映画の森で道に迷う*14


『 ES (エス)』 


2000年のドイツ映画である。
ここ10年、ドイツ映画が日本で公開される機会も多くなってきた。英米産やフランス産に比べるとまだまだマイナーだが、映画そのものの出来はともかく、基本的に役者の演技の水準は高い。
公募した被験者に、囚人と看守の役割を与え、二週間観察する。このいかにもヤバそうな心理学実験の顛末はいかに・・・
アメリカでの実話に基づくというのだが、この映画はほんとに怖かった。
だいたい展開は読めるので、心の準備はできる。出だしは普通。主人公を巡る、実験の外の日常の伏線はやや浅く安易。しかし、いざ実験が始まり、主な舞台が大学の研究所地下に設置された模擬監獄に移るころから、だんだん不安になってくる。
ホラーやサスペンスの基本だが、次の瞬間に思いも寄らない怖いことが起こってしまうんじゃないか、という緊張感。だんだん見続けるのがつらくなってくる。どうせなにが起こるかわかってるんだから、さっさと先へ行ってくれ、というジリジリするような退屈さを感じているような気もするが、いっぽうでは、こっちまで被験者同様の閉塞状態に引きずり込まれ、耐え難い不安が生じてきているような気もする。
そして、ことが起こり始める。
ぼくの場合、予想が甘かったらしい。実話だというので、それほどスゴイことにはならないんだろう、とタカをくくっていた。そうしたら、覚悟していたよりも、ずっと怖いことになってしまうのである。そして、その暴走が、なんともリアル。ハリウッド製アクション映画のクライマックスのスリルに、やりきれないほど生生しい感覚が加わった感じだ。
例の甘い予想とは矛盾するのだが、「多分、予定調和では終わらないだろう」、といういやな予感がぼくのなかで優勢になってゆく。こうなると、実話であるという予備知識はかえってその予感を増幅し、今やぼくの神経をことさらに張り詰めさせてゆく。
こうして、映画の後半はもう、前半で味わった退屈や不安とは完全に異質な恐怖に塗りつぶされる。目をそらすこともできないし、気を散らすこともできないから、終わるとグッタリしている。
この映画でも、ドイツの俳優たちの演技は確かだ。設定や脚本以上に、演技が際立つ。それがここに出現する恐怖のリアリティを支えている。
ぼくにとって一番印象的だったことは、見ている自分が、最初は実験しようとする学者に近い視点に立っていた、つまり「人間とはなにか」云々について知ってやろうとする姿勢だったのに、やがてそれどころではなくなって、実験台になった参加者たちに近い位置から事件を感じるようになっていたことだ。この変化はあとからふりかえると実に劇的なものだった。
主人公男性が実験の直前に女性と知り合って親しくなるエピソードは、なんだか浮いていて、本筋の実験のリアルさと比べるといかにもファンタジーなのだが、これは、実験の内側の現実味と、外側の世界の、まるで夢のような奇妙な不確かさの、逆説的コントラストを意図したものなのだろう。
ちなみに、この、主人公に出会う女性役の女優さんには、ヨーロッパ映画ならではのカッコよさがある。上述のコントラストの美学をどう評価するかは別として、なにやら意味ありげで、謎めいた雰囲気をふりまく彼女は、エレガントで素敵だった。彼女の独特の存在感のせいで、ラスト前のクライマックスは、この世的要素(実験関係者たち)とあの世的要素(彼女)とが場を共有してしまう不条理によって、様式的な美しさのある、(映画的ならぬ)演劇的なカタルシスを生じさせている。
ラスト・シーンも、とってつけたような唐突さがあるのだけれど、映像自体がきれいなので、それでいいような気がしてくる。
完成度が高いのか低いのかはよくわからないが、迫力のある、丁寧な映画だ。見た後のズッシリ来る疲労感は、ちょっと忘れられそうにない。

でも、見終わってから落ち着いてみると、自分の通った小学校や中学校のことを思い出した。
驚くべきことに、日本の学校のスタンダードは、映画で描かれた、狂気をもたらす看守と囚人のロールプレイングと大差がないのだ。
ほかのみんなが給食を食べ終わったあとも、泣きながら、無理やり全部食べ終えることを強要される子どもたち、「気をつけ!前へならえ!休め!」を繰り返しながら整列にこだわって長引く朝礼、「気をつけで膝がきちんとつかないようなやつは肩輪だ!」と壇上で叫ぶ海軍出身の校長、炎天下、延々と続けられる、運動会のための行進練習、来賓席の前で片手を挙げるナチ式そっくりの敬礼、「駆け足で集合!」に従わず歩いているやつを小突き、怒鳴りつける教師たち、校則違反の見せしめに懲罰専用の小部屋に引きずり込まれてバリカンでアタマを丸刈りにされる「不良」(青々とした坊主頭に血がにじんでいた)、その格好でクラス全体やときにはわざわざ集められた学年全体の前で屈辱的な謝罪や反省を述べさせられる連中・・・
囚人服まがいの制服の強制を、生徒たちはもはや強制だとも思わない。そもそも不条理なのは規則のほうなのに、生徒たちは、秩序を守らないという理由で繰り返し処罰され、態度が悪いと言っては殴られ、誠意が感じられないと言っては反省文を何度も書き直させられた。これからは従順になるということを宣言させられ、見せしめにされる異端者を見ても、ほかの生徒たちは、「看守」たちの思惑通り、掟に従わないと損をすることを学び、巻き添えを食わないように気を使うばかりだった。
派手な校内暴力、陰湿ないじめ、見てみぬふり、密告、体罰、萎縮、過度の緊張、卑屈な態度、無気力、おためごかし、わざとらしい、押し付けられた連帯意識、なんのためでもない、それ自体が目的の集団行動、管理のための管理、規則のための規則、秩序のための秩序・・・ぼく自身、中学時代には、そんな悪夢のような環境が当たり前だと思っていた。適応できないやつは、バカだと思っていた。

余談だが、ぼくは、日本の刑務所の管理の異様さの理由もここにあると考えている。
禁固刑、というのは基本的にはいわゆる自由刑、つまり、移動と行動の自由を奪う刑のはずで、とにかく閉じ込める、という刑のはずなのだが、日本の刑務所は、ただ閉じ込めておく、というよりも、なぜか、刑務所内での規則が非常に細かくて、それに従わせる、ということに重点が置かれているようだ。移動は足並みを揃えろだの、走れと言われたら走れだの、刑務官にはきちんと挨拶し、口を聞くときは直立不動、みたいな、受刑者に余計な苦痛を与える工夫に満ちている。それが犯罪者の矯正に役立つだなんて、ぼくには信じられない。それはただただみじめな隷従を体験させ、屈辱を与えるものでしかない。子ども時代から踏みにじられて犯罪に走った人間を、さらに踏みにじって一体どうするというのだろうか? プライドを持てない人間は攻撃的になる。
アメリカ人やドイツ人なら、「自由」を奪われることは、それだけでもう耐え難い苦痛だろう。でも、日本で初等・中等教育を終えている人間のほとんどは、「自由」を奪われるだけなら、もう学校で体験済みだから、麻痺してしまっていて、苦痛に感じないのだ。髪形や服装の規制だってどうってことない。しかも、働きもしないで食べていけるなら、そんなラクな場所はない。羨ましいくらいだ。だから「自由」を取り上げて閉じ込めるだけじゃ足りない、犯罪者にはちゃんとそれなりの苦痛を与えてやってくれ、という発想なのだ。
牢屋の外だろうと中だろうと、多くの人々は自分も自由が実感できていないし、十分に人権を尊重された経験もない。下手をしたら職場や会社も、学校と同様に、いやそれ以上に窮屈な場所だ。だから、せっかくの牢獄なんだから、せめて学校や職場よりも、明らかに窮屈な場所にしてくれ、ということになる。
「窮屈さ」とはなにか。
それは、服従するものに屈辱感を与える、理不尽な規則の存在だ。その規則を強要する暴力の存在だ。

学校が、そんな牢獄にも似た場所だとしたら、ひとりひとりの気持ち、心、プライド、人権よりも、ただ秩序のほうがたいせつにされるような、暴力的管理の場だとしたら、そのこと自体が狂気だ。この狂気に気づかないひとは正気ではない。
学校が、全体の秩序のために、個を抑圧し、犠牲にする訓練のために機能しているのだとしたら、それは全体主義国家の学校だ。民主主義国家の学校は、本質的に自由な個としての子どもたちに、愛され、尊重される体験を与え、その安心感と個人として培われたプライドとを前提として、その個としての子どもたち同士が、互いに共感し合い、妥協し合い、愛し合い、尊重し合う訓練をする場所のはずだ。

(21.maerz 2004)


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