大会運営に自分の考えを押しつけることはなく、あたたかなまなざしで見まもっておられました。

(play=遊ぶ=目的と手段が一致している状態のこと。遊ぶために遊ぶ。何のためでもない。)


出会い 市島町と四津浩平さんの出会い

1999年、「高校女子硬式野球大会の開催場所がなく困っている」という記事が新聞に掲載されました。それを見た市島町の堀さん(のちに連盟の事務局長をつとめる)が、「わしらで何とか力になってやれんもんかのう」と思いたち、シニア野球クラブの仲間に声をかけました。そして、四津浩平さんに手紙を送ります。
堀さんたちは、行政(当時市島町役場)にかけあい、協力を取りつけます。人のつながりが都会のように希薄でない市島町は、ことがおこれば機動力を発揮します(阪神・淡路大震災のときも、いち早く炊き出しに駆けつけてくださいました)。堀さんたちは各方面に向けて協力を求めていきます。スポンサー探しにも動き始めます。
開催場所は、町内にスポーツ施設「スポーツピアいちじま」が完成間近で問題はありませんでした。
そして、2000年4月に第1回春の選抜全国高等学校女子硬式野球選抜大会が市島町で開催されることになります。

四津浩平さんと私の出会い

当時、私は、期限3年という市島町役場特別職についておりました。「町おこし専門員」として良い案も考え出せずにいたところに、女子硬式野球開催の話がまいこんだものですから、「町おこしにつながるかも」という下心をもって、ポスターづくり他、広報関係の制作に取り組みました。その際に、東京にお住まいの四津浩平さんに電話取材させていただきました。高校女子硬式野球の歩みをおだやかな口調でていねいに話してくださった四津さんは最後にこうおっしゃいました。「このことをお話ししたのはあなたが初めてですよ」と。

知ることには責任がともなう、とか・・・。ならば私は伝えなくてはなりません。


歴史

1. 中国の地で

日本の大学で女子軟式野球部の監督をしていた四津浩平さんは、1985年から中国北京で長期滞在・短期滞在を繰り返しながら、中国男子中学生の野球指導に力を注ぎました。(「中学」といっても六年制で、日本の中学と高校をあわせたものにあたります。)
そして指導をして10年、日本の野球チームが中国との交流試合にやって来るようにもなり、「そろそろ中国での野球指導に区切りをつけよう」と思いはじめたある日、「ぜひ、我が国の女子にも野球を教えてやってほしい」と、北京の教育委員会から強く求められました。
当時、中国では「2000年オリンピックは中国で!」という機運が盛り上がっており、「女子の硬式野球が将来、オリンピックの種目になるかもしれない。早くから取り入れて選手を育てておこう」という思いがあったのかも知れません。さっそく翌日には、一五八中学校(後に魯迅中学校に改名)と酒仙中学校の2校において女子メンバーが集められました。四津さんは、女子に「硬式」野球を指導したことはありませんでしたが、「硬式の方がいい」という女子生徒の要望にこたえ、それぞれの学校で2週間ずつ硬式野球の指導を行い、そして帰国しました。(ちなみに軟式野球は日本で生まれた、日本だけのものです。)

2.中国から交流試合の申し込み

帰国後しばらくして、北京の教育委員会から「日本で女子硬式野球の練習試合をさせて欲しい」という申し出を受けました。四津さんは困りました。日本の高校には女子の硬式野球部がなかったからです。中国の女子に自ら硬式野球を教えておきながら、今さら日本に高校女子硬式野球はないとはとてもいえず、四津さんの対戦相手探しがはじまります。
四津さんは、高校のソフトボール部に対戦相手になってもらえないかと20数校まわってみましたが、どこも検討の余地なく断られてしまいます。
どこの誰かもわからない者に、よい返事がもらえるわけがない…と思い直した四津さんは、北京の教育委員会に「交流試合を通じて日中親善を図りたい」旨の手紙を送っていただくようお願いし、ファックスで送っていただいたその文書を手に、もう一度、各学校をまわりました。すると、東京の駒沢学園女子高校と立川女子高校の2校が、ソフトボール部から臨時に硬式野球同好会を作って出場することを約束してくださったのでした。
四津さんは、さっそく両校に硬式用のボールとバットを持参。しかし、まだ、入国許可の問題が残っていました。中国から団体を日本へ招くことは、個人ではできません。
そのときに力を貸してくださったのは、毎日新聞社・論説委員(四津さんが初訪中の際に北京特派員として取材した方)でした。その人の紹介で「日本対外文化協会」に協力を求めることができました。
中国チームを招くための旅費・滞在費は四津さん自らが負担し、1995年8月24日、中国から1校、日本側2校による「日中親善高校女子硬式野球大会」が福生(ふっさ)球場において開催されました。これが日本初の女子高校生による硬式野球の試合でした。
(戦後まもなく女子のプロ野球団が設立されたことがありましたが、やがて、ノンプロ野球に移行し、昭和45年まで続いた女子野球は自然消滅。使用球はトップボール〈準硬式〉でした。)

3.韓国への思い

中国との親善試合の成功に意を強くした四津さんは、翌年、韓国との交流試合に向けて準備をはじめました。この時、韓国とのパイプ役となってくださったのが、福岡市にある『しいのみ学園』の創設者・氏です。しいのみ学園は日本で最初の、脳性小児まひ児の治療・教育施設で、福祉というものがまだまだ不十分な状況であった昭和29年に、障害をもつ2人の子の親でもあった氏が創設した学園で、我が国の養護学校の礎となったことで広く知られています。その実録話はベストセラー本になり、映画化もされました。氏は1970年から韓国の大邸大学校教授兼大学院長として迎えられ、韓国の教育と福祉の向上発展に尽くされた方でもありました。氏の尽力で、ソウルの有名校・新亭女子商業高校のソフトボール部が出場する運びとなります。同校ソフトボール部は一ヵ月間硬式野球を練習し、1996年夏に来日。迎えた日本側は日中親善大会に参加した2校に富山県の高岡第一高校が加わり、計4校による「日韓親善大会」がトーナメント方式でおこなわれました。

4.全国大会開催を決意

中国そして韓国と、2年つづけて試合を開催することができた四津さんは、日本で全国大会ができるのではないかと思いはじめました。そこで、全国の高校の校長あてに1500通の手紙を送りましたが、参加申し出の学校はわずか5校(東京2校、埼玉2校、兵庫1校)。そのうちの一校(東京)は途中で断りの連絡が入いりました。交通費や滞在費の負担が参加を見合わせる原因になったようで、遠方からの参加は夙川学院女子高校だけでした。こうして5校が集まり、第1回全国高等学校女子硬式野球大会が福生球場で開催されました(1997年)。

5.スポンサーをつけた第2回全国大会

遠方のチームも参加しやすくするため、翌年1998年の第2回大会ではスポンサーを探し、遠方からの参加となるチームに滞在費等の援助をして、交通費のみの負担で参加できるようにした結果、出場校は8校に増えました。 第3回大会の参加校は9校に。以後、年々増えつづけています。


ウラ話、ほか 試合前の挨拶は行なわない

日本では試合に先立ち、ホームベースをはさんで両軍が挨拶をする慣例がありますが、女子の大会では行いません。
これは野球の国際的慣習にならったもので、プロ野球を真似たものではありません。本場のアメリカでもオリンピック競技の中でも、試合前に挨拶することはありません。
明治〜大正期の先人たちが、野球にも「礼に始まり、礼に終わる」日本の武道の精神を取り入れたに過ぎません。
野球はあくまでも健全な楽しむべきスポーツであって、いたずらに「礼」を持ち込む必要はなく、新しいものを創りあげていこうという気持ちから、国際性にならうことにしました。もちろん、試合後のエール交換(挨拶)を行なうことはいうまでもありません。
もっとも「礼に始まり礼に終わる」この挨拶の慣習がもはや我が国の文化の一つになっているといえなくもなく、試合前の挨拶がないのはさびしいと思う人が多いかも知れません。
(※この内容は四津さんからお聞きしたもので、現在の大会がどのような内容になっているのか、私は存じておりません。)

右手骨折で出場の中国選手

中国チームは15人の編成で来日しましたが、選手は9人のみでした。校長や市の教育委員、区の教育委員、通訳など大人が6人も。もっとも、こうしなければ当局から訪日の許可が下りなかったのでしょう。この9名の選手のひとりが来日直前の練習中に右手を骨折。野球ができる状態ではありませんでしたが、入国許可証の関係から突然の選手の入れ替えも追加もできず試合に臨むことに。外野を守るその選手は、飛んできたボールを拾いに行っても、わずかの距離を転がしてかえすのが精一杯でした。

球場使用とその料金

前身の大会から第1回大会までの3年間は試合当日の予約しかさせてもらえませんでした。使用料も市外者料金扱いで市民の場合の3倍。予備日用の球場については、国際基督教大学硬式野球場を斎藤副学長が3年にわたって提供してくださいました。ところが、第1回全国大会に、新聞社・テレビ局が殺到したことから球場側の態度が一変。翌年の第2回大会からは、予備日の設定はもちろん、使用料も市民料金にしてくださいました。

我が国の高校女子野球発足は中国チームのおかげ

参加校が年々増え、女子硬式野球の隆盛を見るにつけ、決まって思い出されるのは中国チーム。この中国チームがなければ、我が国の高校女子野球全国大会は生まれていません。北京市教育委員会が「我が国の女子中学生にも野球を教えてほしい」と言わなかったら、中国チームの子たちが「日本へ行って試合をしたい」と言わなかったら、女子高野連も存在していません。
この日中親善大会の一ヵ月後に朝日新聞が、全国の高校に女子高校野球に関するアンケート調査を行なっています。これがきっかけとなって、全国で最初の「女子硬式野球部」を創設したのが鹿児島の神村学園です。しかし、部員が8人しか集まらず、第1回大会の参加を断念せざるを得ませんでした。

バッテリー間を1メートル縮めたところ、ボーク多発

当初、女子ということを考慮して、ピッチャーの投げる位置を1メートル前に置くことにしました(中国・韓国との親善試合の時)。が、これは不都合な問題を生む結果となりました。ピッチャーから一塁が見えにくくなり、
1塁走者を牽制しようとすると肩が動いてしまい、ボークが頻繁に起き たのです。そこで蒲田女子校の選手に協力してもらい、本来の位置から投げた場合と、1メートルホームベース寄りから投げた場合とのストライクの割合を比較しました。結果はストライク数の差は見られず、バッテリー間を短くした場合はピッチャーマウンドの山の中腹部から投げることになり、かえって投げづらいという感想が選手から出されました。そして、第1回全国大会からは男子と同じ条件で試合が行われるようになりました。
ちなみに大学女子軟式野球大会(硬式の大会はない)とバッテリー間の距離を比較してみると、硬式18.44メートル、軟式17メートル。塁間は、硬式27.43メートル、軟式では25メートル。当初の試合では、投球ボールがワンバウンドになることがよく見られました。(参考までに、女子ソフトボールのバッテリー間hは12.19メートル)

軟式ボールで硬式野球?

1995年に初めて行われた日中親善試合の2試合のうち、1試合は軟式ボールが使われました。「女子に硬式野球は危険ではないか」と生徒の身の安全を心配した某女子高校の校長からの強い要望に応えたものです。
中国選手に1日だけ軟式ボールで練習をしてもらい試合を行ったのですが、軟式ボールはボールの跳ね方がまったく違うため、ワンバウンドになった投球ボールをキャッチャーが取りそこねることが多く、そのたびに相当距離のあるバックネットまで走らねばならなかったキャッチャーは大変でした。
この大会をご自身の目で見られた某校長先生は、硬式野球は決して危険なものではないことを確認し、硬式ボールでの試合を許可してくださいました。

スポーツ新聞の一面を飾った話題の投手

1997年8月17日、130キロの速球を投げる女子投手の写真がサンケイスポーツ新聞(関東版)の第一面を飾りました。第1回大会に出場した兵庫の夙川学院高校の前田投手です。甲子園で男子の高校野球が行われている時でしたが、話題をさらったのは女子硬式野球。男子の記事は他面にまわされたのでした。

韓国選手団のピンチを救った大韓民国同胞会

1996年に行われた日韓親善試合の際、食事が韓国の選手の口に合わず、旅館の人も困ってしまうという事態がおきました。この時、韓国の選手団を親身になって助けたのは、日本に住む大韓民国同胞会の人たちでした。韓国料理の差し入れや、泊り込んでの食事づくり、通訳まで買って出てくれたのです。大韓民国の人々の同胞を思いやる気持ち、同胞の絆の強さを感じさせる出来事でした。


の〜んびり、ゆ〜ったり、女子野球観戦・・・・いかがですか?
日程等詳細は、「全国高校女子硬式野球連盟」ホームページをご覧になってください。
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