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最初聞いたときあまり興味がかき立てられなかったり、それほど好きになれなかったりした音楽を、何年もたってから聞きなおして、突然惚れてしまうようなことがある。恋も一目惚ればかりではないというのと一緒なんだろうか。 先日も、なにか聞きたいな、と思って、なんとなくレディオヘッドの「OKコンピュータ」をかけたら、それこそ乾いた地面に水でも撒いたみたいに、すごい勢いでぼくの中に吸い込まれてしまって、一発で中毒状態になってしまった。とんでもなく気持ちがよかった。 このアルバムは発売当初から評判だったし、ぼくも友人の家ですぐに聞かせてもらっていたのだけれど、そのときは、まあ普通に「なかなかカッコよくて、オリジナリティもあるね」と思っただけ、一応「好き」に分類しただけで、周りのひとたちの熱狂は完全に他人事だった。 その後もときどきは聞き流していたのだが、どうもしっくり来なくて、どちらかというとなんとなしに不快な気分になって、途中で止めてしまうことさえあった。それが突然、すんなり「わかって」しまうのだから不思議である。どうも無意識に抵抗していたような感じがする。その抵抗が終わったのである。降参して、身をゆだねてしまう快感・・・ しかし、なぜ抵抗するのか。 ひとつ思いつくのは、一種のへそ曲がり根性である。ぼくはミーハーなものは嫌いじゃないし、好みにさえ合えば、割合スグに受け入れる。そういう場面では、それほどへそ曲がりじゃない。ぼくが警戒するのは、カルトな人気を誇る個性派に対してだ。そういうモノに対しては、とりあえず、疑ってかかってしまう。そんな気がする。 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドがそうだったし、エリック・ドルフィーがそうだった。あとになってから結局は熱中してしまうのだけれど。 それにしても、それなりにカリスマ的だったスエードやマニック・ストリート・プリーチャーズの場合にはなんの抵抗もなく、出会うなりメロメロになってしまったことを思うと、好対照である。一体どこが違うのか。 思うに、ぼくにとってのスエードやマニックスは、ちょっとカルトなロックでありながら、本質的には、どっちかと言うとポップだったのだ。カッコのつけ方に、ほどよい安っぽさとサービス精神があって、それを隠してないし、恥じてもいない。意識的に人気者たらんとしている。サウンドの質の高さと、小難しいこと抜きでミーハーにキャーキャー言っちゃっていいムードとが当たり前のように同居している。 こういうのは即OKなのである。 いっぽう、ヴェルヴェットやドルフィーは、そしてレディオヘッドは、実体はともかくぼくにとっては、あまりにも「芸術」っぽかったのである。少なくとも、彼らの何がいいのかを説明しようとすると、たいてい前衛性とか実験性とかを評価することになってしまう。そういうこともあって、単なる大衆の娯楽ではないのよ、っていう、過度に通好み風の、玄人好み風のオーラがつきまとうことになる。 するとつい、だまされないぞ、という条件反射が起こってしまうのだ。ほっとくと自分はだまされやすい、という自覚があるのかもしれないが、そういう権威主義を抜きにして聴いてみて、楽しいか、カッコいいと思えるか、そこらへんを確認するまでは、つい緊張してしまう。どうもなにかありそうだ、見極めたい。おいしいものなら食わず嫌いは損だ。それで、特に気に入らなくても、ぼくはときおり聴きなおしたりする。ちょっぴり眉唾で。そのうち、構えずに聴けるようになる。これには、ときに長い時間がかかるが、運がいいと、出会い直せるのだ。 あらためて考えてみると、そうまでしなくてもいいじゃん、とわれながら思うのだが、やってるときはもちろんそういうことを意識してるわけじゃないんだよね。 話をレディオ・ヘッドに戻すと、ぼくの場合は、現在の最新作"Hail to the thief"のおかげて、それ以前の作品への道が開けたみたいだ。それまでは、ぼくに合う入り口がなかったんじゃないだろうか。で、さかのぼる仕方で、ようやく彼らの世界とのよい出会いが可能になったというわけ。 ふう・・・たかがポップス、されどポップスだなあ。 (3.April 2004) |