荻原裕幸未刊歌集『永遠青天症』
2001年4月20日「なんという薔薇日記」抄
岡田幸生(層雲・ラエティティア)
■1

荻原裕幸歌集『デジタル・ビスケット』(沖積舎)のなかの、未刊歌集『永遠青天症』を読む。

  あをぞらの空より青がまされるを本質として日日をあるべし

集中の巻頭歌だ。「いま、ここ。」という詞書が付されている。「あをぞらの空より青がまされるを本質と」する、とはどういうことだろう。相対の青ではなく、なにか絶対の青を尊重したいということか。詞書がむずかしい。本質を本質として実存に耐えろ、ということか。

  山のあなたの空遠く
  「幸」住むと人のいふ。
  噫、われひとゝ尋めゆきて、
  涙さしぐみ、かへりきぬ。
  山のあなたになほ遠く
  「幸」住むと人のいふ。

上田敏が訳したブッセの「山のあなた」だ。ブッセは、ここではないどこかにあるだろう幸いをあてどなく求めるひとの消息を描いた。歌人はあきらめているのだろうか。

巻頭歌を含む第一部のタイトルは象徴的だ。「時計は永遠を記述してゐる」。時計は歌人が生まれる前から動いていただろうし、歌人が死んでも動いているだろう。なるほど時計は永遠を記述している。そして止まっている時計は永遠を具現しているともいえる。

  遠い遠いみづうみでみたあをぞらの非在を誰に告げたらいいか
  どこかしら性の記憶に似てとほしはじめて雲を雲と知りし日
  カーテンを開けて雲散する何か、夢と呼びならはせば夢なり
  銃のひびきをなぜか聴きたい衝動にかられて青い街角にゐる
  日日はまた青葉の匂ひたちこめて切実にすべきなにごともない
  日常があるから夢があるのかな逆かな、欅のあをにまみれて

これらからもブッセを感じる。ブッセが進んだ(あるいは退いた)感覚がある。あらためて「山のあなた」をみれば、詩は反語のようにも読めることに気がつく。そんなことはない、いま、ここの大切さに気づきなさい――と。僕のなかで、歌人の巻頭歌と「山のあなた」が歩み寄りをみせる。遠く青い鳥がひらめきもする。メーテルリンクは、幸福はごく身近にこそある、と説いた。

みづいろ・みづうみ・さみどり・青葉・若葉・翡翠・あをぞら――これら語彙への歌人のこだわりはどうだろう。集中に頻出する。見果てぬものを見ようとすれば青が滲むのだろうか。あるいは愉快犯のように青を貼りつけてまわっているようにもみえる。もとより索漠とした(有限の)日常へだ。

■2

承前

しかし歌人の現実との溝は深いのだ。青は真実を励起する触媒なのか。永遠の座標軸で明滅するサインなのか。ともあれ頻出するのは痛ましい。欠落の裏返しだから。「ぼく」が死んでも世界は存続し、また存続しない。この不思議な現実とそのむこうのあるべき世界を、青は橋渡しするのだろうか。

歌人は上を向いて思弁する。いや、痛みを正確に記述しようとすれば思弁に近づくというべきだろう。そして歌人が視線を下に向け、「いま、ここ」をありふれたタームで語るとき、溜息の出るような歌が生まれる。

  ぼくたちの何を動かすきんいろとみどりの乾電池を買ひこんで
  コンビニで傘を買ふこのやすつぽい傘でふせげるものを愛して
  自転車を漕ぐ脚どれもきらめけばこの世の外へ漕ぐ脚もあれ
  見えてゐる世界はつねに連弾のひとりを欠いたピアノと思へ
  噴水のぐんぐんのびてはたと止む繰り返し見る、何が見させる

一首目は具体が文化に起爆する絶唱だ。二首目の抒情的な迂言法、三首目が垣間見せる輝かしくもほの暗い結界。四首目の現象学を経た美しい欠落感、五首目の集合的無意識的意識――どれも素晴らしい。

  パスタ巻く指先を見て夏だねと告ぐいづこよりその夏は来る
  フロリダに行く途中だといふやうな顔して眠る、どこで目覚める
  真つ白な雨に阻まれ、でも夏のどこへ向かつてゐる午後なのか

これら抒情的な倦怠感はどうだろう。眠るような浮遊感はどうだろう(歌人が陶然とした分、僕も陶然とする)。時空がはてしなく透明なのだ。不在なのだ。「いま、ここ。」という歌人は、憂愁に引き裂かれているようにみえる。そしてそれは、正確に巻頭歌の難解さに通じている。

  雲はだめ風もだめ虹も夜もだめ、ここにあるものだけを信じろ
  六月の真ん中にゐた、鳥が見えた、みだりに明るい表情だつた

これらは土俵際から発信されているようにみえる。一首目は巻頭歌の反語的反復だろうか。二首目は真実を垣間見た瞬間の記述だろうか。いずれも自らが青い鳥に同化した悲しみが記されているようにみえる。あるいは歌人は現代の妖精なのだ。

■3

承前

以下、集中にちりばめられた恋歌を、集中の配列順に抽出する。配列には意味があることがわかる。歌人の恋のクロニクルを成している。いずれも恋の微妙な消息を伝え、また恋の諸相をえぐる秀歌だ。

  きみの素顔と思つてゐたらペガサスの翼に描かれてゐる星だつた
  ベッドに誘つてゐた筈なのにバリ島がいいねと答へられた黄昏
  琥珀日和のこのひるさがりわがうちに燕とばせてきみがほほゑむ
  訊けばまた不思議な笑ひ、結婚も飼猫に合歓と名づけたわけも
  駅弁はふたつつまれて焙じ茶はふたつならんで、かの橋わたる
  あ、http://www.jitsuzonwo.nejimagete.koiga.kokoni.hishimeku.com

ここまでは、恋の萌芽から、それが「実存をねじまげてひしめく」までが描かれている。一首目の領空侵犯のときめき、二首目のきわどさとほほえましさ、三首目のそれこそ鳥肌が立つような修辞。四首目の人事と飼猫の配合の妙、五首目のほほえましくも完璧な喩、そして六首目の、思いがけない修辞による思いがけない(ちょっとは思っていた?)感情の奔流。

  日日のはじめにパンの楽譜を颯爽と奏でる人がゐるといふこと
  婚姻ゆゑに昏いかなたへ遠ざかる虹色の魚もゐるといふのに
  恋人を妻と呼び換へながらなほたたまずにみづいろの翼を
  人格の明るきひとつ呼び出して紺のワンピースを褒めてみる
  坂に名をあたへるやうな声色できみをのぼつた日に戻れない
  妻に会ひて人妻に逢ふ新緑の街やはらかに違ひを照らす

一首目の、楽器にして日日の糧でもあるパンを用いたさわやかな技巧、二首目のほろ苦い心境の率直な表明、三首目(ここからが結婚後だろうか)の透明で甘やかな喪失感。四首目のアンドロイドめいたシニック、五首目のエロティシズムの香気に満ちた喪失感(絶唱だ)、六首目のきわどくも醒めた感覚――と、スイートにビターが綾なし、内奥の陰翳が増していく消息がうかがえる。

未刊歌集『永遠青天症』には、さまざまな気分が、気分のままにおのおの完璧な韻律に封じてある。詞書と読点を付し、ルビと一字空きを用いない矜持、修辞が一回転したような不思議に澄んだ言葉――初学の僕は大いに啓発された。まだ引きたい歌があまたある。歌人は未来になにを見ているのだろう。当代随一の明敏な精神である。息を詰めて見守りたい。