記憶、もしくは世界征服について
少年期の記憶というのは、辻褄がよくあうほど、また鮮明であるほど、いつかしら自分の都合のいいように整形している可能性が高いものらしい。言われてみればたしかに、はっきり思い出せる光景の中には、自分自身を第三者の視界で見ているものなどがあって、これはどう考えてみても、あとから写真だとか8ミリだとか家族の話だとかの情報が混入しているに違いないのだ。以下の記憶もむろんその類だと思われる。ただ、よしんば整形されているにしても、すでに消しようのない「事実」としてぼくの中に棲みついてしまっているのは間違いない。好きなことを好きな長さで、なんでもどんどん書いてね、というパティシエールのすすめにしたがって、気儘に綴っておきたい。

年代がたしかに思い出せないほど、うっすらと忘却のとばりがおりはじめているが、十代になってすぐの頃だったろうか。季節もさだかではない。兄の部屋に、午後の、きんいろといった感じの陽がさしこんでいた。ほのかにタバコの匂いがあった。そう言えば何か外で音がしていたような気がする。このあたりははっきりしない。兄に話しかけようとしながら、どこか照れくさくて視線を逸らしていた。彼の肩越しに書棚を見ていた。本がびっしり並んだ上に横積みにもされていた。背表紙がどれもあやしげな印象だった。具体的には一冊も憶えていない。ただ、柳田国男の「國」が難しい字で書かれているなとぼんやり考えていた。沈黙がながくなったので切り出した。
「ねえ兄さん、この世界のからくりがわかる本というのはないの?」
「世界のからくり?」
唐突な質問に、兄は不思議そうな表情を浮かべていた。彼にとって年のはなれた弟の方から本の話を切り出されるというのは珍しいことだったと思う。
「うん。読んだら世界のからくりがわかる本。勉強してみようと思って」
「勉強か、珍しいな。えーと、聖書か何かそんな本でいいのかな」
「聖書? むかしの世界じゃなくてさ、いまの世界のはないの?」
「あるけど……、マルクスって知ってるか?」
「知ってるよ。でも難しんでしょ?」
「まあな」
「ぼくが読んでわかる本じゃないとだめだよ」
「ニーチェでも読んでみるか?」
と書棚に手をのばそうとする仕草は見せるものの、もうこのあたりになると兄は、何かくすぐったそうな、冗談めいた微笑を浮かべていた。
「世界のからくりなんてどうして急に知りたくなったんだ?」
「ちょっと考えてることがあって」
「ちょっとって?」
「うん、世界征服」
「はあ?」
「せかいせいふく!」
「あはは、そうか」
兄の表情がさらに柔らかいものになった。
「もしかして世界のからくりがわかる本ってないの?」
「ないことはないが、納得できるように書いてある本は知らない」
「探せば見つかるかな?」
「探すよりもおまえが自分で書いた方が早いよ」
「自分で?」
「そう、自分で」
と聞いたあたりで記憶は途切れている。兄はもちろんこれを冗談で言ったのだと思う。でも、ぼくの世界征服というのは本気だったのだ。いま語ってしまえばステレオタイプになるほかないが、この世界には自分を拘束するものが多すぎる。世界を征服して嫌なものをすべてリセットしてしまえば、自由な毎日が訪れるだろう。世界征服を成し遂げるためにはまず世界のからくりを知らなければならない。勉強は嫌いだがこれだけはがまんしよう。無知で無垢で純粋で無謀でピュアでパワフルな、そんな気持ちの流れがあったのだ。ところが、勉強しようにも世界のからくりは手の届くところにないという。探し出すよりも自分で書いた方が早いという。コペルニクス的転回というやつだ。以来、世界征服に向かって世界のからくりを自分で書きあげるという夢が、ぼくの中で鳴りひびきはじめたのだった。

記憶の日から、たぶんすでに二十数年の歳月が流れているが、実は、この夢というのはかわっていない。かわっていない、というか、少年期に抱えた数々の夢の中で、いちばん切実で生命力の強かったものだけが生き残ったというのが的確だろうか。ぼくの夢は世界征服、なんてあからさまに書くと、自分でも笑い出しそうになる。けれど、いくたび自身の声に耳を傾けてみても、これは本気なのだという答がある。たとえば文芸で、たとえば短歌で、世界征服が実現するのかどうか、当人にも成算はまったくないけれども、自分のすべての行為がまっすぐ夢の方を向いているということには、根拠を説明できない確信みたいなものがある。なぜだろう。もしかすると、前進しているか停滞しているかがわからないところに、盲目的なパワーを生み出すみなもとがあるのかも知れない。世界征服には段階がないのだから。すべてかゼロかなのだ。いまここで果たされていないという事実が、明日の可能性をまったく否定しないのである。