音楽的快楽の日々*7

希望の音楽


東京学芸大学のオーケストラを聴きにいった。メンバーの学生さんに招待されたのだ。ナマ音を聴くのは久しぶりだったので嬉しかった。

プログラムはシベリウスの「フィンランディア」とスメタナの「モルダウ」、ドボルジャークの交響曲第八番、という具合に、すべて元気が出る系の曲。アンコールにも「スラヴ舞曲」と徹底していた。

時代背景を考えてあえて微妙なレッテルを貼れば、どれも民族主義的ロマンチシズムの音楽ということになる。「民族主義」というとヤバイ響きがあり、ぼくなどはとりあえず警戒してしまうのだが、こういう音楽を聴くときの自分の快感を正当化する動機から理屈をこねると、ここでは「民族主義」、即「抑圧からの解放」であり、そういう意味での「自由」を指向しているところが重要なのだと思う。

他民族からの支配という状況を脱け出したい、という願いは、さらに一般的に言えば、人間の人間による抑圧をなくそう、というもっと広く深く遠い希望に通じているはずだ。

敵に対する恨みや、復讐の念は、こういった希望の曲からは聞こえてこない。あくまでも前向きなのである。悲しみや哀悼の響きはあるかもしれない。民族的アイデンティティを求める余り、やや過剰なナルシズムはあるかもしれない。だが、苛立ちや怒りはない。喪失を乗り越えて、自分たちの心や身体や日常生活、身近な風景のなかに残されたわずかな遺産や記憶を出発点に、未だどこにも実現していない理想を創り出していこうとする勢いこそが、こういった表現の中心にあるように思える。つまり、保守的になろうにもモデルがないし、神話にばかりすがるようなアナクロニズムでは先へ進めない、そういう未来指向なのだ。

そのような表現には、怒りを掻き立て、苛立ちのはけ口を安易に探そうとするような、攻撃的な扇動は含まれていない。これから克服せねばならない戦いですら、あたかも過去のできごとのように悲しみをもってふりかえりながら、その先を見据えているのだ。

そういう展望のもとで歌われる「勝利」には、暴力そのものを嘆き、打ち破ろうとする、実に前向きな「夢」の響きがある。

よりよい絵空事を信じ、その実現を夢見ること、それを日常に反映させること、そうした意識によって、変えられないことはなにもない。

「自分とは異質な他者の差別や排除、弱肉強食の競争、搾取や戦争こそが、人間の進化の、文明の発展の原動力だったのであって、これからだってきっとそうなんだ。だから、そうした悲惨な出来事の連鎖をなくすことなんてできるわけがない」、そう信じずにはいられないほどに絶望している若者たちを、ぼくは個人的にも知っている。彼らは子どもの頃から、そういう大人たちを見上げながら、そういうリアリティを生きてきたのだ。ほんとうに切ない。

破壊の規模が果てしなく大きくなることが「進化」なのだとしたら、そこから逸脱できないのだとしたら、ぼくらの生きる世界はどうしようもない悪夢だ。ぼくはそれでいいとは思いたくない。

というわけで、そんな絶望をふり払うような、抑圧と強制を憎み、より本質的な自由の実現に道を開くための希望の音楽・・・。などと、勝手にこじつけた妄想にふけりながら、ぼくは学生さんたちの熱演を味わってきた。こういう曲を、若いひとたちが弾いてるっていうのがまたいい。

それにしても、交響曲第八番の第三楽章の最初のモチーフを聞くと、ぼくはあの呪われた曲として有名な"Gloomy Sunday"を思い出してしまう。なんか似てるよねえ。両方とも大好きな旋律なのだけれど。(Mai 02)


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