『短歌という爆弾』について
穂村弘の『短歌という爆弾』について、あれこれとメモをとってみたのだけれど、どうもそれらを有機的につなげて語るためには、まだ時間がかかりそうな気がする。誤読や修正点は追記することにして、外枠にかかわる数点を、断片のかたちでアップしておく。こなれてない箇所が多数あると思う。

先の「入門書のときめき」の繰り返しになるけれど、入門書としての『短歌という爆弾』はいい。短歌を書くことをめぐる「ときめき」がここには充満している。ときめきを忘れたら、すべては終りだ。

瀬尾育生が評論集『われわれ自身である寓意』(思潮社)のあとがきに書いた「詩はどうあるべきか、詩人はいまどんな困難に直面しているのか…(中略)…詩の世界にはどんな系列があり、どれがよくてどれが悪いのか、詩のメディアはどんな戦略を駆使すべきか……いま詩論が語るべきことは、そういう内輪の話、舞台裏のおしゃべりではない。」ということばを思い出した。瀬尾と穂村とではまるで発想の感触が違うが、何かが共振しているのを感じた。

「構造図」への印象的な疑問。誰かから『シンジケート』『ドライ ドライ アイス』が何にいちばん近いかという問があったとしたら、ぼくは、同世代なら、ちょっと違うんだけど加藤治郎か俵万智じゃないかという答をすると思う。決して水原紫苑とか早坂類とか大滝和子とか東直子という答がいちばんには出てこないと思う。少しさかのぼるならためらわず寺山修司の名前をあげるだろう。穂村と寺山との近似感はぼくの中では安定している。フィルターがひとつ、違っているか欠落しているか隠蔽されている気がする。むろんぼくから見ればの話だが。

「<私>の補強」への感触的な疑問。<私>の補強作用というのは、情報として<私>をとらえる視点を文体として<私>をとらえる視点に切り換えた出色のものだと思う。けれど、ここにおいて<私>の像を質的に問うという発想を温存してしまったら、「あなたは誰?」という質問から結局逃れられないのではないのだろうか。このあたりの一人称をめぐる短歌への接触感が、寺山を思わせる大きな理由かも知れない。情報としての「嘘つき」感を払拭した姿勢は、寺山を裏返したかあるいは水平移動したように見える。

「<わがまま>について」と「位置」の問題。<私>の補強作用による自己肯定に対して正方向にアクションした場合、リアリズムだろうと非リアリズムだろうと短歌はものすごい強度を発揮する。<わがまま>というのはこの強度の増幅装置のようなものだと言える。ここで気になるのは、ことばでつくりだした世界がイコール<私>になるといった説明である(「身代わり」というニュアンスでは読みとれなかった)。<わがまま>がきわまるということは不可能だとは思うが、仮にきわまったとすると、そのとき<私>はことばそのものと一体化しないか。そこにはすさまじい強度が生まれるだろう。けれどそのとき<私>は透きとおった空気のような存在になりはしないだろうか。透きとおった<私>には「位置」が欠落する。

「位置」というのは文字通り世界のどこにいるのかということだ。われわれは何かを書くという行為者であるかぎり、無ではあり得ない。無でないということはこの世界のどこかにいるということになる。どこかにいるということを言うためには「位置」を示すしか方法がない。<わがまま>の方法論が成立するとしたら、それは<わがまま>を突きつめた結果と<私>の「位置」があきらかになることとが一致する場合ではないだろうか。穂村弘と寺山修司が似た感触を与えるのは、ぼくの中に<私>の「位置」というフィルターがあるからじゃないかと思う。

ぼくは、穂村弘(の短歌や歌論)を、<私>を問うことではじまる問自体からの逸脱、だと感じている。<私>を問うという迷宮を抜けてなお<私>であるためには、<私>がいるということが力強く示せればいいという世界観がそこにはあると思う。もちろん「歌に輝きを与える・あるひとつの力」は穂村にも語れなければ誰にも語れないものなのだが、語れないものを語れないものとして語るという穂村の姿勢は、大きな信頼に値するものだろう。