つながることば、切れることば
電子会議室やメーリングリストといった場所で書きこみをつづけていると、自分の発したことばが、知らぬ間にネット上に人格のようなものを形成してしまい、何度もレスポンスを繰り返すうちに、自分が語っているのか、その人格に語らされているのか、よくわからなくなることがある。むろん自分が考えていないことを書くわけもないし、それを自覚はできるのだが、語らされているという錯覚(?)はにわかには去らない。ネットにつながったはじめの数年、これがかなりの疲労をもたらした。何人かの友人たちは、過去に偏執するというぼくの個人的な資質にかかわりがあるのだと分析してくれたが、よしんば個人の資質の問題であるにせよ、ネットにおいてはじめて明確にあらわれたのだとすれば、そこにはネットワークにおけるコミュニケーションの特質を考える契機が含まれているのではないだろうか。

これまでに疲労を感覚した場所として、電子会議室では、ニフティサーブ(現アットニフティ)の「短歌フォーラム」、メーリングリストでは、「歌人メーリングリスト(通称tk)」と「現代歌人会議(通称GK)」があった。私的な事情があって、ほぼ毎日書きこむというアクティブな状態がつづいていたのはそ れぞれ半年から一年くらいの期間だったが、いずれの場所でも、書きこみをはじめて短期間のうちに、人格がたちあがるという錯覚がおとずれた。同時に疲労が襲ってきた。たとえ私的な事情がなかったとしても、やがてアクティブではいられなくなる時期が来たのではなかったかと思う。短歌をモチーフにしているというだけで、メンバーもシステムも異なるこれらの場所で同じ現象を体験した理由が、しばらくどうもよくわからないままにいた。過去ログを読みなおしたりして、自分の発言のある傾向に気がついたのは、加藤治郎、穂村弘とメーリングリストを立ちあげる計画を練っていたときだった。

端的にいうとぼくの発言は、ほぼ例外なく「ものほしげ」だったのである。ひとりごとのように語っていても、過剰なまでにレスポンスをほしがっている態度があらわなのだ。なぜそんな単純なことに気づかなかったのか。他者のことばに極端に飢えていたのかも知れない。あたりを見まわしてみると、ネットワーク上の言説には、聞こえは悪いが、ものほしげな、つながるタイプのことばと、他者とやわらかに距離を置いた、切れるタイプのことばがあった。長期にわたってアクティブな状態をつづけている人の多くは、切れることばを多用しているようだ。たとえば、短歌フォーラムのマネージャーのコメントは、ほとんどすべてが切れることばだった。自分のコメントと彼のコメントがツリーの末尾に来ることが多かったので比較してみると、ぼくの場合はほとんどコメントがそこで中断していた。彼の場合は、コメントツリーがそこで中断するのではなく、完結しているのである。

くだんのメーリングリスト「ラエティティア」の運営にあたって、疲労を回避するのを目的に、この切れることばで少しコメントを書いてみたところ、以前のような疲労はまったく感じなくなった。コミュニケーションとしてはどこか冷たい感じがするし、面白味があまり感じられないので、ことの是非は判断しづらい。ただ、運営者がアクティブでいられなくなってはどうにもならないので、適宜こうした疲労からの回避を実践している。それに、あとでログをたどってみると、見分けがつかなくなっているものもあるようだ。開設からすでに二年という時間が経過したが、あの疲労からは完全に解放されたのを実感している。

気になっているのは、以前、ネット上に形成されたように錯覚した人格らしきものの行方である。以前を知っている「ラエティティア」の仲間からは、いまの態度は信用がならないとか、猫をかぶっているとか、悪魔の尻尾をかくしているとか、さんざんに言われているし、自分自身も「彼」にもう一度会ってみたいという気持ちがあったりもする。ただ、つながることばと切れることばのバランスを欠くと、結局、以前のあの疲労にみまわれてしまうだろう。もちろんあきらめたわけではない。いま考えているのは、ウェブにこうした切れることばを綴りながら、それを別所でコミュニケーションする人たちにも読んでもらい、自分の中のバランスを保てないかということである。その確信が持てたら、いつかまた「彼」に会ってみようと思っている。