入門書のときめき
ぼくが小学生の頃、秋田書店からだったと思うけれど、こども向きの趣味の入門書が、シリーズとなって出版されていて、そのなかでも十冊くらいだったろうか、すみずみまでむさぼるように読んでいた日々を、漠然とながらおぼえている。内容はほとんど忘れてしまったにもかかわらず、たとえば野球の入門を読んですっかりエースピッチャーの気分になっているというような、あるいは切手収集の入門を読んで世界中の切手をコレクションする気分になっているというような、読んだときのときめきの感触が、まだ自分のどこかに残っている。思い出のなかで印象が増幅されているのかも知れないし、実用書としてのレベルがどうだったか、今となってはわからないけど、少年に夢を見させる力のある本だったことだけはまちがいない。

そのような入門書マニアだったせいか、詩を書きはじめた頃、また短歌や俳句を書くようになってからも、入門書はかなり読みあさった。役に立った本とつまらなかった本はそれぞれかなりたくさんあったが、前述したような意味でときめいた本、夢を見させてくれた本というのはほとんどなかった。例外的にときめいたのが、小林恭二『実用青春俳句講座』(福武書店、ちくま文庫)で、実際、読んだ翌年には俳句の同人誌を創刊したりもした。そんな意識がどこからか通じたのか、縁あって文庫解説を書いたので、『実用青春俳句講座』についてはそちらも見てほしいが、最近もう一冊、このときめきを感じることのできる入門書に出逢った。四月に刊行されたばかりの、穂村弘『短歌という爆弾』(小学館)である。

先に「週刊読書人」の時評でも少し触れたことだが、『短歌という爆弾』は短歌入門の数々の常識を破った一冊である。そもそも、従来の短歌入門や短歌史を信頼しない場所から書きおこされていると言ったらいいだろうか。入門書という観点から至上のものだと感じるし、何よりも「書く」ということのときめきを体現している。穂村弘の考える短歌というものに具体的なかたちが与えられている。見えない短歌の法則のためにみんな苦労しなさいという、ともすれば短歌入門につきまとういちばん嫌なごまかしがない。

むろん穂村の短歌観とぼくの短歌観のすれちがうところはかなりたくさんある。これから、折に触れて、異論をとなえたり、批判したりすることはあるだろう。ただ、はじめに読んだときのあの「ときめき」の感覚は大切なものだと感じるし、決して忘れることはないと思う。『短歌という爆弾』についてのメモをあれこれまとめているのだが、まずこの「ときめき」を、自分のなかであらためて認識しておきたかった。歌人の内輪的なおしゃべりとしてこの本が批判されるのは、いまもっともかかわりたくない状況のひとつである。