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    稲妻の歴史は、

    稲妻の歴史

    もくじ

    1. 稲妻の意味
    2. 光源氏の妻問婚
    3. 藤原氏にはなかった妻問婚

    稲妻の意味

    妻とは

    古代社会では、結婚する場合は、女性側の実家が母屋の傍らに二人のために小屋を建てた。

    それを母屋の端にあることから端屋(つまや)と呼んだ。

    そして、端屋に生活する人間(新婚さん)のことを「つま」と呼んだ。

    つまり、女も男もお互いに相手のことを「つま」と呼んだ訳である。

    ただし、最初のうちは、男は端屋には、たまに訪問するだけであったが、 女に子供が生まれると端屋に住むようになったようだ。

    従って、「つま」と言うのは、どちらと言うと女から男の方を指すことが多かった。

    だから、妻問婚とは、男が女の家に通う結婚形態を指すが、 女の実家の方が男を気に入れば、男を三回(三夜?)続けて通わせた後に、 餅を出し「三日(夜)の餅」という儀式で結婚を公認した。

    そして、四日目には村人が集まって祝宴を開き「四日(夜)の祝」と称した。


    三日夜の餅(大正婚儀記念)

    稲妻とは稲の夫である

    そうすると、稲妻とは稲の夫であると言うことになる。

    特に梅雨時に、雷が来て稲妻が田んぼに降りかかる様を見て、 稲妻が田んぼに降りかかる精子のように見えたのだろう。

    精子のように稲妻が田んぼに降りかかった結果、稲穂が生まれると感じたのだ。

    農業(水耕)における原始的な男根崇拝の名残りが稲妻と言う言葉に残っているのだ。

    広い田んぼに精子を振りかけて稲穂を作るには、かなりの量の精子が必要だから、 「雷さまのパワーは凄い!」と古代の人は思ったに違いない。

    かくして、雷さまは恐ろしいが恵み(豊穣)の神様(雷神)になった訳である。 八方美人の神様など毒にも薬にもならず、役に立たないと思ったのである。


    雷神図(俵屋宗達)

    光源氏の妻問婚

    源氏物語 宇治の十帖 総角(あげまき)の巻

    源氏物語 宇治の十帖 総角(あげまき)の巻に、来訪する筈の「勾宮」のために大君の側で 「三日に当る夜、餅なむ参る」と、「三日(夜)の餅」を用意する場面があるらしい。

    藤原氏にはなかった妻問婚

    天皇に恋愛をできなくした藤原氏

    藤原氏の手口は、天皇に自分の子女を妃として送り込むことだった。 つまり、天皇は藤原氏以外の女には恋愛ができないようにしたのである。

    この意味は重要であり、藤原氏には日本の伝統である妻問婚はなかったことになる。 従って、妻問婚を称える話は、藤原氏の批判になるのである。

    昭和天皇まで、天皇の妃は藤原氏から送りこまれていた。 天皇が藤原氏以外の女性を妃にしようと言うことは不可能だったである。

    天皇は妃が欲しいと思えば、自動的に藤原氏から妃が送られて来るのだから、 恋愛とか家族愛のようなものは起き難かったに違いない。 だから、天皇の妃が体制に反発することもあり得なかった。

    平成天皇から藤原氏以外の妃になった

    しかし、現在の天皇陛下(平成天皇)から藤原氏以外の妃になった。 つまり、一般の国民と同じように恋愛とか家族愛のようなものが大事になって来たのである。

    困ったのが、藤原氏系の宮内庁であろう。 藤原氏と宮内庁は、天皇の人間としては当然のこのような行動を阻止しようとしている訳である。

    昨今の宮内庁の雅子様いじめも、このような背景で理解されなかればならない。 藤原氏と宮内庁は、浩宮様が雅子様への恋愛感情とか家族愛を貫かれては、 平安時代以来の藤原氏の天皇家操縦の伝統が崩れてしまうからである。

    かつて、天皇が藤原氏に対抗するには、東国の勢力(秦氏など)と結びつくしかなかった。 しかし、秦氏も現在はそのような天皇を助ける勢力にはなり得ない。

    ここは、東国の勢力(秦氏など)に代わって、我々、日本国民が天皇をお守りし、 藤原氏と藤原氏系の宮内庁からの妨害・誹謗・イジメなどを防ぐ必要がある。

    以上