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    薬師寺の歴史は、

    薬師寺の歴史

    もくじ

    1. 八幡神と薬師寺
    2. 日光・月光菩薩立像
    3. ホツマ文字はインドから来た
    4. 薬師経はインドから来た

    八幡神と薬師寺

    八幡神と仏教

    今日、悪名高い明治政府の廃仏毀釈令により神と仏の関係は希薄になったが、 江戸時代までは神社と寺院が隣接する、あるいは神社の中に寺院があるという状況が当たり前だった。

    両者が関係をもつのは8世紀のことで、特に九州の宇佐の神(応神天皇)である八幡神側は、 仏教との接近に積極的でった。

    八幡神が史料に現れるのは天平9年(737)のことであったが、 その直後、九州で藤原広嗣の反乱が起き、聖武天皇が鎮圧を八幡神に祈ると、 乱はまもなく治まった。

    八幡神は、聖武天皇が発願した東大寺の大仏の造像にも協力の意思を表わし、 奈良に赴き大仏を礼拝したと言う。

    八幡神は、蘇我氏の祖先である武内宿禰と関係が深いので、 その後、蘇我氏の政敵である藤原仲麻呂の時代になると八幡神は退けられた。

    薬師寺僧の行信が宇佐八幡の神職ととも厭魅(おんみ)した罪で 下野八幡に配流されると言う事件があり、八幡神と薬師寺との深い関係が伺える。

    以後も八幡神は国や仏教と深い関係をもち、平安京の守護や寺院の鎮守として勧請された。

    薬師寺に休ケ岡八幡宮が勧請されたのは9世紀末の寛平年間(889〜898)のことであった。

    神像彫刻の代表的作品の一つである八幡三紳座像

    この三像は、その休ケ岡八幡宮の祭神として祀られたもので、主神の僧形八幡神像は応神天皇に、 二体の女神像は、母である神功皇后と、天皇の妃の仲津姫命にあてられている。

    多くの八幡神像が僧形で表わされているが、それも仏教との関わりの深さゆえと考えられている。


    仲津姫命


    僧形八幡神


    神功皇后

    板絵神像

    板絵神像は、鎌倉時代の永仁三年(1295年)に絵師堯儼が描いた。

    裏面は黒漆で塗られ、寛治年間(1087〜1094)に元の絵が虫害で破損したので、 絵師堯儼により描き改めたとある。

    南殿の第一間の図は、「武内大臣(宿禰)」であり、右斜めを向いて 中央に安置される僧形八幡神を向いている。

    日光・月光菩薩立像

    中国にはないインドのグプタ朝の三曲法様式

    日光・月光菩薩立像は、腰をクイと捻ったインドのグプタ朝の三曲法様式であるが、 同じ様式は中国には殆どないと言う。

    この様式は、中国の玄奘三蔵(599〜664)が中国に持ち帰ったと言うが、 玄奘三蔵の興味の対象は経典の方であり、彫刻などは興味がなかった筈だ。

    とすれば、この様式はインドから直接、日本に伝わった可能性が強い。

    そもそも日光・月光菩薩立像は、7世紀か8世紀に作られた訳なので、 あまりにも中国の玄奘三蔵の時期(599〜664)と近すぎる感しがする。

    つまり、日光・月光菩薩立像の製作は、時期的に玄奘三蔵とは無関係なのだ。

    月光菩薩立像 日光菩薩立像


    吉祥天像

    ホツマ文字はインドから来た

    秀真伝(ホツマツタエ)とは

    古史古伝の内「秀真伝(ホツマツタエ)」は、 57調の連歌で綴った日本の古代史(AD6世紀頃の作)である。

    ホツマ文字の五十音は、以下のような感じらしい。 日本のかな文字の前身と思われる。


    ホツマ文字の五十音

    インドの洞窟の文字が読めた

    ホツマ文字は、神代文字とも呼ばれる。

    ボンベイ南東120qにあるバージャ石窟の第12窟(BC2〜1世紀)の壁や ストゥーパに書かれた文字、又近くにあるカールラ祠堂窟(AD2世紀)の柱頭部分に刻まれているという。

    今まで意味不明の記号と考えられていたこれらの文字が、以下のように日本の神代文字で解読出来るという。


    バージャ石窟の文字

    インドの57調の連歌

    故大野普博士の「日本語の源流を求めて」(岩波書店,2007)によると、 インドのタミル地方の言葉(タミル語)は、日本語によく似ており、 57調の連歌で綴った演歌のような歌があると言う。

    愛し合うアンドリルは夜に鳴くことはない。
    あの人が描いてくれた胸の花の絵が薄れる私の
    柔らかい肩を痩せさせた人のいる港の(アンドリル鳥は)。
    

    薬師経はインドから来た

    玄奘訳の薬師経と薬師如来

    薬師如来が説かれている代表的な経典は、永徽元年(650年)の玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経(薬師経)」と、 景竜元年(707年)の義浄訳の「薬師瑠璃光七佛本願功徳経(七仏薬師経)」であるが、 後者はインドには経典がないことから、前者を中国で改版したものと考えられている。

    薬の神様でもある薬師如来さまは、病を治す功徳の力が一番とされており、 事故などで死亡することを防ぐ功徳もあることで有名であるが、 インドのバラモン教のヴァルナ神(水の神)が本地(仏の本来の姿)と言われている。

    ヴァルナ神が、水の神すなわち海上(航海)の神であることが重要である。 薬師経はインドから中国を経て日本に来たと言われるが、 インドから中国を経ず海上経由(船)で日本に来たのではなかろうか。

    インドから海上経由(船)で日本に来た人々は、航海の安全を願ってヴァルナ神を信じた筈だ。 だから、彼らが日本の各地に上陸してヴァルナ神(薬師如来)を祭ったことは、想像に難くない。

    毘沙門天を従える薬師如来

    毘沙門天は、インド神話の財宝神クベーラを前身とするが、薬師如来の眷属である薬師12神将の一人である。 クベーラは多聞天とも呼ばれるが、三本の足と八個の歯を持つ醜い小人とされる。 クベーラはインドのガンジス川の鰐の神格化であり、 貴金属や宝石を地上世界にもたらすお宝を生む金属神である。

    毘沙門天は、クベーラを漢訳して金比羅とも呼ばれ、薬師12神将が司る干支のうち、 子の方角(北)を司り、色の中では黄色を表す。

    金比羅さんは、昔から航海の神、船の神として漁業関係者や航海に関わる人々に厚く信仰されてきた。 金比羅さんを祀る神社に行くと立派な船の絵馬が数多く奉納されている。 新しい船が建造されると、船主は船頭や船員をともなって必ず金比羅さんに参詣したと言う。

    鰐は船を表す

    ここで注意すべきは、クベーラが鰐の神格化であると共に、鰐が船そのものをも表すことだ。 古事記や日本書紀には鰐が出てくる場面があり、古事記や日本書紀の作者は動物の鰐と誤解しているようだが、 下記の例は「ワニフネ」と言う船の種類(帆を持つ船)を示している。

    【日本書紀 第10段 第三の一書】
    已にして鰐魚(わに)を召し集(つど)えて問いて曰く、
    「天~(あまつかみ)の孫(みま)、
    今當(まさ)に還り去らんとす。
    等(いましたち)幾日(いくひ)の内に、以ちて致(いた)し奉(たてまつ)らん」。
    時に諸(もろもろ)の鰐魚(わに)、各(おのおの)其の長さ短かさの隨(まにま)に、
    其の日數(ひかず)を定む。 中に一尋鰐(ひとひろわに)有りて、自ら言いしく、
    「一日(ひとひ)の内に、則ち當(まさ)に致すべし」。
    故、即ち一尋鰐魚(ひとひろわに)を遣し、以ちて送り奉(たてまつ)る。
    

    して見ると、因幡の白兎の話で、白兎が海に並んだ鰐の背中をピョンピョンと逃げる場面は、 間違いで、白兎が「ワニフネ」と言う高速船で逃げると言う意味なのだ。

    以上