再掲載について
「デジタル・ビスケット」に掲載してもらうため、既発表の原稿をいろいろ読みかえしてみた。あああのときはこんなことを考えていたのかとか、なんだこのまとはずれな考えはとか、さながら日記を読みかえすような調子で、ひとりで赤くなったり青くなったりしている。大幅に加筆・訂正をしてきちんと一冊にまとめなければという思いが深まったが、ともあれ、自分がその時間を生きた証でもあるいくつかを、観念してそのままのかたちでパティシエールに渡した。我田引水を気にせず言えば、本にならなければそのまま埋もれてしまうかも知れない文章をこうして再掲載できるのも、ホームページの効用だろう。考えてみれば、自作論を作者側でまとめることもタブーのひとつだが、折角の機会なので、このメディアの可能性をとことん追究してみたい。いささかの註を以下に添えておく。

「少女主義の王女道」と「主格のパレード」は、サブタイトルのとおり、芹沢茜さんと千葉聡さんの連作に寄せた乱暴なファンレターである。1990年代に出現した彼等は、ぼくの批評のことばが届かない遙かな場所で短歌を愉しんでいるようなのだが、作品の面白さに惹かれ、強引に接触した位置から語ってみたものである。快諾を得て、当該の連作も併せて収録させてもらった。彼等の作品を読むためのきっかけとなってくれればうれしい。

「1999年の縦と横」と「横糸の見えない織物」は、自身の歌論のフラグメントであり、また、不可思議なことばのひかりをはなつ同世代の女性歌人論のためのエスキースでもある。水原紫苑、紀野恵といった、およそ世界観を共有することが不可能と感じられる歌人たちの作品に、なぜ自分が共鳴してしまうのかがうまく理解できずに悩んでいた。1995年から翌年にかけて開催された岩波書店のへるめす歌会に一緒に参加したとき、作歌の現場を物理的に共有したことで、彼女たちの時空にわずかに触れた気がしたその感覚をどうにかことばにしてみたのである。穂村弘は、この感覚を〈わがまま〉というキーワードで切りとって鮮やかに提示してみせているが、ぼくはまだ歴史を遡ってみたいという誘惑にかられてぐずぐずしているところである。

また、既発表の「荻原裕幸論」として、山田消児さんの「退屈文法入門」と渡部光一郎さんの「ノート・作為と愛唱性の問題」を再録させてもらった。自作が正面から論じられるのは無条件にうれしい。まして論理の曇らないこの二篇のような文章であればなおさらである。読んでいただけばわかるように、作者として痛みのはげしい部分にも鮮やかにつきささって来るが、彼等のことばに導かれて見えて来たものは数えきれないほどあった。あらためて感謝したい気持ちでいっぱいである。