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    日本語と日本人の起源を調べて見よう

    日本語の起源

    もくじ

    1. 万葉集の恋の歌
    2. タミル語の恋の歌
    3. 南インドから来た日本人
    4. 那智神社のこと

    恋を大事にする日本語

    大野晋氏の「日本語の源流を求めて」(岩波新書)を読むと、 日本語は恋を大事にする言語であったことが分かる。

    万葉集の大半が恋の歌で占められるのも、 日本語のルーツ(大野晋氏は南インドのタミールと言う)が、 もともと、そのような文化を持っていたかららしい。

    今までは、日本人は西域あたりから中国・朝鮮を経て、 日本に来た説が多かったので、大野説は新鮮でロマンティックである。

    大野説に基づいて、日本語の起源を探って見よう。

    万葉集の恋の歌

    雄略天皇の歌

    泊瀬の朝倉の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇のよみませる御製歌

    籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち

    この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね

    そらみつ 大和の国は 

    おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 

    吾にこそは告らめ 家をも名をも

    大意

    カッコいい籠とカッコいいシャベルを持って、丘で菜を摘むお嬢さま、 君のお家はどこなのか言ってくれないかな。

    僕は大和の国を治めているんだぜ。

    僕にだけは、そっと君の家と名前を教えてくれるよね。

    妻問い婚

    万葉集一の最初に出てくる上記の歌は「妻問い婚」の歌である。

    当時は、ラブホテルはなかったろうから、女の名前と家の名前を聞くことは、 女の家をラブホテルとして使うことが目的であった。

    夜になったら女の家を訪ねてたら、小声で「○○ちゃーん」と呼ぶ必要があるので、 女の家の場所と女の名前を聞いておく必要があるのだ。

    かくて、男は女の家から朝帰りとなる訳だが、お互いに気に入れば結婚と言うことになり、 男は三日続けて女の家に泊まり、三日目の晩に女の家の家人から「三日の餅」と言う餅を 貰うことで結婚が公認されたらしい。

    そして、女の家側に妻(端)屋という小屋を立てて、一緒に住むことになるので、 お互いに相手のことを妻と呼んでいたらしい。

    日本語は恋の描写が重要

    上記の例のように、日本語は恋の描写が重要だったらしい。

    この辺は、色恋を避けたがる中国の文化(書物)と全く異なる日本の文化(書物)や日本語の特徴であった。 色恋よりも宦官となって地位を求めるのが中国流なのかも。

    万葉集は、相聞の歌(恋の歌)とそれ以外(雑歌、挽歌)に大別できると言うから、 日本語は恋の描写を重要視する点が特徴であった。

    この辺は、儒教系の中国や朝鮮とは全く違う感覚であり、 日本語(人)のルーツが大陸系ではなく、開放的な海洋系であったことを伺わせる。

    タミル語の恋の歌

    タミル語の古典「サンガム」の恋の歌

    2000年前に作られたタミル語の古典に「サンガム」と言う歌集があり、その中に日本の長歌・短歌と韻律と 形式が同じの歌が数百もあると言う。

    その中で「港にいるアンドリル(鳥の名前)は夜は鳴かない」と言う歌の例を見よう。

    港にいるアンドリルは夜は鳴かない

    愛し合うアンドリルは、夜に鳴くことはない。

    あの人が描いてくれた胸の花の絵が薄れる私の

    柔らかい肩を痩せさせた人のいる港の(アンドリル)。

    日本の演歌のような歌ですなあ

    タミルでは妻問いの男は、女の胸に花の絵を白檀で描いた。

    しかし、男の来訪が疎遠になると、女の胸に花の絵は薄れてしまい、 肩が痩せてしまうという。

    「憎い貴方・・」と港の女が歌ってるのだろう。日本の演歌の世界と同じ情緒である。

    万葉集も現在の演歌と同じような役目だったのだろうなあ。

    それはともかく、上記の歌の母音だけ数えると五七五七七になるそうである。

    タミルから日本へは船で来た

    ところで、どのようにしてタミルから日本へ来たのかだが、大野氏は「船で来た」と言う。 ますます、演歌の世界だが、タミルから日本へは陸路は厳しいから、船で来たに相違ない。

    なんたるロマン!、海洋国家・日本にふさわしい歴史である。

    大昔の神奈川県の先住民は、船で大磯に上陸してから、秦野に定住したから、 これは、ひょっとしてタミル人だったかも知れない。

    タミル経由で日本へ船で来たのは、メソポタミアのシュメール人だと言う説があり、 天山山脈経由で日本に来た秦氏と同じ祖先なのだそうだ。

    シュメール人来日説の岩田明氏は、メソポタミアのシュメールの粘土板の船の設計図から、 古代シュメールの葦の舟の復元をおこない、日本への旅を試みた(下図)。

    南インドから来た日本人

    中国や朝鮮半島とは全く異なる日本の文化

    大野晋博士の学説では、「弥生時代の日本人は南インドのタミルから来た」と言う。

    大野晋博士の学説が正しいとすれば、日本の文化は中国や朝鮮半島とは全く異なる訳である。

    もちろん、最近の日本の文化が欧米の影響を受けてるように、 ある時期には中国や朝鮮半島の影響を受けているが、 それは根本的なものではなく部分的な影響でしかない。

    弥生時代の日本の文化の特徴

    弥生時代の日本の文化の特徴と言えば、「水田稲作」「鉄」「機織」であろう。

    大野晋博士の学説では、これらの「水田稲作」「鉄」「機織」の技術は、 南インドのタミルから伝来したと言う訳である。

    しかも、これらの技術の伝来は、中国や朝鮮半島より早かった可能性が高い。 当時も東アジアで日本は、技術的な先進国であった訳である。

    海から来た弥生時代の文化


    円形切子ガラス碗、イラン、A.D. 6世紀
    岡山市立オリエント美術館所蔵

    弥生時代の文化が、南インドのタミルから伝来したと言うことは、 陸路ではなく海路が使われたと言うことである。

    岡山市立オリエント美術館や正倉院御物にあるペルシャ製のガラス製品も 大陸経由の陸路ではなく、台湾あたりを経由した海路で日本に運ばれた可能性が高い。

    当時は、陸路より海路の方が安全であり、かつ短時間に長距離を移動できた筈だ。

    現在でもある程度の大きさの船と操船技術さえあれば、 日本を旅するのに船の方が遥かに楽だと実感できる人は多い筈だ。

    鉛が多く含まれていた中国製のガラス製品

    現在の中国製のギョーザには農薬が多く含まれているが、 当時の中国製のガラス製品には鉛が多く含まれており割れ易く脆かった。

    鉛が多く含まれるガラス製品の製造は、クリスタルガラスの例でも分かるように難しく、 溶解・成形・徐冷(なまし)・加工などの高度な製造技術や、 鉄分など不純物の除去や他の混合物の配合など全体的な化学組成の調整が重要であった。

    当時の中国製のガラス製品には、特に徐冷(なまし)という技術が不足していた。

    しかし、西アジア製のガラス製品は、中国にはなかった徐冷(なまし)技術が使われており、 中国製より遥かに丈夫で長持ちしたので珍重されたのである。

    つまり、現在のギョーザの例で分かるように当時の中国の製造技術レベルも高くなかった。 それは、中国には相対的に海岸線が少ないという地理的条件だからでもある。

    海岸線から見て山奥にあたる大陸の奥地には、 文化が伝わるのは極めて難しかった。 それを自己流でやるとギョ−ザの例のようになってします。

    シルクロードは幻想だった

    このように、シルクロードと言う文化を運ぶハイウェイみたいな言葉があったが、 実体は我々の想像より遥かに貧弱だったと思われる。

    ただ、当時の船は木造であったろうから、歴史に残らなかったのに対して、 シルクロードの街々は遺跡として歴史に残ったから、 当時の実体以上に陸路が評価されていたのだろう。

    今だって、シルクロード経由で文化が伝わるなんて話は聞いたことがない。

    我々のロマンを掻き立てたシルクロードは幻想だったのかも知れない。 どうも中国政府が過剰にシルクロードを宣伝しすぎて、NHKの取材班がその尻馬に乗った可能性が高い。

    この「シルクロード」概念の批判学者によれば、シルクロードの現地の人々が残した記録には、 中国や東西交易についての話題はほとんど触れられていないと言う。

    従って、中央アジアの内側からの世界観では「シルクロード」に類する概念は存在せず、 現地人には中央アジアを貫く東西交通路の存在はほとんど意識されていなかったらしい。

    むしろ彼らの社会生活の中で重視されていたのは、南のオアシス都市の定住民と北の草原の遊牧民の間で 繰り広げられる南北の関係であった。

    正しい中央アジアの歴史理解のためには、中国+NHK共同作成の従来のシルクロード史観を脱して 現地住民による記録を中心に据えた研究を行うべきだと批判学者たちは訴えている。

    日本人の祖先が中国や朝鮮系ではなくてよかった

    まあ、いずれにしても我々の祖先が、中国や朝鮮系ではなくて、 インド系であると言うことは、非常な安らぎと懐かしさを覚える。

    中国や朝鮮系のあの日本敵視政策には、どう考えても親近感を覚えないからね。

    中国や朝鮮系のあの日本敵視政策に親近感を覚えるのは、政治家や商社などの いわゆる彼らから「酒池肉林」の歓待を受けた人たちだけだろう。

    大野晋博士、万歳。南インド、万歳だ。早く、インド製のギョーザを食いたい。

    那智神社のこと

    「ナーガ」と「ナーギィ」のカップルが神様

    世界遺産に指定された熊野の那智大社には、裸のインド人によって開かれたという伝説を持っているそうだ。

    その昔、西方からやってきた船が難破して、紀伊半島にたどりついたことがあった。 中から出てきたのは裸のインド人、彼はそこから熊野山中に分け入りついに那智の滝を発見したが、 その神秘的な姿に感動し、思わず「ナーディー、ナーディー」と叫んだのが那智の語源となったという。

    「ナーディー」はナーギィ、つまり川のことだが、裸のインド人の目には、 それが急流を流れいく神秘的な蛇神に見えたのだろう。

    そもそも「ナーギィ」とは、「長い」と言う意味であり、 「ナーガ」とは、「川を流れる蛇神(男)」を表し、 「ナーギィ」とは、「川を流れる蛇神(女)」を表す。

    「ナーギィ」と「ナーガ」のカップルの交合は、生きるエネルギーを発生させ、 生命を作り出す神秘的な動物、さらに不老不死の象徴として、 古代から今に至るまで、ヒンドゥー教の世界における重要な役割を果たしてきたらしい。

    万葉集の相聞歌も神功皇后と武内宿禰との関係も「ナーガ」と「ナーギィ」

    このインドに始まる「ナーギィ」と「ナーガ」と言うカップルのエネルギーが、 万葉集の「相聞歌」に繋がるのではないか。

    神功皇后と武内宿禰との関係も「ナーギィ」と「ナーガ」の関係であり、 日本を生み出したエネルギーを示している。

    このような発想は、中国や朝鮮系にはないのだ。

    熊野の那智大社には、裸のインド人によって開かれたという伝説があるが、 神奈川の大山神社は、大磯経由で海から上陸した秦氏によって開かれたのだろう。

    大磯に海から来た秦氏は、イスラエルから中国・朝鮮を経て、日本に来たと考えられていたが、 もしかしたらこの秦氏もインド人だったのかも知れない。

    以上


    シュメール民族の謎」から