あとがき
町おこし専門員制度で町の活性化を目ざそうとされた吉田町長の葬儀の日、不思議なことがありました。
葬儀会場となった町長の自宅前農道で、わたしは、もう1人の町おこし専門、そして産業課課長と並んで、屋外に設置されたスピーカーから流れる弔辞に耳をかたむけていたのですが、突然、大きなオニヤンマがあらわれて、私たちの目の前のアスファルト地面に何度もおしりを打ち付けながら行ったり来たりしはじめたのです。それも、パシッ、パシッ、と大きな音を立てるほどに強く……。道に水たまりがあるわけでもなく、妙だな、と思ってながめていると、そのトンボは、まず産業課課長の、腰の前で組んだ手のまわりをグルグルと小さく円を描いて飛び回るではありませんか。そのトンボを追い払おうとして手を振り上げた課長に向かってわたしは思わず「だめ! たたいたらだめ!」と声をあげてしまいました。まるで、町長の魂がトンボにのりうつり、「早く企画を考え出すよう、町おこし専門員のケツをたたけ」と、課長に言っているように思えたからです。トンボは次に、もう1人の町おこし専門員の前に移動し、数珠を持って組んだ手のまわりを4回5回と旋回しました。そしてさらに、わたしの手のまわりを、同じようにグルグルと飛ぶのでした。志し半ばでこの世を去らねばならなかった町長の思いが、強く伝わってくる出来事でした。
不思議なことといえば、この「プロジェクト※」にもまた、なにやら不思議な力が働いていたように感じています。なんの力もないわたしを、神宮神田で生まれたイセヒカリ(神田の里・市島町とつながりが感じられる稲)、なぞのXメン、団長、ネモ船長、生来のたわけ者へと、じつにタイミング良く導いたのは、ひょっとすると、お米の神様、あるいは、何千年もの間、米づくりを守りつづけた、われらのご先祖さんではなかったのか、とそう思えてならないのです。
でも、わたしの力不足のため、米づくり体験に来られた都会の人も数組にとどまり、イセヒカリの酒づくりのほうも事業展開できませんでした。
しかし、もう1名の町おこし専門員と町の有志、農業者が力を合わせ、
『NPO いちじま丹波太郎』を立ち上げました。そしてまず、市島町独自の農産物栽培指針をつくりました。当時、氷上郡内(だったと思います)で統一した農産物栽培指針を作る動きがあったそうですが、安全な農業についての意識が高い市島町内の農業者たちは、有機農業への移行がしやすいよう、使用資材をきびしく吟味・選定した独自の減農薬栽培指針をつくりました。安全でおいしい農作物の栽培と普及に力を入れ、市島町が真の有機の里と呼ばれるにふさわしい町、町民も誇りに思える町づくりへ向けて歩み始めました。元パチンコ会館を改装して物産館にし(農産物を売るより、パチンコ店を運営したようが利益が出るゾ、という意見が出ましたが)、毎週大阪の大手百貨店への農産物供給、また、個人への農産物宅配事業の展開を手がけています。都市との交流事業も試行錯誤を重ねています。「有機の里という旗を掲げたことが、町おこしをやりにくくしている」という言葉を、ある町議会議員から聞いたことがあります。が、有機農業の先進地としてがんばってきた市島町においては、「安全・安心な農業」を外しては町おこしはあり得ない、と考えるのは無理のないことでした。
都会に暮らしていると、こうした小さな農村の思いや動きというものは伝わってきません。市島町だけでなく全国各地で、生きていく上で一番大切な「食」を安全な形で守りつづける農業者がおられます。そのことに気づいてほしいと思います。そして、消費という形で有機農産物生産者を支える人々の輪がひろがっていくことを願っています。
亜熱帯という非常に生命力の強い国土がもたらす豊かな恵みと資源の範囲で慎ましやかに平和に暮らす日本になりますようにーー。
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