孤島の力学
人の頭の中というのは「わかることと」と「わからないこと」の地形図のようなものだろうか。自分の感覚に即して書くと、わかることはわかること同士で手をとりあうようにかたまって中心のようなものをつくっており、わからないことを外側に追い出そうとする。中央にあるわかることの列島をわからないことの海が取り囲んでいるという風景である。ただ、海の上にはところどころに孤島があり、それはあきらかにわかることの一部なんだけれど、決して中央の列島とはかかわらないという風情でぽつんと浮かんでいるのだ。精神分析の本などを繙くと、ぼくが列島と感じている部分というのは、一般にアイデンティティ(自己同一性)と呼ばれるものらしいのだが、だとしたらこの孤島はいったい何なのだろうか。

1980年代に読んだ日本の小説で、ああ、わかるわかる、これはいいな、面白いぞ、絶対にいい、という確信を持ったもので、たとえば、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は列島のある部分に位置していた。高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』は孤島だった。もっと自分のそばにひきよせて、1990年代の歌集で考えるならば、前者の例には加藤治郎の『マイ・ロマンサー』があり、後者の例には穂村弘の『シンジケート』がある。単純な言い方をしてしまえば、いまの自分が意識的に抽出できる世界観や歴史の、内にあるのか外にあるのか、という違いなのだろう。自分にとっての問題は、意識的に抽出できる世界観や歴史の「外」に、わかるもの絶対にいいと思うものが存在するという事実である。孤島=「外」の存在は、自分の世界観や歴史を修整してくれるとともに、その時点で意識的に抽出できる自分の世界観や歴史を根本から揺るがすわけでもあるのだから。

岩波書店が企画した「へるめす歌会」に参加したとき、企画のしめくくりとして、のちに小林恭二が『短歌パラダイス』(岩波新書)にまとめた歌あわせのイベントがあった。伊豆の旅館に宿泊し、穂村弘、水原紫苑と、朝まで作品の推敲について話をしていた。そのときに驚かされたのは、第一に、彼等と自分の「列島」のかたちがそんなに違わないと感じたこと。あそこまで作風が違うのは、当然共有している認識が思いきり違うためだろうと思いこんでいたのだった。第二に、「列島」のかたちというか、その存在すらほとんど問題にせずに彼等が推敲を進めようとしていると感じたこと。つまり、「孤島の力学」だけを頼りに、彼等は作品をしあげようとしているように見えたのだ。むろん誰も純粋に「孤島」だけに力点を置いて作歌をすることは不可能だと思うが、比重がすごい、というか異常だと感じた。彼等の意見は逡巡が少ない。絶対に近い確信のもとに語られる。「列島」とのかかわりをつねに考えているぼくの感覚はしばしばはじきとばされそうになった。

穂村弘のこの感覚は、最近上梓された『短歌という爆弾−今すぐ歌人になりたいあなたのために−』(小学館)や、東直子、沢田康彦との共著『短歌はプロに訊け!』(本の雑誌社)でもあきらかにされている。現代短歌をある程度以上読んでいる人には『短歌という爆弾』が、あまり現代短歌に親しんでいない人には『短歌はプロに訊け!』が、よりわかりやすく読めるようだ。二冊の詳細については、稿をあらためて考えたいと思っている。

孤島の力学から生まれることばは強い。これはもうどうにも否定しようがないくらいあきらかなことだと感じられる。ぼく自身ももちろん自分のことばに「強さ」を与えるためにしばしばそこへ船出している。しかし、この「強さ」にひたすら従順になるのは、どこかためらわれるところもある。大海の中の孤島というのは、ぼくたちの「位置」をかぎりなく曖昧にし、ときに消失させてしまうと思われるからだ。ぼくたちはどこにいるのか? どこにいたらいいのか?