「アンジェ。休みの日くらい、戦いのことは忘れるケロ」
かえるの声にハッとして、弦を泳ぐ指が止まる。
「・・・わかる?」
「わかるケロ!」
今日は仕事も訓練もない日である。
遅めの朝食をすませたあとで、アンジェはおもむろに竪琴を抱え、軽く奏で始めていたのだが・・・。
ふと、浮かんだ新たな調べが、途端に新たな『呪歌』につながるような思いがして・・・自然としかめた顔になっていたらしい。
暦は、三月をまわっていた。
あくまで休みの日であっても、アンジェの頭の中に、常に『きたるべき戦い』への意識がつきまとってしまうのも、無理もないことであり。
「ホントに休むつもりで、予定あけたんだけどね」
アンジェが苦笑したそのとき・・・コンコンと、ノックの音。
「あっ、はーい・・・、!」
「おはよ、アンジェ。・・・ああ、もう『こんにちは』かな」
開けたドアの前で微笑んでいたのは、隣室のレティルだった。
「アンジェ、今日、ひま? もしよかったら」
一日、つきあってくれないかな――。
急いで身支度をして、アンジェはその誘いに応じた。
ちょっと買い物でも・・・というレティルとともに、街並みをぶらりと歩く。
ここのところは、お互いにあまりゆっくりと話をする機会がなかったから、久々に時間をすごせるこういうときこそ、いろいろと近況などを口にするべき・・・なのであろうが・・・。
マーロに打ち明けて以来――アンジェは結局、記憶のことはまだ誰にも話してはいなかった。
秘密にしていたわけではないし、むしろ、仲間や街の皆に『記憶が戻った』という朗報を知らせたい気持ちは、何度も訪れるのである。
だが、話さなかった。
それはまだ、”すべて”が終わってはいないから。
とにかくすべてを無事に終えてからだと・・・。アンジェはそう、心に決めたのだった。
「・・・あ、かわいいね、それ」
雑貨屋の店頭で、レティルが小さなカゴを手にしたのを見て、アンジェは声をかけた。
「うん。そうね」
レティルは軽くうなずきながら、もう一方の手にも隣の品をのせてみる。
店内をのぞくレティルの様子を見つめながら、アンジェはふと、とある想いを甦らせた。
・・・十年前。
レオンの傍ら、竜のねどこへ向かいながら、彼女は、アンジェリシアはひそかに、あの少女のことを考えていた。
戦いに行くレオンにすがる、小さな女の子。
貴族の娘らしい身なりのよい姿と、目の前のひとをこころから心配するまなざし。
そして、そんな少女に微笑みを浮かべ、優しく頭を撫でていたレオン。
――その一瞬、自分の中に、妙な気持ちが生まれた気がして――。
(・・・なに考えてるの・・・!)
行く手を阻む魔物たちを、あのとき率先して倒していったのは、レオンの力を温存するため。無論、それは嘘ではないけれども。
――心のうずきを紛らわしたかった。
それもまた、真実。
あれは、やはり・・・。
・・・・・・ちいさな、『ヤキモチ』だったのか・・・・・・。
歩きながらも、今日のレティルはなぜか言葉少なだった。
何か、どこか遠くを見つめるように、いつもの早足も影をひそめてしまっている。
だから、一緒のアンジェが突如の自問に心乱していたのにも、どうやら気付いていないようだった。
レティルに過去を話さないのは、”話さない”のではなく・・・”話せない”・・・?
そんなことない、と否定しても、過去の光景がどうしたって浮かんでくる。
(レティルは、別――。)
自分は昔のレティルを知っていて、そして、もしかするとレティルも・・・・・・。
(・・・・・・・・・)
そのとき、ふっとレティルが歩みを止めた。
ゆっくりだった歩幅がぴたりとその場におちたとき、周囲の雑踏の中で、そこだけ時間が止まっているようにさえ思えた。
「・・・あのね」
一歩後ろのアンジェを背にしたまま、レティルは振り返らずに口をひらく。
「今日は、さ・・・。ほんとは、特に用事があるわけじゃなかったんだ・・・」
「・・・えっ・・・」
アンジェのその反応にあらためて振り向くと、レティルは「ごめんね」と苦笑する。
「ただ・・・街を歩きたかったの。気分転換、したかったのかもしれない。・・・・・・。それか・・・・・・」
・・・言葉が途切れた。
けれど。
きっとそのとき、ふたりの心に映った姿は同じだった。
コロナの図書館。そして、この街のどこかにいたかもしれない・・・・・・レオン。
アンジェは、すべてを話すべきだと思った。
・・・と。
瞬間。きらり、と、ガラスの光が瞳に届いた。
(あ・・・)
そこにあるのは、自分と、レティル。真横のウィンドウに映って見える、ふたりの姿。
頭ひとつぶんも違う、背の高さと・・・。
どう見ても『少女』の自分に、今やもう、凛々しい『女性』であるレティル。
この街で出会ってから。
ともに冒険に出かけ、鍛えるために剣を交え、ときには一緒に仕事をしたり、食事をしたり、たくさんのことを話してきた。
・・・ガラスの向こうに、たくさんの思い出がよみがえる。
それは、『今』と『過去』とが、繋げようもないほどに――。
「ありがとう、アンジェ。つきあってくれて」
レティルの顔は、満足そうだった。
「なんとなく・・・アンジェと一緒に歩きたかったんだ」
アンジェは柔らかにうなずいた。
結局、すべてはまだ明かさぬまま。
心に生まれた奇妙な気持ちが、消えたのか、残ったのかはわからない・・・。
空に茜がさし始めた頃。
宿に戻ったふたりの冒険者は、また、それぞれの日々へと歩んでいった。
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