母乳育児

    母乳育児の暴力
    産院でのこと
    育児しながら
    復帰

母乳育児の暴力

「母乳で育てているの?」
出産を終えて久しぶりに人に会うと、必ずといってたずねられる言葉。
赤ちゃんの話やよもやま話や、なんやかや、話題はそれぞれ人によって違うけど、このことだけは、誰と話していても必ず共通してたずねられる。
通りすがりに赤ちゃんをあやしてくれたおばちゃんにまでほぼ100%の確率でこの話題が振られた。

正直いって「大きなお世話。」
今なら簡単にあしらえるけど。「いえ、ミルクです。」
と答えることはとてもつらいことだった。まるで「母親失格」と烙印がおされたように感じるからだ。

「人工栄養で育てている」と答えると、相手の人もばつが悪そうにもじもじして次の言葉を継げないでいる。ますますみじめな気分になった。

そのうち、面倒になって、たずねられると「混合です。」
と答えるようになった。実際、母乳はほとんど出ていなかったが、嫌がるごまちの頭をおさえつけて無理矢理くわえさせていたのは事実だ。ミルク99%、母乳1%でも混合には違いない。

そうすると相手の人は、ほっとしたように、「そうよ、母乳が一番よ。がんばってね。」と言われる。
そのたびに、「もうすでに十分がんばっています。これ以上がんばっても出ません。」とのど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。

出来ることは何でもやった。毎日暖めてマッサージした。母乳によいといわれるきなこや餅をたくさん食べた。赤ちゃんの吸てつ刺激で母乳が産生されるはずだと思い、ごまちを無理矢理おさえつけてくわえさせたりもした。ごまちはお腹をすかせて泣き叫んだが、「母乳さえ出れば。。。」と意にも介さなかった。今考えると精神的にかなりまいっていたようだ。

「このままではごまちのトラウマになってしまう。」母乳を嫌がり泣き叫ぶごまちの顔をみて思った。お乳をくわえさせても嫌がって何とかして逃げようとするのに、ほ乳瓶をくわえさせてもらったとたん、ぴたりと泣きやんだ。何度も何度もそんなことが続いて、私がブラウスのボタンに手をかけただけでおびえて泣くようになったのだ。

そもそもなぜ世の中は母乳至上主義になってしまったのか。

母乳が赤ちゃんによいことはよくわかっている。ミルクでは得られない、免疫をお母さんからもらうことや、何よりお母さんとのスキンシップが十分とれる大事な接触だからだ。

そんなことは100も承知している。しかし、出ないものは出ない。
30年前には、ミルク全盛時代があったはずだ。「ミルクの方が頭が良くなる」「母乳を吸わせているとお乳の形が悪くなる」「母乳育児では依存心の強い子になる」というミルク会社の宣伝をまともに信じていた時代もあったはずだ。

それなのに、いつから母乳が一番偉いことになってしまったのだろう。
母乳育児を推奨する人がいてもいい。母乳が十分でる人に育てられたら赤ちゃんも幸福だろう。
しかし、それ以外の考え方があってもいいのじゃないだろうか。
母乳で育てられなかったからごまちは不幸なのだろうか?
母乳育児にこだわるあまり十分向き合ってもらえない方がよっぽど不幸だろう。
メディアに扇動された世間の「母乳育児の強要」という暴力に泣いている母親は私だけではないはずだ。

ただでさえ精神的に不安定な産後に、母乳育児の暴力は私を徹底的にうちのめしてくれた。
これを読んで、「私も」と思っている人は、勇気をだしてください。
母乳で育てるかミルクで育てるかはそんなにたいした問題じゃないんです。後で冷静に考えると。
これを読んで、「こうすれば出るようになりますよ」と親切に教えてくれようとする人はもう読まなくても結構。
私の言いたいのは、「出るようになりたい(かった)」ということではなく、「画一化された育児方法を万人におしつけないでほしい」「母乳が絶対という価値観をおしつけないでほしい」ということだ。

うーん。過激。
だけど、ほんっとうにつらかったのだよ。
 


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産院でのこと

出産した病院は母乳育児を推奨するものの、特に押しつける風ではなかった。最初に希望調査があって、母乳を希望すれば、赤ちゃんにはミルクを与えないでいてくれた。母乳がでるようになるようマッサージや指導があって、その間赤ちゃんは砂糖水を飲んでいた。そのやり方で、産後2〜3日すると、たいていの母親はあふれるように母乳が出ていた。

ごまちのお母ちゃんは違っていた。
全くでるようにならなかった。張りもしなかった。それに反してごまちは最初からものすごく食欲旺盛な子だった。母乳のでないお母ちゃんのお乳にぎゅうぎゅう吸い付き、何もでてこないことがわかるとぎゃあぎゃあ泣いた。

あまりに泣き方がすごいので、産院の看護婦さんもかわいそうに思ったか、「ミルクつくりましょうか?」と言ってくださった。砂糖水だけだとすぐにお腹がすくのだそうだ。どうしても母乳で育てたかったお母ちゃんは、「もうすこしだけ吸わせてみます」とがんばった。

そしてとうとう3日目にねを上げた。あまりにごまちが泣くのでこれ以上意固地になってはごまちがかわいそうだった。
新生児にとっては普通の量、30mlを作ってもらって「あっ」という間に飲み干した。本当にあっという間だった。

以来授乳時間のたびに、たくさんいるお母さん達のなかで私だけがごまちにミルクを与えることになった。もちろん、まず、母乳を吸わせ、出来る限りしぼり、砂糖水を飲ませ、それでも足りない分はミルクを与えた。泣きそうだった。一人だけ授乳に異常に時間がかかった。いつも居残りだった。

他のお母さん達は、さっさと吸わせ、赤ちゃんも満足してげっぷをし、すやすや眠ったところで看護婦さんに渡されていた。ごまちはいつまでたっても泣いていた。母乳に吸い付いては「何もでてこない」と言って泣き、母乳をしぼっている間も泣き続け、やっと砂糖水を飲まされて「全然足りない!」と言って泣き、それからようやくミルクをもらって、ものすごい勢いで飲み干した。

お見舞いにきてくださった人と新生児室のガラス越しにごまちをみるたびに、ごまちは一人だけ泣いていた。常にお腹をすかせているのだ。
お姑さんが、「いつも泣いているのね。お腹がすいているのじゃないかしら」と言われた言葉にあいまいにうなずくことしかできなかった。更に、「私はあふれるほど出たのよ。あなたは出ているの?最初は出なくても必ず出るからね。がんばってね。」と言われ、またあいまいにうなずいた。励まされるとよけいにつらかった。

授乳に異常に時間がかかるものだから、お姑さんがせっかくお見舞いにきてくださってもお待たせすることが多くなった。やっと授乳を終えて出てきたとおもったら、新生児室の窓ごしにみる孫がまだお腹をすかせて泣いているのだから変に思われただろう。

何度かそういったやりとりの中で、「母乳が全然でない」と言い出せず、「もう授乳時間になりましたので」と言って授乳室に逃げるようにかけこんだこともある。その時たまたま看護婦さんにたっぷりミルクを飲ませてもらった直後だったごまちは、満足そうにすやすや眠っていた。私はごまちを抱っこしたまま人目もはばからず泣いてしまった。

その出来事があって以来、産院の要注意人物になってしまったようだ。しばらくして病室にカウンセラーと称する人がやってきて、「悩み事があったら何でも言ってくださいね」と名刺をおいて行かれた。

4日目に母児同室の部屋に移動した。産後母児同室がいいかどうかは意見の分かれるところだが、私は出産の出血が多かったことと、「産後ぐらいゆっくりしたら」との実母のすすめで別室で3日目まですごした。退院の前日に母児同室に移動したのは、丸一日を使って、退院後の夫と二人きりでごまちを育てる生活の練習をしようとしたのだ。

その部屋は4人部屋で、他の3人のお母さん達はすでに2日間ほど同室を経験してすっかりお母さんらしくなっていた。
その中で私だけは劣等生だった。ごまちは同室になってもずっと泣いていた。もう授乳室でのように授乳の手順をふんでいられなくなった。泣いていると同室の他の人に迷惑をかける。母乳を吸わせても泣きやまないから仕方なくミルクをどんどんあげることになった。
他の人達は母乳だけで十分赤ちゃんを満足させ、すやすや眠っている赤ちゃんを前に面会の人と楽しそうに会話していた。
私は少しでも母乳を出すようにしたかったから、ごまちがねむったらマッサージしたり絞ったり、ごまちにもちびちびとミルクを作ったりほとんど休む暇がなかった。

泣いているごまちを、面会にきてくださったお姑さんが抱っこしてくださり、「私が抱っこすると泣きやむのよ」とおっしゃった。母親の私が抱っこしても泣きやまなかったのに。新生児期の赤ちゃんは、別に母親を認識していないから、母親であることの特権は、母乳がでることだけだ。
その母乳が出ないのだから、ごまちにとっては私でなくとも誰でもいいのだ。
そう思ったらまた涙がでそうになった。

そういうわけで、退院するときにはほっとした。もう泣かせることをおそれずにできるだけ母乳でがんばれる。それに、他の人と比べて劣等感にさいなまれることもない。
 


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育児しながら

そして始まった、ごまちとお父ちゃんとお母ちゃんだけの生活。
産院では心身共に疲れ果てていたので、退院してアパートに帰ったらほっとして眠ってしまったようだ。お父ちゃんが当座必要なものを買いに出て帰ってきたらごまちとお母ちゃんが眠っていたらしい。お父ちゃんは「それを見て、しあわせだなあ、と思った。」と言ってくれたのでお母ちゃんもうれしくなった。

しかし、お母ちゃんは産後がこんなに体力的にも精神的にもしんどいものだとは知らなかった。
特に、お母ちゃんは貧血が続いていたから、よけいだった。すぐに疲れるし腰や傷の痛みがいつまでたってもとれなかった。ごまちの授乳ですら起きているのもつらい状態だった。
にもかかわらず、母乳を出すための努力はおしまなかった。
産院から帰宅したらとたんに母乳がでるようになったという人の話をきいたことがあるので、それに期待していたのだ。
しかし、全く変わらず、母乳は相変わらずほとんど出なかった。

少しでも休みたいその時期を私はマッサージやら絞り出すことやらで費やした。
でも何の効果もなかった。
結果的に、身体の回復を遅らせますます母乳の出を悪くする結果になってしまったのだろう。
 


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復帰


そしてあっという間に産休が終わり、復帰。

ごまちを保育園にあずけ、社会に復帰してみると、なんだか、それまで鬱々と悩んでいたことが嘘のようにくだらなく思えた。
社会には他に考えなければならないことや生きていく上で難しい問題がたくさんある。
母乳が出ようが出なかろうが、そんなことはたいした問題じゃあない。
十分愛情さえかけてあげれば、ごまちは元気に育つ。

そう思ったら、不思議と母乳の出がよくなった。
ごまちと正面から向き合う余裕ができた。
ごまちは2ヶ月にしてはよく笑う子だった。
初めて保育園に連れていったとき、保育園でもびっくりされたほど、表情の豊かな子だった。

こんなだめな母親なのにごまちは元気にすくすく育っている。ごまちのおかげでお母ちゃんはすこーしだけ自信がついた。

ごまち、ありがとう。

そして、復帰後約2ヶ月、お母ちゃんは母乳とミルクの混合栄養でがんばった。すこしでも出ている限りごまちには母乳を与えるつもりだった。昼間はしぼって、夜と朝は直接飲ませ、足りない分をミルクで補い、保育園にあずけて仕事した。
仕事があまりにも忙しい時には、遠い実家に4日間ほど連続してごまちをあずけたこともある。その時は毎日、昼間も夜も睡眠時間をけずって母乳をしぼり冷凍保存した。

しかし職場で、あるプレゼンテーションの機会がありその準備に追わるうちに、そのストレスからか、本当にまったく母乳は出なくなってしまった。

そこがお母ちゃんとごまちの間の母乳にさよならする自然な時だったのだろう。
一生懸命やったので、心残りもなく、母乳育児は終了した。
「よくがんばったね」とお母ちゃんとごまちの両方をほめてあげたい。
 



 

これがごまちのお母ちゃんの母乳育児物語です。
今考えるとやっぱりがんばってよかったけど、それ以上がんばらなくてよかったです。

母乳をあげている時の赤ちゃんの一生懸命な姿を上からみる特権はお母さんだけのものです。その時のしあわせな気分の記憶は、きっとこの先育児する上でどんな困難があっても私をささえてくれるでしょう。

ごまちはミルクが大好きで、たくさんミルクを飲み元気に育っています。
 
 

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