故郷・北九州市八幡西区上津役の郷土史と想い出

【1】郷土の区分変遷の歴史;
・1889(明治22)年 - 「明治の大合併」で上津役村が誕生 
 遠賀郡上津役村(人口2,631人)- 小嶺・上上津役・下上津役・引野・市瀬・穴生の6村合併 
・1937(昭和12)年 - 遠賀郡上津役村が八幡市に編入される
  ※1962(昭和37)年12月 digi誕生
・1963(昭和38)年 
 2月10日 - 八幡市が小倉市・門司市・戸畑市・若松市との5市合併で北九州市となる。
 4月1日 - 北九州市が政令指定都市となり、旧八幡市部分は八幡区となる。
・1974(昭和49)年 八幡区が分区され、八幡西区と八幡東区となる。

【2】商工業の発展;
官営八幡製鉄所および、その後の日本製鐵八幡製鐵所に代表される鉄鋼重工業を主幹産業とした。
戦後(1950年以降)はこの日本製鐵が解体され発足した八幡製鐵と黒崎窯業(現・黒崎播磨)、
安川電機などが市内の最有力企業として長く君臨した。
尚、八幡製鐵が合併により新日本製鐵となったのは北九州市発足後の1970年の事であった。

戦前から1950年代にかけ、八幡市の中心地は中央区(現在の八幡東区中央町)で、
西鉄北九州線の交差点でもあり、交通要所の機能からも非常に栄えた。
また八幡市に編入された黒崎(旧黒崎町)・折尾(旧折尾町)地区では商業が急発達。
特に黒崎は1970年代初頭より一大商業地となり、北九州5市の西の中心地域として発展した。

<八幡西区内に本社のある主要企業>
安川電機 
黒崎播磨 
三井ハイテック 
安川情報システム 
高田工業所 
日本乾溜工業 
ネッツトヨタ北九州 
北九州日産モーター 
スーパー大栄 (日本で最初のスーパーマーケット)
デンソー北九州製作所→デンソーから2006年4月に分社化したカーエアコンメーカ

<八幡西区内に事業所のある主要企業>
三菱化学 
三菱化学エンジニアリング 
三菱化学物流 
井筒屋 
日本セレモニー(愛グループ) 

【3】石炭の産地であった遠賀郡;
・遠賀郡は、現在の岡垣町、芦屋町、遠賀町、水巻町、中間市、八幡西区南西部にあたる。
・元禄16(1703)年にまとめられた『筑前國續風土記』には「遠賀、鞍手殊に多し」とある。
 (貝原益軒『筑前国続風土記』巻之二十九 土産考上 土石類【燃石】) 
・特に長崎街道に面した、黒崎・小屋瀬の石炭採掘の様子は、
 元禄4(1691)年〜元禄5(1692)年のオランダ商館長として江戸参府に随行したケンペルが、
 『日本誌』の中で次の様に紹介している。 

★上津役および、小嶺一里塚付近(大平、中の谷)と思われる記述部分の抜粋
 『黒崎から小屋瀬の間、途中数カ所炭坑がある。
 同行の人々は、我々に非常に珍しいものだと説明した。
 上津役(こうじゃく Koosjakf)村があり、
 次いでまた1つの道標(小嶺一里塚の事)がある。
 その半里先に石炭を掘る小さい村(大平地区のアケ坂を登った辺り〜中の谷(なかんたに)
 (後の新中鶴炭鉱(新三抗:竪抗(昭和39年閉山)付近)と思われる)があった。』
 (ケンペル『日本誌』 第五巻 第十三章
  「江戸から長崎までの帰り旅 5月2日」, p.350 今井正訳, 霞ヶ関出版, 1973年刊)

【4】故郷・上津役村(小嶺村)の紹介と想い出;
<[長崎街道]上の原〜下上津役〜上上津役(現:町上津役付近)〜小嶺一里塚〜石坂>
この旧道・長崎街道のルート紹介がてら、
私の生まれ育った故郷・小嶺村と子供時分の想い出も一緒に紹介したく存じます。


昭和30年代の曲里の松林

・黒崎宿・「曲里(まがり)の松林」より、南に一里ばかり下ってくると、
 鞘の神(さいのかみ:現、幸神)、京良城(きょうらぎ)、引野村を通過し、
 下上津役(しもこうじゃく)村・小字「割子川(わりこがわ)」、
 「上の原(うえのはる)」に至ります。
 街道は、この上の原付近より、長い下り坂となります。
 上の原には、昔から大層ご利益のあるお参り名所が2つありますので、紹介しましょう。

  名所:涼天満宮と金かけの松の紹介
  上の原には、「涼天満宮(すずみてんまんぐう)」があります。
  平安の世に菅原道真公が大宰府に流される途中、ここで涼み休息したと伝えられる神社で、
  903年、道真公御自ら神霊を招請し神社を建立したと言われている古い天満宮です。
  この時、道真公はこの地に松の木を植えたと言われています。
  道真公お手植えの松はその後、大木となり「涼みの松」、「夢想の松」と呼ばれました。
  この神社の鳥居は長崎の商人・熊部新次郎が寄進した鳥居ですが、
  こんな話が残っています。

  「金かけの松」
  長崎の商人・熊部は商用で京に行く途中、涼天満宮で休息をした。
  大松の木陰にすわり、懐中持参の大金の入った財布を松の枝にかけ、弁当を食べ
  旅の疲れと暑さで、ついうとうとと眠り込んでしまいました。
  さあ、先は長いぞと出発の時、天神様と大松に丁寧にお辞儀をした後に出発しますが、
  この時、つい松の枝にかけていた財布のことは、すっかり忘れてしまっていたのです。
  その後、門司・田ノ浦で乗船した大阪行きの北前船の中で思い出したのですが既に時遅し。
  しかし、あんなに気持ち良く休ませて頂けたのだから...とあきらめたのです。

  一度は、あきらめた財布ですが、
  京からの帰り道のこと、もしやと思い、この天満宮を訪ねてみました。
  すると、見覚えのある財布が、松の枝にぶらぶらと下がっているではありませんか。
  しかも中身は元のまま。これこそ、天神様のご利益と小躍りして喜びました。
  この事に大層、感謝感激した彼は、後に立派な鳥居を寄進したのだそうです。

  この「涼天満宮」では、毎年、夏至の頃に地域の「祭り山笠」の奉納があります。
  小嶺村、上上津役村、下上津役村、市瀬(いちのせ)村、引野村の5村が、
  毎年順送りで、自分の村より祭り山笠を曳いて来て、奉納するのです。
  いつ頃から続いているのか、きちんと調べた事はありませんが、
  いつだったか、上の原の物知りじいちゃん(古老)に聞いた話では、
  「奉納の古い絵馬を見ると、壇ノ浦の源平の合戦よりも古いのは間違いない」との事。
  少なくとも800年以上昔から行われてきた五穀豊穣を願う地域行事と思われます。
  私も小、中学生の時に、腹にさらしを巻き、白足袋、白法被、ねじり手ぬぐいに身を包み、
  「やっせー!やっせー!」と声を枯らし、汗びっしょりで山笠を曳いた想い出があります。
  (子供だった私には、この後に貰えるアイスキャンディーが最大の楽しみでしたけど...)

  「やから様」
  こちらは、とても哀しい話で、筑前地方では有名な伝承民話になっています。
    涼天満宮から50mくらい坂を下った所、昼なお暗い鬱蒼と繁った竹やぶの中に
  「やから様」と地元の人達に呼ばれる大変に古い祠が奉ってあります。
  その由来は、次の通りです。
  「時は平安末期、関門海峡・壇ノ浦の合戦に破れ、バラバラとなり落ちて行く平家の一門。
   壇ノ浦からこの地まで、乳飲み子をかかえた高貴な女御と乳母の3人が、
   日もとっぷりと暮れ月明かりも無い新月の時合いに、ようよう逃げ落ちて来たそうです。
   当時、源氏の落ち武者狩りは、情け容赦無く苛烈を極めたと言われており、
   ここで遂に源氏の追っ手である武装侍の一隊が、すぐ近くまで迫ってきました。
   精も根も疲れ果てたか弱き婦女子3人は、竹やぶに息を殺し隠れていましたが、
   余りの恐ろしさに、遂に乳飲み子が泣き出してしまいます...「万事休す!」
   「誰ぞいるか!」とついに追っ手に見つかってしまいます。
   「もはやこれまで...」と追い詰められ観念した3人は自害して果てます。
   この事実を知った追っ手方の源氏の大将は、「何と哀れなことよ...」と天を仰ぎ、
   大層に嘆き悲しんだと言います。
   その後、源氏方では、この土地の人々に命じ、この地に祠を建てさせ、
   ねんごろに弔ったと伝えられています。」

   土地の言葉では、夜泣き・むずかりのことを「やんちゃ」と云う意味で
   「やから」と言います。
   以来、子供の夜泣きで困る親は、やから様に夜泣き封じのお参りをしたそうです。
   現在でも、「やから様」に参拝する親子の姿が、途絶える事がないそうです。

・さて、上の原からの長い坂を下りきった辺りが、
 上上津役村・小字「野中(のなか)」と呼ばれる所です。
 この野中より、右手に道を下り金山川を渡る辺りで、下上津役(しもこうじゃく)村、
 (現在の八幡西区沖田、三ヶ森、塔野)を通過し、中間市(蓮華寺)辺りへと至ります。
 この野中のゆるい坂を道なりに直進し、登りきった辺りが、
 上上津役村・小字「町上津役(まちこうじゃく)」で、
 左手に「町上津役墓地」と灌漑溜池の「大原(おおばる)大池」があります。
 長崎街道(旧道)は、ここから現在の国道200号より斜め方向へ右路に入って行きます。
 現在でも、道祖神、寺、神社、石碑、墓地、側溝、しもた屋風の家並み、旧商家など、
 往時の旧街道の面影と風情が残る懐かしい所です。
 (街の文化保存の観点で延べれば、どこぞの田舎町の「シャッター通り」とは雲泥の差です)

・右手に享保九(1724)年に建立の蛭子神社・幸神尊天石像があります。
 干ばつの年には、石像本尊を最寄の金山川まで運び、川に鎮め降雨を祈願したそうです。
 (この辺りの川では、子供時分に手長エビや沢ガニを採って遊びました)
 その先の十字路が、現在の県道:上津役〜香月・植木方面線の交差点となります。
 更に道なりに進むと右手に真宗「西法寺」(現住持は小、中学校時の同級生です)があり、
 その先の小嶺村との境付近に「地蔵橋」があり、金山川水系で最も古い橋です。
 文化元(1804)年に架橋され200年以上になります。
 その橋の袂の左側には「八児(やちご)地蔵堂」があります。
 街道の差し向かいに、私が通った八児小学校、中学校が並んでいます。
 「八児童地蔵堂」は、地元の信者の手ににより、いつも美しく手入れが行き届いており、
  大変立派な藤棚があります。
 藤の開花の頃(5月連休頃)は、辺り一面、素晴らしく甘い香りに包まれます。
 元々は、日本一の藤で有名な隣村の香月村・吉祥寺(きっしょうじ)の大藤より、
 根株分けされたものだと聞いています。

・昔は、このあたりの小字名を「地蔵川(じぞうがわ)」と呼んでいました。
 私が、幼少の頃、太平洋戦争前後の近代期に起きた文仏棄却運動の影響が残っており、
 手入れも滞り気味で、8体ある地蔵様の首がもげ落ちたままのものも放置されていました。
 それ故、ここで生まれ育った口の悪い小僧どもは、「八児の首無し地蔵」と呼んでいました。
 実は、この地蔵堂の成り立ちも、前記の「やから様」の様な古い恐い話が伝えられています。

  「八児地蔵」
  「時は平安末期、関門海峡・壇ノ浦の合戦に破れ、南へ南へと落ちて行く平家武者。
   壇ノ浦の合戦場で平家軍は壊滅、既に主君を失い各々傷を負い、命からがら
   九州各地へと落ち延びて行ったそうです。きっと相当数の落ち武者達が、
   この上上津役村「地蔵川」の地を通過し、安住隠遁の地へと向かった事でしょう。

   ある夜明けも遠し新月深夜の頃、合戦で汚れてはいるが平家の立派な鎧武者8人が、
   戦で負った傷と、源氏の厳しい追っ手からの逃避行で疲れた体を癒すために、
   この地、金山川のほとりで一息の休息をしました。
   落ち武者達は、お互いのあまりに悲惨な姿、状況に呆然としながらも、
   この後、筑後、肥前、肥後の国にまで逃れ、人里離れた深山に隠れ里を築き、
   再びの平家再興を狙う算段をひそひそと話し合っておりました。

   ふと気付くと、いつの間に近づいてきたのか、既に武装した集団が8人の武者に
   目をらんらんと光らせたもの凄い形相で、取り囲んでおりました。
   実は、この頃この辺りを荒らしまわり困らせられていた山賊夜盗どもがいるぞと思い、
   襲撃退治するつもりで集まった田舎郷士、地侍達だったのですが、
   普段、野良仕事しかやったことのない物知らぬ田舎侍の無知さ故か、
   夜眼の利かぬ新月深夜の暗さのためか、血みどろに汚れ、体裁乱れてはいるが、
   京の都で鍛え洗練された立派な平家侍と、山賊夜盗との見分けがつくはずもなく、
   日頃の山賊どもへの恨みも募り、名を問う間も無くあっと言う間に、
   無我夢中、問答無用で8人に襲い掛かり、8つの首をはね殺してしまいました。

   夜が明けて驚いたことに、山賊などではなく、哀れと思いこそすれ何の恨みもない
   平家方の立派な侍であった事に気が付きましたが、時既に遅し。
   田舎侍どもは、慌てて首の無い死骸を拾い集め、川のほとりに土饅頭を築き、
   武者達の不運と哀れな生涯を思い、弔いました。

   この事があって以降、この近郷の土地では、不吉なことばかり起きる様になったそうです。
   夜な夜な夢に恐ろしい形相の落ち武者が現れ、近郷の人々は悩まされました。
   きっとこれは、惨殺され成仏しきれない8人武者の祟りに違いないと恐れた村人達は、
   川辺の土塁に埋めただけであった死骸を掘り出し、盛大丁重なお弔いを挙げ、
   この地に八体の地蔵を奉る立派な地蔵堂を建立しました。
   元々信心深く、平家方にゆかりのある者の多いこの近郷の人々は、
   以後、頻繁に成仏成就のお参りをする様になったと伝えられています。

   この故事を知る土地の悪童達は、いつから誰からとも無く
   通称「八児の首なし地蔵」と呼ぶ様になったらしいです。
   悪童と言え、故事由来を知る私達は、地蔵堂の前では、神妙に手を合わせ祈ってから
   遊び始めるのが慣例でした。(子供時分の私も当然、その内の一人だった訳です)
   現在では、地蔵堂を信仰する人や有志保存会も運営される様になり、
   大変手入れの行き届いた、美しい地蔵堂が維持管理される様になりました。

   地蔵様に命を救われた私
   この話は、長い間、両親、近しい親戚以外の人には殆ど話したことがありません。
   実は、私自身がこの地蔵様に命を助けられたことがあるのです。
   あれは、昭和44(1969)年の小学1年の夏の終わり時節のことでした。
   猛烈な豪雨を伴った大型台風に北九州地方を直撃した日のことでした。
   何曜日だったか忘れましたが、台風直撃と言うことで、学校の授業も
   午前中の早々に切り上げられ、各自帰宅させられました。

   この時期に北九州地方を通過する台風は、降雨量が1時間に300mmを超える、
   猛烈な雨をもたらせることもしばしばあります。
   元々、親潮、黒潮の暖流に囲まれた暖かい南国地方の九州では、
   他の地方(例えば、現在住んでいる湘南に生まれ育った様な)人の感覚だと
   普通の強目の雨でも、大型台風かと思うほどの強い陽性の雨が降ります。

   その日は、風が殆どなく、とにかく大粒の雨が、それこそ滝の様に休む間も無く
   朝から降り続いていましたから、
   黄色いビニールカッパを着て、ゴム長を履く私の帰宅時には、
   既に川は氾濫し、街道もどこが側溝なのか、道路なのか、田んぼなのか、川なのか
   一面、濁った土色の水の濁流状態でした。
   道端に沿ってあった幅3尺ほどの、畦と言える様な側溝の水流も、
   普段ちょろちょろのせせらぎ流れからは想像もつかない状態で
   オーバーフローした水嵩で、猛烈な速さで下流へと流れていました。
   
   幼かった私は、ゴム長の上から水が入る様な時の一人歩きは初めての事で
   普段の街道と違う、異様な状態が面白くて、
   「雨雨降れ降れ、かあさんが〜♪」と歌いながら、一人ぷらぷら歩いていました。
   それは、瞬間のことで、何が起きたのか判りません。
   「あっ!」と左足が強烈な力で水流に足を取られたのです。
   体の小さかった私は、側溝の濁流に頭まで飲み込まれてしまいました。

   丁度、街道沿いの各商家では、玄関土間に土嚢、土塁を積み上げる作業をしており
   流される私に気がついた数名の大人が、「子供が流された!」と大声を挙げながら、
   大慌てで加勢人を集めながら下流へと、必死で私を追いかけ走ったらしいです。

   「この水量じゃ、先の大川(金山川のこと)の合流まであっとの間で流されるぞ。
    わしらが、救い上げるのは到底無理じゃろう...」と皆、内心思いながらも
   必死で走り、追いかけてくれたそうです。(後に聞かされた話です)
   かなり後れて、金山川との合流箇所である八児地蔵堂まで来た所、
   本流との合流すぐ手前の地蔵堂と道の間に掛けられた、
   小さいが頑丈な石橋に引っかかって、気を失っている私を見つけたそうです。
   すぐに引き上げられ、戸板に乗せられ、最寄の米屋の土間へ担ぎ困れました。
   (この米屋は、昨年亡くなったプロ野球チーム○リックスの名将監督の親戚筋です)

   幸いなことに、溺れるほど水を飲んでおらず、すぐに意識の戻った私は、
   何が起こったのかも判らないままきょろきょろしていましたが、
   時々、駄菓子を買いに来ていた「○木米屋」の店にいるとすぐに判りました。
   すぐに、母、祖母、近くに植木店を出していた親戚のおいちゃん、おばちゃんや
   診療所のお医者さんも駆けつけて来て、診察を受けましたが、
   擦り傷一つすらない元気な状態が確認されたそうです。
   「何と運の良い子供じゃ!きっとこれは、八児地蔵様のご利益に間違いない」と
   信心深かった、親戚の植木屋のおいちゃん達を中心に大騒ぎになりました。

・この地蔵川から左手に進み現国道200号を越えて行くと、小嶺村の中心集落へと辿ります。
 小嶺村を開墾した周防浪人の末裔、旧庄屋・能美(のうみ)家のある辺り新幹線高架の先に
 小嶺村の鎮守様・氏神「八千鉾神社」(やちほこじんじゃ)があります。
 この鎮守は大国主命を奉っており、応永2(1395)年に出雲より勧請したそうです。
 (ちなみに出雲大社には、今でも八千矛と記されたお神酒があるそうです)
 社殿には、絵馬や瓦製の狛犬が奉納されており、厳かな鎮守の森の雰囲気がただよいます。
 小学生時分には、この境内でセミやクワガタ、アリジゴクなどを採って遊んだものです。
 すぐそばに金山川へ注ぐ中島川があり、源流の湧水は「浦の谷(うらんたに)池」で
 今では、貴重な絶滅指定種のベッコウトンボの生息地でもあり、
 現在でも、全国的にも珍しいホタルの大群生(例年5月頃)が見られます。

・その先を更に進むと左手に八幡西区随一の「小嶺の棚田」があり、日本の源風景に癒されます。
 ここでも子供時分、梅雨時期になると、カエルの卵やおたまじゃくし、
 田エビ、カブトエビ、ザリガニ等を採って遊びました。

・更に山へ登って行くと、広大な竹林があります。
 小嶺村では、昔からタケノコは食材、竹細工等と上手に利用してきました。
 昔から雑木林が育ちにくい痩せた土壌であったため、
 潅木雑木の代わりに竹林を整備し、竹炭を焼いてきました。
 今も大昔からある炭釜の「とうしち釜」が残っています。
 幼少時、母の同級生だった「とうしちのおいちゃん」が炭焼きをしていて、
 母と散歩の途中で訪れたりすると、
 仕事の手を休め、周りで放し飼いにした地鶏と一緒に美味しく煮付けた筍や
 高菜の漬物などをお茶請けに頂きながら、しばらく談笑する間に、
 あっと言う間に何本もの新鮮な筍を掘り出して、おみやげに貰ったものです。
 私は、竹細工のうぐいす笛、竹とんぼなども作ってもらいました。

・また、とうしち釜より、南西へ峠をたどると「畑(はた)村」(現在の畑貯水池)です。
 その先を左に進むと、小字「奥畑」の小さな集落に行き着きます。
 この奥畑は、平家の落人集落だと言われています。
 右に辿ると「尺岳(しゃくだけ)神社」、畑観音を経由し、八丁登りの険しい峠を越え、
 河内村・田代集落に到達します。
 田代より右路の峠を越えて行くと、
 三岳梅林、小倉牛、合馬の竹の子で有名な企救郡(現、小倉南区)の
 「合馬(おうま)村」に行き着きます。
 田代より左路を下ると「河内(かわち)貯水池」、更に下ると八幡の大蔵市街へ出ます。

・さあ、小嶺村に戻りましょう。旧庄屋方より右路を進むと「小嶺観音堂」があります。
 ここは、後述の「小嶺一里塚」から左手の道に分かれ丘を登りきった所でもあります。
 文政2(1819)年当時の小嶺村の庄屋・能美儀平が勧請したものです。
 帆柱四国57,58番礼所であり、今も多くの参拝者が絶えません。

・更にその先に「小嶺大池」(地元っ子は、小嶺池と呼んでいました)があります。
 この経路は、小学校の指定通学路なんですが、池には大きな真鮒や鯰がいて、
 学校帰りに大池で、誰かが捨てたテグスや錆びた釣り針を拾って、石コロを重りに結び、
 脇の畑の藁溜めから掘り出した生きの良い「縞ミミズ」をエサに、
 釣り竿は使わない所謂「ぶっこみ釣り」で、40cmを越える巨鮒や鯰を釣ったものです。
 また、暑い夏には、すっぽんっぽんの格好で泳いで遊んだ楽しい記憶もあります。

・この小嶺池の向こう岸は、通称「まむし谷」と呼ばれる集落を抜ける小路がありました。
 私の家からだと「八千鉾神社」への近道でしたので、よく「まむし谷」を通りましたが、
 ぶどうや梨畑があるせいか、名前の通り、道端の藪にマムシの巣がたくさんあり、
 年に何件かはマムシ被害の騒ぎがありました。
 特に秋口頃は、マムシは卵を抱くため気がたって、非常に攻撃的になります。
 日暮れ時が最も危険で、道端でトグロを巻いていて、そばを通る人の様子を伺っています。

・私の朧な淡い記憶では、当時小嶺で生まれ育った子供は、
 マムシやヤマカガシなどの毒蛇の匂いを嗅ぎ分けることが出来た様に思います。
 従って、大抵マムシに噛まれる人は、他の街から来る人だった様に憶えています。
 また、スズメ蜂やカブト虫の匂いも嗅ぎ分けること、
 山いちごとヘビいちごの葉っぱの見分けや、未だ土表面に出ていない若竹の子の芽が探せたり、
 今年、掘っても良い山イモのツルの見分けなども出来た記憶もあります。
 それと、夜道を歩くのに懐中電灯などの灯りを持った記憶がありません。
 勿論、相当な山合いの村落ですから、街灯なんかも当然ありませんから真っ暗なはずです。
 人家の灯りなど殆ど無いので、月や星灯りだけしかないはず。
 もしかすると、かなりの暗さでも、夜眼が利いたのかもしれません。
 この様な自然同調的な能力は、勿論、今では、全くカケラも残っていませんが、
 田舎に生まれ、山合いに暮らす人間には、五感を越えた必要能力だったのかもしれません。

・さてさて、だいぶ寄り道をしたので、地蔵川にまで道を戻りましょう。
 地蔵川から、道なりに進むと、現在の都市高速高架をくぐったすぐの国道の側に、
 「小嶺一里塚」(現在の小嶺1丁目「小嶺」バス停付近)の石道標があります。
 これは、かの江戸期の有名な地理学者「伊能忠敬」の測量により、設置された道標です。

【伊能忠敬の測量日記抜粋】

 「正月29日、曇天.小雨朝六つ後、黒崎駅田町を出立す。
  同所より始め遠賀郡熊手村(字京良木家34軒なり)、右へ引野村・左へ市瀬村、
  上上津役村(左少引野村・下上津役村・上上津役村三か村入会いなり)。
  字上の原ここで小休止。その後、小嶺村境まで測る。
  "1里22丁18間05寸、黒崎よりほぼ2里"である。
  (※黒崎田町〜小嶺一里塚までの距離の測量結果と思われ約8km)
  上石坂、立場・銀杏屋定市方で中食す。」


伊能図・黒崎〜小嶺、石坂付近

・私が子供時分の昭和40年代頃までは、一里塚のそばに、
 高さ20mを越える様な大きな松の木が何本もあった記憶があります。
 江戸時代の街道には、旅人の休息のため良く松が植えられたと聞きます。
 東海道・品川宿にも松林があったことは、有名ですよね。
 小嶺から石坂の間は、戦後の昭和天皇・筑豊視察の折りに国道200号線の整備により、
 昔の街道風景とは、随分変わってしまいました。
 街道は、一里塚辺りから右手の小山への急坂を登り、
 その頂上付近より、アケ坂という急坂を下って
 中の谷(なかんたに)と言う集落のある谷地へ降りて行きます。
 (ちなみに私の生家は、中の谷から左へそれた小字「長初(ちょうはつ)」という所です)
 旅人は、更に上石坂(かみいしざか)へ至る急坂を上り、
 (現在、このルートの一部は、「香月市民の森公園」内に残されています)
 江戸時代、参勤交代の本陣でもあった、
 上石坂の立場(たちば)茶屋「銀杏屋(いちょうや)」を目指します。

・このルートは、人や荷馬車は何とか通れる程のでこぼこで狭い、狸か狐の出そうな山道でした。
 この辺りで、私が最後に狸を見たのは、小学5年の秋頃の夕方だった様に思います。
 この辺りの道では、時々、"塩鯖"や"塩鯨"、メザシなどの海産物を満載したトラックが、
 若松、黒崎などの港から、大炭鉱で栄えた更に南にある「香月村」へと通過して行きました。
 しかし、あまりの道の悪さに、時々、荷をトロ箱ごと何箱も落として行きました。
 それを早い者勝ちで見つけては即効、拾い上げて、家に持ち帰りました。
 海から離れた山合いの小さな村落では、こんな塩漬魚、干魚も棚ボタの大変なごちそうで
 貴重なタンパク源になりました。

・また、私の子供時分のアケ坂辺りは、新中鶴炭鉱(新三抗)の竪抗(通称:ゆうれいビル)と
 炭鉱事務所、診療所、共同浴場、炭住(炭鉱の社宅)、神社などがありました。
 もう既に薄っすらした記憶しかないのですが、アケ坂に沿って、確かに鉄道レールが敷かれ、
 小さな踏切さえあった様に思います。
 今思うに当時、最寄の集炭基地であった旧国鉄・香月線まで接続するための、
 炭鉱専用のトロッコ支線だったのではないかと思われます。

・また、当時の炊事、風呂炊きには、炭と薪を使用していましたが、
 竹炭などを買うとお金がかかるので、よくブリキのバケツを下げて、
 中の谷を通って、アケ坂の竪抗のくず炭捨て場に石炭を拾いに行かされました。
 何故か、野犬の群れが多く、子供心に何度も恐い思いをしました。

これらの場所へは、幼い頃に
地元・小嶺村で育った母に手をひかれ、よく散歩をした懐かしい想い出があります。


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