「ボクは、あきらめたくないな」
アイビーは答えた。
マーロははっと目を見開いて、紅の瞳に驚きの色をにじませながら、言葉の主へと顔を向ける。
(あきらめたくない……? ……おまえが……!?)
迷路のような、広大な森のなかでの出来事だった。パカドの森と呼ばれるその場所で、マーロはいま、自分自身最大のミスを犯してここにいた。
…………そうだ。
思えばこいつは――。このアイビーというヤツは、あれから一度だって『あきらめる』そぶりなど、見せてなんかいなかった。
4月の終わり。東の森での、運命をにぎる冒険。アイビーはその冒険で、自分自身の謎を何も解けずに……玉砕した。
それから彼は、倒れたアルター、魔力切れをおこしたマーロとともに、老賢者の転送魔法であっという間にコロナの街へと送られた。
冒険の失敗。特別ケガをしたわけでもなかったマーロは、翌日には学院生活に戻ってはいたが、しばらくはアイビーの顔も見たくないほど、苦い気分でいっぱいだった。
……いちばん不幸なのは、アイビー本人……。
心の奥底でそのことをわかってはいても、やはり、自らも負った『汚点』から、マーロは目を背けずにはいられなかったのだ。
「――!?」
だから、件の冒険から5日ほど過ぎていたある日、いつものように魔法学院の練習部屋の扉を開けたマーロは、目に入ったその姿を見て、思わず驚きを隠せないまま固まった。
「…………」
そこにいたのは、まぎれもない『冒険の失敗者』アイビー。
しかもなぜか、彼はここにいるマーロたちと同じ、魔法学院生徒用のローブを身につけているではないか。
「やぁ、マーロ」
――このあいだは、おつかれさまだったね。
まるでそう伝えるかのような、ゆるりとしたまなざしを、アイビーはマーロへと向ける。
「……この格好かい? こちらの先生にお借りしたんだよ。これから毎日かよわせてもらうことになったからね」
「…………、毎日!?」
「やはりローブをまとうと気が引きしまる。天才魔術士として、まずは服装からこだわらなければと思ったのさ」
「…………」
こいつはやはりバカだと思った。
魔術士アイビーは、そうして自らの魔法の上達にすべてをそそぎ、刻々と過ぎゆく日々を送っていった。
解かねばならない呪いのことも、もうすべて忘れてしまったか……。
マーロとアイビー。ふたりはそれから特に親しく話すこともなかったが、同じ魔術士どうし。顔を合わせる回数だけは、自然と多くなっていた。
虹の宝珠――おじのスタットから預かった大切な道具を、自らの魔法の暴走で壊してしまった焦りと恥。森の出口を炎でふさいだいたずら妖精の嘲笑が、幾度とマーロの脳裏に響く。
森じゅうを歩き回り、なんとか飛散した宝珠を集め修復したものの、ふたたび手にした虹の宝珠を見つめたそのとき、マーロの心は、ふっと隠せぬ不安を口にしていた。
『……また失敗したら……』
――これ以上、恥を重ねたくない――。
『このまま、コロナに戻ったほうがいいんじゃないか……』
翳(かげ)る瞳は進むべき足をも止めて、その隣で”同行者”も立ち止まる。
「…………」
よりによって、どうして一緒にいるのがこいつなんだと不運を責める。
答えが返ってこないのは、どうせ自分のことを心で笑っているからだろう……そう思って、悔しくて、最悪で、マーロはぎゅっと眉をひそめた。
「ボクは、あきらめたくないな」
同行者――アイビーは答えた。
「あの炎は、確かに厄介だ……。突風で消すためには、一瞬で、魔力を炎の根元の一点にぶつけるしかない」
…………その表情(かお)は、まったく笑ってなどいなかった。
マーロの首筋を、つうと汗が流れていく。
「力が少しでも広がると、たちまち炎に風が飲み込まれてしまう。宝珠の力を引き出しながらの集中、簡単ではないだろうね」
「……ああ」マーロはうなずき、瞳を落とした。言うとおり、簡単ではない。困難……だからこそ、自信が隠れる。不安が覆う。
ところで――。と、アイビーが外していた視線をマーロに向けた。
「キミがやる気がないのなら、次はボクにやらせてくれないかな。その宝珠も使ってみたいし……」
「……なっ……」
数秒の……間が流れた。
(――ッ)
マーロは、紅潮した顔をふりはらうかのように、大きく息を吸い込んだ。
「お、おまえなんかにやらせるもんか!!」
一瞬……。
いま一瞬でも、『こいつに任せれば……』などと考えた自分がいた――。
こいつの、アイビーの魔法への熱と努力は、並大抵のものではない。それが実力につながっている。わかる。わかるからこそ…………負けられない。負けたくない!!
「だいたい、なんでおまえが宝珠を使う気になってるんだよ? スタット先生に使用の許可をもらったのは、おれだけなんだからな!」
「あれ……そうだったのかい? それは気がつかなかった」
「……ったく……」
心とともに止まった歩みは、ふたたび前へ動きはじめていた。
残念そうに空を仰ぐアイビーをよそに、向かうは炎の待つ森の出口――。
「しかたがない……今回はキミに譲ろう。まあ、この天才はいつでも喜んで力を貸すから、そのときは遠慮せずに言ってくれたまえよ」
「……言うか!!!」
(宝珠を使いたいだけだろ……っ!)
マーロのいつもの早足が、完全によみがえっていた。
しかめた眉と尖らせた唇……は、傍らの少年に悟らせない程度の、いつしか小さな笑みに変わる。
迷いとともに、森の出口をふさいだ炎は消えた。
三月の終わり。
賢者ラドゥは、魔術士アイビーを、自らの神殿へと呼び出した。
一年前、かえるであったこの少年に、人間の姿を与える魔法をかけた。少年の身を襲った呪いの謎を解かせるため。少年の秘めた……大いなる可能性をひらかせるために。
なくした過去と、呪いの正体は、この一年では結局わからずじまいであったが。
「アイビーよ、この一年、おまえはたゆまぬ努力をしたようじゃな」
ラドゥは知っていた。
アイビーの過ごしてきた日々。魔術士という自分の道を愛し、一心に極めた生き方を。
「その努力、無駄ではないぞ」
だからこそ、その努力へ応えることにしたのである。
「アイビー。さあ、そこの魔法陣の上へ立つのじゃ」
石床に描かれた魔法陣。「これは……」と少年はつぶやき、賢者を見やった。
意味がわかったようじゃな……と、ラドゥはわずかに笑みを浮かべて、おもむろに長い呪文を唱えはじめる。
……と。
途中から、呪文を唱える声がふたえに重なった。
気がつきつつも、止めずに続けてラドゥが視線を送る。光のなかで、力を受け入れ瞳を閉じるアイビーをはさんで、まっすぐと、その向こう。
賢者と同じ呪文を唱える、コロナの街の魔術士――マーロ。
「これで借りは返したぜ」
「…………借り?」
――なんでもない。と、マーロはアイビーに背を向ける。
少年アイビーの呪いは解かれた。
賢者ラドゥの、そして同じく魔術士マーロの探し出した、強力な解呪魔法の力によって――。
マーロとアイビー。
天才と秀才。
たがいに切磋琢磨を続けるふたりは、やがてコロナの街の二大賢者と呼ばれるようになる。 |