音楽的快楽の日々*10

なげやりな気持


ときどきなげやりな気持になる。最近はあまりならないが、かつてはよくそうなった。なげやりな気分のときなげやりな曲を聴くとかえって落ち着く。どのくらい自分がなげやりなのか、どのくらい事態が絶望的なのか、測るようにして聴いて、あきらめがつくと気が楽になる。わきで見ていたら、悲しい情景かもしれないが、本人としては多少はましな気分になる。

人生最悪の事態というのが、ぼくにはたくさんあったのだが、そのうちのひとつの真っ最中、よくユニコーンというバンドの「すばらしい日々」というのを聴いていた。救いのない、ココロすり減らすような日々のあとの、むちゃくちゃさみしい感覚が、なんだかひどくキレイなメロディに乗って、淡々と、「なげやりに」、あきらめの境地で歌われる。

ビートルズの"Let It Be"とか、"Abbey Road"なんかもアルバムまるごと、どっか「なげやり」だよね。ああ、どうしようもないんだな、こんなもんなんだな、ま、仕方ないか、ってな感じ。

過ぎてしまえば、それほどうんざりしなくてもよかったかな、って気もしてくるんだけれども。ぼくの場合には。で、「すばらしい日々」という、あのどうしようもなく暗い曲を歌っていた同じ奥田民生さんが「愛のために」なんか出してくれたとき、こっちの構えもたまたま前向きになってたりすると、また繰り返し聴いて、そうだよなあ、共感できるなあ、おれもちっとは大人になったか? などということになる。

人間、こうやって年を取るんだろうか。

それでもときどき、よくわからないきっかけで爆発しそうになると、暴れたり叫んだりするかわりに、ぼくなどは、自分にとってのその手の音楽を処方する。毒を持って毒を制するというか、たとえば The Kinks の"State of Confusion"だの、The Beatles の "I Me Mine"だの、Morrissey の"You're gonna need someone on your side" (in : Your Arsenal)だの、Suede の"Starcrazy"だの聞くわけだ。そのうちグッタリして、なにもかもどうでもよくなる。そうしたら眠ればいい。その前に穏やかな気分になったなら、よりよい眠りのために、優しい曲も聞いたらいい。

わけあって今カミュの「シーシュポスの神話」を読み返している。

明日も不条理な人生は続く。でも、不条理との戦いは必ずしも不幸ではないし、退屈でもないし、悲劇でもない。それを終わらせるオプションがあるなんて思ったら、ぼくならやってられない。そういうことは、宗教に走るヒトに任せよう。権威主義的妄想に走る「アタマのいいヒト」、知的野心に囚われたヒトにまかせよう。

迷走を続けるココロのために、音楽は記憶媒体となり、舞台装置となり、解毒剤となり、麻薬となる。

ほんとうに言いたいことは、ほんとうに伝えたいことはいつも別にあるのだが、その周りを巡りながら、それでもときどき思い出す。

そうだ、ぼくはなにかを伝えたかったんだった。

でも、なんだったんだろうね。そいつは。(2.Juni.02)


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