短歌との出会い
■短歌をつくりはじめたのは高校時代だそうですが、最初の動機をお聞かせ下さい。

寺山修司や春日井建、そして塚本邦雄、いわゆる前衛短歌の作品に出逢ったのがきっかけです。こんなにきらきらした世界が短歌でも可能なのか、だったら自分も書いてみたい、といった感じです。

 

■言葉による表現、なかでも短歌という詩型を選んだのは?

散文表現ではなく詩歌に惹かれたのは、日本語を制約なく自由にコレクションしたかったからかな。他のジャンルではなく短歌がメインになったのは、当時詩を書いていて、なかなか完成感が得られなくて、短歌のように定型があればそれが解消されると思ったからです。詩にもフォルムがあるということにうまく気づけなかったんです。俳句も書きはじめてはいたのですが、俳句だとちょっと書き足りない気がして。川柳の存在はよく知らなかったし。選んだ、というほど明確な意識があったわけじゃなく、漂流しているときに大波(前衛短歌)に出逢って、気づいたら短歌のみぎわに打ちあげられていたのでした。

 

■前衛短歌に出逢う前にも短歌を読んではいたのですか?

一応は読んでいました。北原白秋『桐の花』、与謝野晶子『みだれ髪』、あとは、石川啄木かな。目を通した、という程度です。これらの作品の良さが理解できるようになったのは、塚本邦雄等の鑑賞文などを読むようになってからでした。塚本邦雄は、晶子と啄木の評価はさほど高くないんだけど、鑑賞文を読んでいるとおのずと短歌の文体に慣れるから、どの部分におもしろさが隠れているのか、少しずつわかるようになったのかも知れませんね。鑑賞文では、朝日新聞で連載がはじまった頃の大岡信の「折々のうた」も大いに参考になりました。

 

■角川の公募短歌館に投稿していて塚本先生の指導を受けるようになったそうですね。

塚本邦雄さんとはじめて出逢ったのは、角川書店「短歌」の「公募短歌館」と「サンデー毎日」の「サンデー秀句館」への投稿がきっかけです。十九歳から二十歳にかけて、塚本選の公募に投稿していました。私信も出したりしていたものですから、それで、塚本さんが名古屋に来るときに声をかけてくれて、あちらの仕事の間の時間に逢うことになりました。二十歳になる直前の初夏だったと思います。いま書いているものは俳句の方がおもしろいけど、俳句はやめて短歌を書いた方がいい、とか、角川短歌賞に応募してみたらどうか、とか、結社に入るのはやめておきなさい、とか、それと、一首に情報を詰めこみすぎなので、内容をもっと薄めた方がいい、とか、そういったアドバイスをもらいました。

 

■インターネット環境がなかった当時に結社に入らなくて、孤独ではありませんでしたか?

いわゆる習作期には、孤独を強くは感じませんでした。いや、孤独ではあったんですけど、感じる暇がないと言うか、ある程度までイメージできた通りに作品が書けるまでは、他の歌人のことを考える余裕がなかったんだと思います。投稿欄選者の塚本邦雄と自分しかいない世界でした。ただ、いったん自分の作品がまとめて雑誌に掲載されたら、とたんに淋しくなりましたね。話相手がほしくなりました。
その後、短歌総合誌に現住所が載ったらある人から郵便が来て、若い歌人たちの会合に誘われ、同世代の歌人にはじめて逢いました。そこで逢った歌人から「歌人集団・中の会」に誘われ、さらにそこで逢った歌人から中京大学の短歌会に誘われました。話相手のほしかったときだったのですべての話に飛びつきました。加えて同じ時期に塚本邦雄の「玲瓏」が創刊されましたので、気づいたら周囲がすっかり歌人ばかりになっていました。一九八五年から八六年にかけてのことです。

 

■最初に作品が雑誌に掲載されたのは角川短歌賞最終候補のときですか? たしかプロフィールに現住所を記載したというお話でしたね。

角川短歌賞の候補になって50首が掲載された直後に、候補歌人全員による競詠の企画があって、散文のコメントも依頼されたので、つい現住所を載せました。魔がさした、と言うか、ほんのできごころです……。

 

■仲間たちに出逢って、ひとりで書いていた頃と何か変わりましたか?

一人で書いていたときには、価値の尺度が世界に一つしか存在していませんでした。塚本邦雄=自分=読者と言えばいいでしょうか。想定はしたものの、他者のいない世界で書いていたわけですね。多くの歌人と出逢って、自分の知らない価値の尺度があること、それも一つではなく複雑にさまざまにあることを実感しました。理屈ではわかってたんですけど、実感して、おどろきました。
この他者の価値の尺度との出会いによって、考え方ははっきり変わりました。変わった、と言うか、明確になったと言うべきかな。短歌には固定された絶対的な法則があるわけではなく、歴史が舵取りをして来たのだなと考えるようになりました。つまりその時代の強度のある思潮が「短歌の現在」を決めてきた、といったような意味です。たとえば、明星とかアララギとかね。ぼくがそう考えるようになった/感じるようになったのは、はじめ、近代以降の短歌の総決算的なものとして前衛短歌(だけ)をベースに短歌を考えていたのに、歌会や研究会の「場」がすでに別の「場」にスライドしていた、というきわめてシンプルな事実に出逢ったからです。だから、歴史を知らないと何もはじまらないと思ったし、同時に、歴史を知れば自分も舵を取れるかも、とか(笑)。
活動については、先に書いたように出られるかぎりの場に出向くようになりました。それ以後、多少波はありますが、現在まで、歌会や批評会などで他者の意見を聞いて吸収しながら、自分自身の意見を再構築するという姿勢は変わりません。

 

■歴史を知るためには、やはり文献にあたったのですか? 様々な切口があると思うんですが、その入口を教えて下さい。

歌集や歌書はもちろんいろいろ読みましたが、特にこれと言った入口はないと思いますよ。興味の湧いたところから順に読んだり、多少はがまんして読んだり、という感じです。読んで書いて読んで書いてを繰り返すうちに、少しずつ吸収できたようなできないようなそんな繰り返しじゃないでしょうか。

 

■以前に、第一歌集を出すときに第四歌集までの設計図のようなものがすでに出来ていたというお話を伺ったことがありましたが、それもこの「歴史の舵取り」のお話と関わってくるんですか?

歌集の青写真はたしかに早くからあったけど、歴史云々なんていう大袈裟なものではなく、一個人としての旅行プランみたいなものです。定番リゾートから未踏に近い国までとか……。歴史の舵取り、というのは、ちょっと違って、むりやり現在の活動にあてはめれば、短歌の「場」の構成のことになるかな。舵取りなんて到底無理だと悟りましたが(笑)。

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