荻原裕幸『永遠青天症』を読む
2001年5月15日「ひかりの方舟」抄
菊池典子(層雲・ラエティティア)
■1

『デジタル・ビスケット』は荻原裕幸の第一歌集『青年霊歌』、第二歌集『甘藍派宣言』、第三歌集『あるまじろん』、第四歌集『世紀末くん!』を完本で収録。加えて併録された未完歌集が『永遠青天症』だ。この一冊で荻原が一七歳であった一九八〇年から二〇〇〇年までの仕事が見渡せる。

最初はどんなに収録短歌数が多くても五〇〇〇字までしか書かないと決めていたのだが、あっさり負けた。それだけ読みでがあったのである。長い旅だったよ。

恋を日常の退屈を破壊する非日常とするならば、ルーティンワークに占められる日常を拒んだこのひとが情事に耽溺してきたように見えるのは、わからなくもない。

このひとは意思にないことを強いられることに耐えられない。幾度も暴力というかたちで奮われている理不尽に対して敏感だ。そうして、酩酊が終わり、他者あるいは他者の集団が暴力的な何かを発するように機能し始めると、このひとはそこから立ち去る。

のっぺりとしたゼリーのような日々のなかに取り込まれて生きることを拒んだこのひとには、哲学的な傾向があるかに見える。限られた存在が永遠というものにふれることが可能であるか。外部のではなく本質としての死を人間が認識することの不可能をわかっていて、ぎりぎりまで近づこうとするような試みをこのひとは繰り返している。

そして本質だけを抽出しようと試み続けた末に彼は気づく。からっぽのぼくのなかにはぼくはいない。そこにいるのは、人魚だ。入り込んだ迷路から出る呪文を彼は唱え始める。「いま、ここ」と。他者のひしめく世界のなかで、それでもあらゆることを自分自身が選び取ってきた結果にすぎないことを気づいたかのように、彼は現実に足を下ろそうとするのである。

ことばがそのひとの意識をなぞらえているとすれば、新たな文体を獲得しようと破壊してきた意味性の果てに彼は立ち尽くしたのだと思う。それはたとえば池澤夏樹の『花を運ぶ妹』の主人公が、思惟の果てに水で絵を描いて嗚咽するシーンを思わせる。

「わたし」という定点を失っては、宇宙を観測することもできない。ハッブルの望遠鏡だって、漂流する宇宙船に足場を持つのだからね。かくて、精神が宿っていたからだに立ち戻るように彼は彼自身のからだの住むこの世界を眺め始める。そして、そこから「あをぞら」を見上げはじめるのだ。

■2

 遠い遠いみづうみでみたあをぞらの非在を誰に告げたらいいか

遠い遠いみづうみ、それは「日曜のきみのみづうみさざなみもなにもなくすきとほる時間へ」という秀歌に記されたあのみづうみであろうか。失われたあのいくつもの時間は、もはや楯となる記憶と化したのかとこのひとは嘆く。さて、あのみづうみとはきみのではなく、きみという他者によって気づかされたこのひと自身のみづうみではないのか。みづうみとは永遠を指し示す非在の「あをぞら」を映し出す鏡である。永遠をみたその一瞬を取り戻せないかなしみがまさにあをぞらに向かって迸るように立ち上っていく。

 琥珀日和のこのひるさがりわがうちに燕とばせてきみがほほゑむ

瑪瑙、翡翠とこのひとはよく鉱石を用いる。それはもう喩として他者の胸に届かせることを諦めて、あをぞらに向かって放つようなしかたで。鉱石への耽溺はたとえば宮沢賢治を思わせる。それは宇宙や永遠の視点によってようやく自己破壊衝動を耐えるかのように。耐えつつ、それはまた「いま、ここ」からの絶え間ない逃走をはらむ。琥珀日和。ひとの命から見れば永遠に近い鉱石たとえば琥珀を透してみたこの世界のひるさがり。「きみ」はわがうちに燕をとばせてほほえむ。それは初夏を告げ、すばやく飛び回る感情である。少年のようなみずみずしさ。

 三越のライオンに手を触れるひとりふたりさんにん、何の力だ

動きようのない強度を感じる。街角にいてこのひとの周囲だけは音もなく時間がとまっているようだ。思惟に落ちているまなざしに映るのは「三越のライオンに手を触れる」ひとびとだ。作者は異国の、いや宇宙からの客人のようにその様子を眺めている。

 噴水のぐんぐんのびてはたと止む繰り返し見る、何が見させる

水が吹き上げてははたと止む。見ているうちにそれは噴水ということばを剥ぎ取られ、ただの現象としてこのひとの目の前にある。ただ水が吹き上げては止むだけなのだ。そのようなしかけに過ぎないことを知っているのに、それはまなざしを惹きつけてやまない。世界の秘密を解き明かそうとするかのように、見る。つまり思惟する。

■3

 この世へとめざめる朝の不思議あり躯ひねつてベルを静める

意識の煉獄から逃れることのできないこのひとにとって眠りとは死か。あの世にふれている時間なのか。めざめるたびにこの世へと戻ることのふしぎ。たとえば違う世へ還ってもいいのに。永遠の眠りでも良いとつぶやくようでもある。躯をひねってこのひとはこの世の始まりを告げるベルを止める、幾度も。

 自転車を漕ぐ脚どれもきらめけばこの世の外へ漕ぐ脚もあれ

詞書きに「レンタサイクル。」とある。秋の小淵沢。旅の途上にある無数の脚。なぜか制服のスカートからのびた白い脚を思う。ひとりで漕ぐ、あるいは友人たちとふざけながら。長い旅の途上。この世界のなかでは、この一瞬の間にもこの世の外へ漕ぐ脚もあるのだ、確かに。

 ふりむけば鹿がぺろんとなめていたきみの鞄がきらきら光る

恋人との奈良への旅。鞄は日常から運ばれてきたものである。背後に鞄を置いたまま芝生の上でふたりはくちづけでもしていたのか。鹿が近づく気配にも気づかない。鞄は革製品か。黒かったかもしれない。ふりむけばふたりからみれば非日常の生き物である鹿が鞄をなめている。一瞬にして鞄が非日常の光にかがやく。

 旅行ガイドに指を挟んだままバスの睡りの底にひろがる大和

まひるだろうか。ふたりは次の目的地へ向かう。自分たちを「おほきみ」になぞらえて旅をしているこのひとは、奈良といわず大和という。バスのなかでいにしえびとの歩く大和に思いを馳せながら睡りに落ちていく。その睡りの底にいにしえの光景がひろがる。牛車にゆられながら旅する恋人たちのよう。

 フロリダに行く途中だといふやうな顔して眠る、どこで目覚める

「結婚も飼い猫に合歓と名づけたわけも」訊けば「不思議な笑ひ」で応えるひとであろうか。隣に眠るひとのとらえがたさ。いつもこの恋人は途上にいてまどろんでいる。どこで目覚めるのか。それはまなざしを待つようでもあり、また目覚めて消え去っていくことをかすかに不安に思うようでもある。

 見えてゐる世界はつねに連弾のひとりを欠いたピアノと思へ

連弾のひとりを欠いたピアノ。そのように常に欠け落ちたものとして世界はこのひとの瞳に映る。そして、見えることもふれることもできないもうひとつのメロディーをこのひとは奏でようとする。それはここにないことばでしか奏でることはできない。

■4

 ぎんいろの缶からきんの水あふれ光くるくるまはる、以下略

始末書、抜き打ちの会議、蒼ざめてたたきつける企画書。そういう日々のあとにこの歌が置かれている。激しいノイズのなかで一瞬、音がとまる。そして、このひとはきんいろの水が垂らされていくその液体がまわりながら落ちてきらめくかたちに見とれる。「、以下略」がおもしろい。一気にざわめきが戻るようである。

 あ、http://www.jitsuzonwo.nejimagete.koiga.hishimeku.com

新潮国語辞典には実存とは「存在の可能性である本質に対して、それが現実化されたもの。人間としての現実的存在」とある。その実存をねじまげて恋がひしめく。その様相がディスプレイのなかで広がっている、そのことにふいに気づく。まるでシャーレのなかで菌が繁殖しているのを見下ろすまなざしだ。宇宙空間から地球に暮らす人間たちを見ているよう。それでいながら、その人間たちのひとりである自分をも見ているようだ。

 水飲んでかくもしづかな青空をからだに満たすそれだけの夏

冷蔵庫から出されたたとえば五〇〇ミリリットルほどのボトルに入ったヴォルヴィックをからだに注ぎ込みながら、窓の向こうの青空を見ている。なぜか冷房の効いたダイニングという気がする。そこには蝉も汗もない。しづかな青空だけがある。

 真つ白な雨に阻まれ、でも夏のどこへ向かつてゐる午後なのか

真つ白な雨。激しい夕立を思わせる。檻のような雨に阻まれて身動きできない。それはこのひとの現実に立つ状況であるように思える。「でも夏のどこへ」とふいに夏というもののあらざる場所へと視点を転化させる。行く先は激しい雨に遮られたまま見えない。

 食卓にあさが来る鳥ときみが来る夏が来る、来ない風を求める

快適な温度で保たれた空間。そこにいて彼は「来ない風を求める」。窓を開け放ちたいと願うのは、それでも窓を周到に閉めている自らの精神の喩であるかもしれない。

 遠きところに情事をうつす窓はありわが窓星を獲てしづかなれ

情事をうつす窓とは実景のようで違う気がする。それは自らの過去の情事である。それはいまや自分ではない誰かの酒に耽溺するような姿である。現在は「わが窓星を獲てしづかなれ」と願うような声音になっている。百万回生きた猫みたいだな。

■5

 坂に名をあたへるやうな声色できみをのぼつた日に戻れない

「名をあたへる」とはあるいは詩人のわざである。それは発見であり、見るとは慈しみに他ならない。それは心のおののきとともに行われる。かつて「きみ」はそのような坂であった。日々が詩であったそのような日に戻れないとこのひとはいう。

 星と蜜柑がおなじ顔してきらめいてふたりは触れながら遠ざかる

日常とはなんだろう。それは触れることであるのに遠ざかることである。日常に回収されていくとは、いずれ訪れる別れに鈍感になることである。それはたとえば死に。そうしてわたしたちは目の前のひとを日々をすこしずつぞんざいに扱うようになる。新しい朝にめぐりあっていることを忘れてしまうのだ。

 六月の真ん中にゐた、鳥が見えた、みだりに明るい表情だつた

ザッピングしていくように無関係に見える光景を置く。中心部は「鳥が見えた」という短いフレーズ。窓を一瞬横切るようなスピード感だ。梅雨どき。層の厚い雲がある。光が射し、わずかに空が見えていたかもしれない。節度のない明るい表情。「妻に会いて人妻に逢ふ」とうたわれた短歌の次に置かれたために、その人妻の表情かとも思わせる。あるいは何かを疑った妻の無理のある表情か。思い巡らせる。いや、ある過去の自分自身の表情なのかもしれない。たとえば捕虫網を持っていたころの。