ことばの外、ことばの中
いまここにいる自分を、あるいは自分をそこに投影できるような誰かを描こうとするとき、ことばというものは、理解や感動とひきかえに、自分が持っている「かけがえのなさ」を奪おうとする。あくまでもかけがえのなさをつらぬこうとすれば、ことばは歪み、とたんにてのひらをかえしたように理解や感動をそこから奪ってしまう。文芸作品、とりわけ「一人称詩」と呼ばれる短歌を書こうとするとき、こうした困難から自由になれる人はいないと思う。実際、ぼく自身、この困難な迷宮の中をずっと彷徨している感覚がある。だが、読む作品すべてをこの迷宮の地図の中で裁断してみるとき、そこには、何か違うぞ、という声がいつもひびいている。いかに鋭利な批評の言葉に切り裂かれようとも、不思議に可能性のすべてが失われるという感触がない。この迷宮には、どこからか光のさしこむ窓のようなものがあって、書き手に何かを囁きかけているのを感じるのだ。希望などというのは陳腐だが、それはまさに希望という以外にいいようのない明るさと儚さを同時にぼくにもたらしている。

適切なことばが見つからないが、自分をそこに描くのではなく、つまり、ことばの外に自分を置くのではなく、ことばの中から自分が姿をあらわすようにすること。書き手に求められているのはそういうことではないだろうか。現代短歌のほとんどは、前者と後者が未分離の状態のままで書かれていると思う。だからこそ、二十世紀の後半に、文芸が直面している困難の迷宮の中で、瀕死の様相を呈しながらも、ときに希望と呼びたくなるような光を感じさせるのではないだろうか。