• トップページ
  • 歴史のお勉強
  • 日本の歴史
  • 秦氏と藤原氏
  • 秦氏と藤原氏

    秦氏と藤原氏の関係を調べて見よう

    秦氏と藤原氏

    もくじ

    1. 猟奇的な犯罪者だった藤原鎌足と中大兄皇子
    2. テロリスト集団だった藤原氏
    3. 秦氏と藤原氏の戦い
    4. 秦氏と聖徳太子

    猟奇的な犯罪者だった藤原鎌足と中大兄皇子

    残虐非道な藤原氏の政治手法

    藤原氏のルーツは、あの大化の改新で登場した藤原鎌足である。

    藤原鎌足は百済出身で豊璋(百済王子)だが、百済から豊璋を呼び寄せた家臣の鬼室福信を 勝手に謀反の疑いをかけて、その掌を穿って革紐で縛った上で殺しその首を塩漬け(酸し)にした超極悪人である。

    この豊璋(藤原鎌足)の残虐な性格が、そのまま藤原氏の伝統的な政治手法となった。 まあ、日本人は残虐な百済人(藤原氏)にテロ手法で乗っ取られた訳である。

    蘇我倉山田石川麻呂と遠智姫の悲劇

    さらに豊璋(藤原鎌足)は、蘇我倉山田石川麻呂を無実の讒言で自殺させた上で、 その首を塩漬け(酸し)にして石川麻呂の娘の遠智姫に見せたらしい。 父の首の塩漬けを見た遠智姫は発狂して死んだ。

    遠智姫は中大兄皇子の妻であったが、どうも中大兄皇子は妻の発狂を楽しんでいたらしい。 豊璋(藤原鎌足)と中大兄皇子の実像は、このような猟奇的な犯罪者だった。

    日本書記が隠蔽する豊璋(藤原鎌足)と中大兄皇子の猟奇的な犯罪

    日本書記は、豊璋(藤原鎌足)の末裔である藤原不比等が編集したので、 このような自分達の犯罪を隠蔽し、正当な豪族であった蘇我氏の功績を隠すために書かれた。

    古事記では、蘇我氏の祖先は「武内宿禰」としているが、日本書記は、これを徹底的に無視している。

    「武内宿禰」は、「神功皇后」の三韓征伐を助けた人物として昔は有名人であり、 お札の肖像にもなった。 「武内宿禰」の息子の蘇我石川宿禰が蘇我氏の系統になった。

    「武内宿禰」は地方を転々としたので、地方の風土記への記述や神社の祭神としても有名だが、 「事代主神(ことしろぬしのかみ)」とか「えびすさん」と言う名前が一般的である。

    日本書記は豊璋(藤原鎌足)と中大兄皇子の猟奇的な犯罪を隠蔽した上で、 蘇我氏を悪人扱いをして蘇我氏の先祖の武内宿禰と神功皇后を隠蔽しようとした。


    武内宿禰

    日本書記が隠し切れなかった神功皇后の功績

    しかし、日本書記は武内宿禰と蘇我氏のことは隠蔽できたが、 神功皇后の三韓征伐と言う功績は隠し切れなかった。

    神功皇后の三韓征伐の時期は、391年と推定されるが、 この事実は有名な中国の吉林省通化地級市集安市で発見された好太王の碑に記録されている。

    好太王の碑は、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)の業績を称えるために、 息子の長寿王によって414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日)に建てられた石碑であり、 以下のような文言である。

    百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民。

    そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。 しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説もある) ・新羅を破り、臣民となしてしまった。

    なお、「■を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされていたが異論もある。

    武内宿禰と神功皇后の三韓征伐は、このようにレッキとした史実であるにも拘らず、 日本書記の記述から、いまだに神話や作り話と看做す歴史家が多いらしい。

    日本書記の記述は嘘であることが、史実からバレバレであるにも拘らずである。

    神功皇后の三韓征伐の目的は新羅との連携

    ただし、神功皇后の三韓征伐の目的は、新羅との連携にあったと思われる。

    出雲と新羅は、北九州と百済とのルートとは異なるルートであり、 出雲出身の神功皇后は、新羅との連携を深めた上で、 百済や高句麗を制圧したかったに違いない。

    こうすることで、北九州の勢力(卑弥呼系や熊襲)を削ぐことができる。

    つまり、百済系(藤原氏、天智天皇系)と新羅系(蘇我氏、天武天皇系)との対立の芽は、 神功皇后(出雲系)の三韓征伐の時の仲哀天皇(北九州系)との対立(仲哀天皇の暗殺)から始まるのである。

    テロリスト集団だった藤原氏

    テロ手法で日本の権力を握っていた藤原氏

    つい最近まで日本の権力を握っていたのは、藤原氏であった。

    それに引き換え、秦氏は歴史の教科書からは、なぜか影が薄い。 藤原氏も秦氏も、そのルーツは同じ「韓人」とされているにも拘らずである。

    その源流は、 645年6月12日の乙巳の変(蘇我入鹿を中大兄皇子や中臣鎌足らが暗殺)にあるのではなかろうか。

    乙巳の変は、秦氏(蘇我入鹿)と藤原氏(中臣鎌足)との最初の大きな戦いだったと言える。 蘇我入鹿は、彼らのテロに倒れたのだ。

    それまで、名門だった秦氏(蘇我入鹿)は、暴力団の殺し屋専門家のような中大兄皇子と、 どこの馬の骨か分からなかった中臣鎌足に卑怯な騙し討ちで殺されたのだ。

    平和主義者だった秦氏(蘇我入鹿)は、テロリスト集団に簡単にやられた

    秦氏(蘇我入鹿)があまりにも平和主義者であったが故に、中大兄皇子と中臣鎌足という 今で言えばテロリスト集団に簡単にやられてしまったのだ。

    天武天皇の時代になって秦氏(蘇我氏)は、勢力を取り戻したが、 持統天皇の時に中臣鎌足の子供の藤原不比等に、秦氏(蘇我氏)は徹底的にやられた。

    それ以来、藤原氏は人の業績(蘇我入鹿や菅原道真など)を横取りして、 自分のせいにする手法を繰り返して、改革を妨害しては日本の権力を握ったのだ。

    日本の教科書のベースになっている日本書紀は、藤原氏が作った。 だから、日本の教科書では秦氏の影が薄く、蘇我氏はボロクソに書かれるのだ。

    しかし、秦氏(蘇我入鹿)の平和主義者的文化は、 脈々と現在の日本に受け継がれているのではなかろうか。

    中大兄皇子や中臣鎌足のようなテロリスト集団は、まだ国外にウジャウジャと存在するが・・・

    秦氏と藤原氏の戦い

    蘇我氏(秦氏:新羅系)と藤原氏(百済系)の戦い

    最近まで日本の権力を握っていたのは、藤原氏であった。

    藤原氏のルーツは、百済王子・豊璋(中臣鎌足)とされている。

    660年に唐・新羅の連合軍が急に百済を滅ぼしたので、豊璋は帰国できなくなったという。

    668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされて、帰国できなくなった高麗 若光の境遇とよく似ている。

    一方、蘇我氏ルーツは、神功皇后の愛人とされる超人・武内宿禰(住吉大神)である。 武内宿禰は、360歳まで生きたとされている。

    渡来人の持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられているので、 蘇我氏が、秦氏の系統であることは間違いないと思われる。

    神功皇后は、新羅が好きでたまらなかったから、秦氏は新羅経由でアッシリアからはるばる日本に来たのだろう。

    必死で蘇我氏(秦氏系)を歴史から抹消する藤原氏(百済系)

    とすると、日本の古代史とは、藤原氏(百済系)が蘇我氏(秦氏系)を制覇(歴史から抹消)した歴史と言うことになる。

    藤原氏(百済系)の天下は、つい最近まで続いたから、秦氏は目立たないように暮らす必要があった訳だ。

    藤原氏(百済系)が編集した日本書記には秦氏の記述が少なく、蘇我氏のことはボロクソに書いているのも頷けるのだ。

    日本の教科書は、藤原氏(百済系)が編集した日本書記を100%信じているから、 藤原氏(百済系)の目論見は成功したことになる。

    秦氏と聖徳太子

    聖徳太子は蘇我氏(秦氏:新羅系)だった

    関祐二氏の研究によれば、聖徳太子は蘇我氏(蘇我入鹿)と同一人物だったらしい。

    百済人:藤原鎌足を始祖とする藤原不比等が編集した日本書紀では、これを隠すために、 同一人物を善人(聖徳太子)と悪人(蘇我入鹿)と言う二つに分けて、 蘇我氏(聖徳太子)の業績(行政改革)を隠蔽し、業績は自分が横取りしたらしい。

    蘇我氏は、出雲王朝系なので、地理的に新羅に近かったのではないだろうか。

    朝鮮でも百済と新羅は仲が悪かった(現在も続いている)が、 日本でも九州王朝(百済系)と出雲王朝(新羅系)の対立があり、 朝鮮における対立に呼応している。。

    蘇我氏は新羅系か

    百済と高句麗を滅ぼして統一新羅の基礎を築いた新羅の王族である金春秋と金信と言う二人の将軍がいるが、 金春秋の妻は金信将軍の妹であるが、それは蹴鞠での出来事がきっかけだったと言う。

    日本においても中大兄皇子と中臣鎌足の仲は、蹴鞠の会での出会いであったと言うから、 あたかも新羅での蹴鞠での出来事をヒントとしていると言う説がある。

    朝鮮には歴史上3人の女王がおり、全て新羅の女王であった。 最初の女王は善徳女王という名前であり、632年に即位したと言う。

    日本の蘇我善徳という人物は、蘇我入鹿であり、聖徳太子でもあるから、 善徳という名前も新羅っぽい名前なのかも知れない。

    神功皇后(トヨ)は、出雲王朝(新羅系)だったが、なぜか九州の熊襲にこだわる 仲哀天皇を武内宿禰と結託して暗殺してまでも、「新羅に行きたい、新羅に行きたい」と 言っていたかが分かってくる。

    いずれにしても、出雲王朝(新羅系)にとって新羅はルーツであり、 九州王朝(百済系)にとっては新羅は敵であった。

    秦氏は出雲王朝(新羅系)の技術ブレーンだった

    秦氏は、新羅経由で来日したかも知れないが、秦氏自身は新羅人ではなく、 西域(弓月国)から来た帰化人(渡来人)である。

    そして、秦氏は西域(弓月国)に伝わる養蚕などの技術に明るかったので、 出雲王朝(新羅系)の技術ブレーンだったと言える。

    出雲王朝(新羅系)は、住吉神社や新潟県弥彦神社のような海を航海する技術に長けていた。 これは、通商という面と開拓と言う面があり、単に物流(当時は少なかった)をしてたと言うより、 船で海岸に上陸しては、その土地を開拓して行ったのである。

    商売上手だった秦氏の神社ビジネス

    秦氏の特性として、船で海岸に上陸した後は、必ず付近の高い山に登り、 そこに神社を作るとともに、地上を見渡して、次に行うべき内陸部の開拓地域を調べるのである。

    新潟県弥彦神社における弥彦山も神奈川県高麗神社における高麗山および 大山神社における大山などはその例である。

    神社を置く山は、観光地になるような山が望ましく、 秦氏はそこで薬などの観光地土産となる名産を用意して儲けた。

    商売下手な役人・藤原氏系ビジネス

    昔の道路公団(インチキが得意な役人・藤原氏系)のサービスエリアのように曽我産と偽って運送用に塩をタップリ入れられ、 日本で塩抜きする超マズイ中国製梅干を売るようなインチキはせず、 リピータ効果を狙ったビジネスだったから、秦氏の神社ビジネスは庶民が毎年行きたい観光地として人気が高かった。

    古来、日本の長く続いたビジネスは、風光明媚な場所に人を集めて、そこにゆっくり逗留させるのが基本だから、 その資産となる景色を破壊する高速道路を作るのは、インチキ役人・藤原氏系ビジネスと言える。

    例えば、御殿場付近や富士市付近の第二東名は富士山の景色を徹底的に破壊している。 これじゃ、海外からも誰も観光客は来ないし、ガラガラの高速道路は 中国製毒入りギョーザを運ぶトラックだけが走るだけで、 自民党の基盤になるドカチン屋は儲かるけど他の人にはビジネスになりませんぜ。

    以上