荻原裕幸『デジタル・ビスケット』を読む
2001年5月14日「ひかりの方舟」抄
菊池典子(層雲・ラエティティア)
■1

『デジタル・ビスケット』のうち未完歌集にあたる『永遠青天症』以前からのセレクトは一〇首以内にとどめようと思っていたが、やはり越えてしまった。

青年が無謀な力で壁を破って世界に立ち向かう幻想はとうに失われていた時代に、このひとは二〇代を過ごした。青年とは死語となり、その亡霊だけが残る。世界の壁は新宿駅前の敷石をはがすようにははがせない。かくてこのひとは形而上学的年齢を先延ばしする時代を生きることになる。

歌集は創作物である。そこに描かれていることは詩的飛躍とフィクションに彩られている。荻原の描いた生家の不和をてこに思いを巡らせたところで、それはわたしの経験を元にした妄想に過ぎない。物語性を軸にしかテクストに親しむことのできない人間の感想と読み過ごしてほしい。

少年を理不尽に殴つ戦争体験をもつ父。おそらくは南方での体験を詳細に語らない父は語らないことによって傷痕の深さを表している。荻原は同年代の意識より第二次大戦を引き寄せて感じているかに見える。彼は父の四〇近い年で生まれた息子だ。父の体験はその殴り方によって伝えられたかもしれない。

母自身、父の圧制のなかで諍い、その痛みを幼い息子に訴えていたかもしれない。そして、彼女は息子の飼っていた鶏を料理するようなところがある。

そうしたなかでは兄と妹は普通以上に仲が良い。かばう相手がいる以上、子どもは不和を分析する冷静さを蓄える知恵を持つことになる。その知恵をずる賢いと見るのは愚かだ。物事を抽象化し、感情を抑えるすべを身につけなければ狂気から逃れることは難しい。

破壊することを許されない場合、ひとは恋の初めの感情に耽溺することがある。それは破壊に似た感情だ。恋人の見せることのなかった表情を求める恋愛初期。しかし、恋の半減期に至ると無償の感情に満たされているかに見えた異性はたいてい保証を求め始める。そして、そこからは応えることのできない相手を責め始めるものだ。

現世的であるにはあまりに永遠という思惟のなかに生き続けているこのひとの短歌は、純粋な観念のなかに生きようとすることによって破綻の様相を見せる。そして、この世界を観念化して表すことの無理を悟ることになる。そして、規則的な生活を求めて三〇すぎて就職という儀式に回収されていく。それが『永遠青天症』以前であるように見える。

■2

 まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す

一九八〇年から八八年の作品を統べた『青年霊歌』からの一首。二〇年前を思い起こしてみよう。シラケ世代などと呼ばれた若者たちが生き、やがて『なんとなくクリスタル』が世に出る、そのころだったろうか。全共闘世代はすでに「学生運動はやっていませんでした」とつぶやき踏み絵を踏んでいた。課長などという役職について「あのころ僕は生きていたよ」などと投獄を自慢するひともいた。穏やかな消費を楽しみ、深刻さを笑う、実体と乖離するイメージの氾濫する、そういう時代。牙を抜かれたまま噛み殺されていく、そんな気分は確かに充満していた。

 誰も知らぬわれの空間得むとして空のままコインロッカーを閉づ

「われの空間」たる自分の部屋すらダイレクトメールやひとびとからの電話や無神経な恋人に踏み込まれるとすれば「誰も知らぬわれの空間」は空のコインロッカーくらいか。そのようにして自分の精神のなかに、意識的に誰にも踏みこみえない空(くう)を飼うひとなのだろうか。

 剥がされしマフィア映画のポスターの画鋲の星座けふも動かず

さて、色のほとんどない強いていえばみづいろの時間をはかなく確保するこのひとにとって、マフィア映画とは何だろう。「物語のない」空気感のなかでそれは極彩色の物語であり、唾棄しつつ遠く求めているものかもしれない。そのようなマフィア映画のポスターすらすでに剥がされている。残されているのは、それが確かにあったことを示す画鋲のみである。

 棚の上の象牙の船は風ならぬものをはらみて帆をかかげたり

不必要なことばを削ぎ落として実景描写しきってみせる。そして、それが時代と時代を映す精神の喩として寸分も動かない。いったんはそういうことを軽々としてみせたのかと思う。棚の上にある象牙の船は、つまりはレプリカの船である。レプリカの船には本物の風を受けることない帆があたかも風を受けたかのように風ならぬものをはらんでいる。この風ならぬものをはらませている精神は、この時代の帆をはらませていると見せかけているなにものかと酷似している。あるいは説明することがかなわないゆえ何かを模倣してしまう他ならぬわれの精神と。

■3

 蛮行に父はかがやけ殴らるるよりはやくわれを殴り倒して

少年の「われ」を殴つ父である。その蛮行は幾度か歌集中に記され、団欒には父母の罵声がただようと書かれる。そして「われ」は父を毒殺するものがたりを読み飽きていく。「死んではじめて父やさしかれ」と荻原は記す。生きている間のやさしさはかなわない。ふしぎなものだ。親というものは子に殴り返される時期がくる寸前に暴力を奮わなくなる。そうなれば子の目には読売巨人軍の勝敗に浮き沈みする父のあわれな姿より、蛮行にかがやく姿を求める。憎むに値するというものか。激しい憎しみよりむしろかなしみのようなアイロニーが感じられる。

 ネロのごとわれは見おろす誕生日卓のケーキの上の大火事

一六歳で皇帝となり、哲学者セネカら忠臣を得て良い治世をなしたローマ帝国の皇帝ネロ。彼は後に女帝のように振る舞おうとした母によって酒に酔わされ母子相姦を行い、自己嫌悪のため母殺しをしたと伝えられる。その後、治世は乱れ、進化を処刑するといった恐怖政治が現出し、彼は暴君となっていった。そして、政治的に追い詰められ自殺する。と書くと大仰になるか。暴君というほどの意味だろう。破壊されていく街を処刑されいく四〇〇人の罪なき奴隷を見おろすがごとく、「われ」はケーキの上の蝋燭の火を見おろしている。誕生日。激しい諍いの後か。この炎は破壊をもたらすことはない。

 母よ母よもはやうらまねどもわれの飼ひし鶏食ひし日のこと

「サランラップに父の夜食も父の未来も包む母」とはどのようなものか。息子の飼っていた鶏を調理する母か。「もはやうらまねども」そこには以前、無理解の淵が横たわっていたろうか。「われの飼ひし鶏食ひし日のこと」という静かなことばの並びによって一層きしみを感じる。

 雲雀雲雀つひのすみかはこの星に見つからぬゆゑわれを誘へ

嫌悪か倦怠か憂愁か、そうしたものをはらみつつも、悲しみを迸らせることの少ないように思えるこのひとの声が天に迸っていく。周到なことばの連なりが破綻するとき、死へと傾いて、このひとはここではないどこかを見上げている気がする。

■4

 華燭待つ妹のシャツわがシャツと並びて風をはらめり今日は

それまで登場することのなかった妹が出てくる。その妹は「恋ひ恋ひて恋ひ恋ひ恋ひて」とその髪を飛瀑にたとえられる妹である。あまりに艶めいた登場のしかたにはっとさせられる。彼女が恋うのは、むろん婚約者である。その結婚を待つ妹のシャツが幼年期を過ごした家を出ようとしている時期に「わがシャツ」と並んで風をはらんでいる。抑えられているからこそ感じられる感慨。

 たはむれに釦をはづす妹よ悪意はひとをうつくしくする

妹はまた「たはむれに釦をはづす」。二つあけていた釦を三つに増やした、そのようなことだろう。そこには兄への親しみに満ちたからかいがある。家族としてここにいる最後の時間を惜しむ兄の前で妹はそのようなことをする。兄は目を留め、そしてゆっくりと視線をはずす。他人のようにうつくしいと思うのだろうか。兄の親しみを持ちながら。鸚鵡を追ってと頼まれて木に登り、擦り傷をつくったあの頃に帰りえないことを知りながら。

 母となるを拒む胸なり春暁に猫の卵のごとくけぶるは

恋人の胸はこのひとの目から見れば「母となるを拒む胸」である。夜が明けるまで離しては抱き寄せたその胸は、春霞の暁のひかりにほの白く浮かびあがりはじめる。それはありえないものの卵のように、命をはらみえないからだのように、ひかりに煙って見える。

 母か堕胎か決めかねている恋人の火星の雪のやうな顔つき

さて、ここでは男は「生めば」とでも突き放したのだろうか。しかしまたそこに恋人は不可思議な嫌悪めいたものをかぎ取ったのだろう。決めかねているこころのうちには、そばにいるようでいない恋人への不安がある。それを「火星の雪のやうな顔つき」とこのひとはいう。

 鸚鵡語ではなしてゐるとクローンになつた気がする少年だつた

鸚鵡語とは何か。おそらくは空っぽのことばだろう。生まれたときのみずみずしさを失ったことばをただ便宜上並べているような。そして、それはもはや意味をなす力すら失っているようだ。そのようなことばを話していると少年は複製された、つまりはいくらでも取り替え可能な人形のような存在となった気がしたというのだろう。

■5

 鳩小屋に帰らぬ一羽とほき日にそれを愛した(∴他を殺した)

鳩小屋に帰らぬ一羽とは、長い時間をともに小さな小屋で過ごしながら飛び立って帰らないひとを指すのか。得ることのないひとを遠い日に愛した。そのことによってこの思いだけが結晶化しているかに見える。愛したと記したのはこの一首のみか。

 雪片のかたちしづかになぞりつつ街でカフカを待つてゐました

カフカというとなぜかわたしは幼い日のカフカのエピソードを思い出す。いつもよりたくさんの小遣いを持って街を歩いていたカフカ。彼は乞食を見てしまう。乞食に渡すにはあまりに多い額を手渡すことで相手につらい思いをさせたくなくて、街を幾度も巡っては一枚一枚小遣いを渡したというカフカを。そんなカフカをこのひとは待っていた気がする。

 ここにゐてかつ悠かなるものであるぼくをどうにかしてくれ虹よ

このひとの繰り返し述べる虹とは何だろう。それはまれに訪れては雨のあとの青空に浮かび上がる消えゆくものである。そのような瞬間の七色。青とは何だろう。それは永劫を思わせる宇宙の闇をひかりによって薄めた色だ。永劫のなかに浮かんでは消えるそれは、命のようなものか。日常というものを生きる命。ここにいて意識というものを持ち、限られた存在として在りながら、かつ悠久を思う「ぼく」とは何か。そうして思惟から逃れられない「ぼく」とは。命のようでありながら太陽の影たる虹。届かない存在にしか宇宙の塵のような「ぼく」は悲鳴をあげることができない。

 はつなつの郵便局に忘れられ褪せるジョイスのやうなこの日々

はつなつはいつのことだったか。陰暦の四月の別称というからには、いまくらいか。五月とはこのひとが幾度も立ち止まる季節だ。寺山修司忌も五月四日である。それが作者にとってどういう季節かは知らない。そのようなさみどりの季節に誰かへのことばを送る郵便局に足を伸ばす。そうしてたとえば切手を貼るような何気ない一瞬に、たとえば夢の世界の小説と呼ばれる『ユリシーズ』を置き忘れる。そのように彼は何かを置き忘れ、それは色褪せていく。彼の置き忘れたそれは何だろう。真に欲し続けながら得ることを迂回し続けた夢のような何か。忘れられ褪せながらもそれは、彼のなかにある発信しようという思いのどこかに厳然としてあり続けるのである。