音楽的快楽の日々*21

空を飛ぶ



その昔、沢田研二が「TOKIOが空を飛ぶ」と歌っていた。テレビの歌番組を見ると、スーパーマンと東京タワーとパラシュートが合体してさらに派手になったような衣装をひるがえしていた。今思うと、意外とカッコいい。

あれは街ごと飛んでいるというあたりが、「未知との遭遇」や「インデペンデンス・デイ」の大型宇宙船みたいだ。ニュアンスはバブリーでロマンチック、軽薄で刹那的、夢のようにキラビヤカな幸福の予感。

飛ばないはずのものが飛ぶと言えば、ピンク・フロイドの歌にもそういうのがあって、レコードジャケットのイラストの空にもよく見ると小さな豚が飛んでいるのだが、ステージでもしばらくは豚がワイヤーに吊られてトコトコと宙を飛んでいたらしい。

受動的飛行なら「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。いい曲だなあ。月まで飛ばしてもらいたい夜が、自分にあったかどうかはともかく、あの一曲でお月様そのものの存在感が違ってくる。静かな夜、ひとりベランダで風に吹かれ、きれいだなあ、という単純な憧れだけで、あそこまで飛んでいきたいね、などと無責任に呟いてしまう。

自分が自分で飛び立つ場合は、もっと単純で素朴な、自由への憧れが歌われている。フー・ファイターズは"Learn to fly"(in "There is nothing left to lose")、タクシー・ライドは"Afraid to fly"(in "Garage Mahal")、ウォーターボーイズは"Preparing to fly"(in "Dream Harder")、・・・飛びたがっている魂をしっかり感じ取れるっていうのはいいことだ。

こういう曲にくすぐられて、聞いてるほうも飛びたくなってくる。恋とも冒険ともつかないなにかに反応している、胸のなかのジワリと熱い感触は、やっぱり「飛びたい気持ち」と呼ぶのがふさわしいのかもしれない。

怖がったり、学んだり、準備したりするわりには、結局飛ぶ場面までこぎつけないあたりが、成長を拒まなかった者たちの健全さ、繊細な若者たちの品の良さなのかもしれない。ピーター・パンのように大人になることを拒否するか、役行者(エンノギョウジャ)のように道を窮めるかしない限り、なかなか飛べるもんじゃない。

いや待てよ、でも飛ぶって言ってもそういうことじゃなかったのかな。

スピッツの「空も飛べるはず」。気に入って散々聴いて、未だに飽きないんだけれど、「飛べない」わけでもなく「飛んでる」わけでもなく、その「飛べるはず」っていう状態がそそるんだよね。本当に飛んじゃったら、なんとなく不安だし、不吉な感じがする。あとは死ぬっきゃないのか? それとも実はもう死んでるのか? みたいな戸惑い抜きってわけにはいかなそうだ。

一番広くて自由で幸福なのは「飛べるはず」の世界だ。それをリアルに感じられるひとが増えたら、この世はもっと美しくなるだろうにね。(24.Juni.03)




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