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    猿田彦は、新羅から渡来したインド人だ

    猿田彦

    もくじ

    1. 秦氏とサルタヒコ
    2. イスラエルの失われた10支族
    3. 神話での記述
    4. 猿田彦と天宇受売神

    猿田彦とは

    猿田彦(サルタヒコ)は、日本神話に登場する神 導きの神様の代表格。鼻が異様に長く、サルのような面持ちであった。

    古事記および日本書紀の天孫降臨の段に登場し(日本書紀は第一の一書)、 古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と表記する。

    ギリシア神話の「ヘルメス」がモデルだとよく指摘される。

    天孫族(=天津神=大陸からの渡来民族≒弥生人)と、国津神(=天孫族渡来前の原住民=縄文人)との 仲を取り持った、有力豪族の長、と考えられている。

    猿田彦は、天狗のような顔をしており、新羅から渡来したインド人ではないかと思う。 インドの神様は「〜天」と呼ばれるが、猿田彦は恵比寿天であったと思われる。

    恵比寿さんは、釣りが好きだった。釣りが好きと言えば、浦島太郎であり、 出雲の国譲りに出て来る事代主神(ことしろぬしかみ)だ。 従って猿田彦は、大国主命(大黒さん)の子である事代主神(恵比寿さん)なのだ。

    事代主神は、各地の神社に祭られているが、道祖神としても有名だ。 道祖神は、夫婦姿であるが、連れ合いはもちろん、神功皇后だ。 神功皇后の愛人と言えば、住吉神社の祖である武内宿爾(蘇我氏の祖でもある)であるから、 事代主神は、武内宿爾でもある。

    猿田彦に色々な名前を付けて、実在の人物ではないように見せたのが、 大化の改新で蘇我入鹿をテロ手口で暗殺した藤原不比等が作った日本書記だ。 日本書記は、正統な蘇我氏の祖である武内宿爾が実在の人物だと、 藤原氏のテロ手口によるインチキ手法がバレてしまうので武内宿爾を神話化したのだ。 そして蘇我入鹿を極悪人のように見せた。

    しかし、歴代の天皇家は、有事の時など出雲系の神社にお参りすることが多いそうだから、 天皇家は、出雲が拠点であった猿田彦(=武内宿爾)の流れである蘇我氏の系統だった可能性が強い。 聖徳太子が蘇我氏の系統だったことは有名だが、それを藤原不比等がテロ手口で滅ぼした訳だ。 だから、藤原不比等は蘇我氏の祖先である猿田彦(=武内宿爾)の祟りを恐れて巨大な出雲大社を改築したのだ。

    蘇我(入鹿)氏は、藤原氏の穢い手口で暗殺されたが、猿田彦(=武内宿爾)を祭る神社は、 全国に普及し日本文化の土台になった。藤原氏が伝える文化はテロだけである。


    猿田彦

    本ページは、「Wikipedia Wikipedia 「猿田彦」」を引用。

    秦氏とサルタヒコ

    応神天皇の283年に弓月国の「ヤマトゥ」から来た秦氏

    秦氏の来日は、公式記録(日本書紀)によれば、応神天皇の283年に弓月君が百済から127県の1万8670人を連れて、 日本に来たという。

    弓月君の名前は、新撰姓氏録では融通王と呼んでいるそうで、 天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。

    この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山があって、 この山が「天狗」のルーツではないかと言われている。

    ハン(Khan)は、族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、天神を示すと言う。


    山伏

    仲哀天皇の199年にも来日した弓月国王の功満王

    応神天皇の283年の弓月君(融通王)の来日の前に応神天皇の父とされる仲哀天皇の199年に、 融通王の父である功満王(弓月の王)が日本を公式訪問したという(新撰姓氏録)。

    佐伯好郎博士の研究によれば、弓月国(Kung-Yueh)は小国であるが、 キリスト教王国であったと言う。


    2世紀の後漢(Wikipediaから)

    当時の中国は、後漢(25〜220年)の時代だったと思われるが、 上図でもわかるように弓月国あたりまで勢力を伸ばしており、 後漢の弓月国への圧迫や万里の長城の苦役の強制があったと思われる。

    そこで、弓月国の人々(秦氏)は、満州を経て朝鮮に逃げたらしいが、 朝鮮でも迫害を受けて、日本に来てやっと、日本の天皇に助けられたのだ。

    秦氏が政治的地位を望まなかった理由

    秦氏が日本の天皇のために献身的に尽くした割には、それに対する政治的地位などの 報酬はなかったようだが、その理由は上記のせいかも知れない。

    秦氏は、短期のメリットしかない政治的地位よりも、長期的な価値のある ビジネス的な特権(養蚕業やその流通の独占など)を望んだのではないか。

    これは、弓月国の人々(秦氏)が信ずるキリスト教は、景教(ネストリウス派)であったろうから、 彼らは迫害を受け続ける歴史だった生活の知恵なのかも知れない。

    そして、日本の天皇家だけには迫害を受けなかったことが、 彼らの意識を貫いていただろうし、もしかしたら天皇家のルーツかも知れないし、 いずれにしても日本人の文化や考え方のルーツであることは確かだ。

    日本人のDNAは、イラクあたり(アッシリア)に近い

    ユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)であるサミュエル・グリンバーグは、早くから古代イスラエルの失われた10支族の一つ、 ガド族がシルクロードを経てアジアに向かい、天皇家の祖先として日本に渡来したと唱えている。

    天皇のことをミカド(帝)と呼ぶが、これは「ミー・ガド(ガド族から出た者)」のことだと言う。 そして、ガド族の始祖ガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという俗説まである。

    秦氏が作ったと言う神社(特に八幡神社と稲荷神社)や雅楽(東儀氏の元祖は秦河勝であり、秦東儀氏と呼ばれていた)は、 日本人が日本古来の文化と信じられているが、実は中東(アッシリア)から来たものであると言う。

    日本人のDNA鑑定結果もイラクあたりに近いと言う。


    2世紀の後漢(Wikipediaから)

    イスラエルの失われた10支族

    イスラエルの失われた10支族とは

    ダビデ王(紀元前1004年‐紀元前965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされる。 しかし、ソロモン王(紀元前965年‐紀元前930年)の死後、南北に分裂し、 サマリヤを首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれた。

    北王国のイスラエルは、現在のユダヤ人のような一神教的宗教を奉じていなかった可能性が高い。 エルサレムのヤハウェ信仰にも一定の尊重を払っていたが、 首都サマリアに金の子牛の像をおいて祭祀の中心としていた。

    北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされて、10部族は地方を追放される。 この10部族の行方が文書に残されていないため、2部族によって失われた10部族と呼ばれた。

    この10部族の一部が日本に来たとするのが、「日ユ同祖論」である。

    「皇紀」とイスラエルの失われた10支族

    天皇制には昭和とか平成とかいった「元号」があることは誰でも知っているが、 「皇紀」が存在していることを知る人は多くない。

    今年(2008年)は皇紀2668年である。皇紀は紀元前660年から始まっているのであるが、 これはちょうど北イスラエル王国が滅ぼされた直後の時期に当たっており、 まだアッシリア帝国の治世下でイスラエル10支族が捕囚されている時期に相当している。

    よってこの時期、アッシリアに捕囚されていた北朝の残党たちが、新しい王朝を再結成したのではないかと推測する者もいる。 この時に皇紀がスタートしたというわけだ。

    神話での記述

    天狗のイメージ

    邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。

    その神の鼻長は八咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。

    そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。 その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸命らの先導をしようと迎えに来たのであった。

    天宇受売神との出会い

    邇邇芸命らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸命は天宇受売神に、 その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、 その名前をつけて仕えるようにと言った(日本書紀では、 猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている)。

    そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。 猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。

    猿田彦の死

    猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村(現松阪市))の海で漁をしていた時、 比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。

    この際、海に沈んでいる時に「底どく御魂」、 猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に「つぶたつ御魂」、 泡が水面で弾ける時に「あわさく御魂」という三柱の神様が生まれた。

    倭姫命と猿田彦

    倭姫命世記(神道五部書の一)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、 猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。

    大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。

    猿田彦と天宇受売神

    結婚した猿田彦と天宇受売神

    日本書紀には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、 性的な所作をもって相対したことになる。

    神話には書かれていないが、二神が結婚したと民間では伝えられているのは、 この記述によるものと考えられる。

    天狗とお多福のモデルか

    「鼻長八咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされる。

    「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神であったとする説もある。

    道祖神と同一視

    三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社がサルタヒコを祀る神社として名高い。

    天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視された。

    そのため全国各地で塞の神・道祖神が「猿田彦神」として祀られている。

    この場合、妻とされる天宇受売神とともに祀られるのが通例である。

    また、祭礼の神輿渡御の際、天狗面を被った猿田彦役の者が先導をすることがある。

    他にも滋賀県高島市の白鬚神社の祭神とされたことから白鬚明神の名でも全国各地に祀られている。

    また子孫である大田命、内宮の興玉神とも同一視される。

    さらに江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたほか、 垂加神道では「導きの神」として神道の「教祖」とされるなど複雑な神格を持つ。

    秦野に多い道祖神

    こうしたことから、近年「謎の神」として鎌田東二などの学者にクローズアップされている。

    常陸国の住人に猿田氏があるが、猿田彦の末裔であるとされる。 前述の椿大神社・猿田彦神社の宮司もともに古くから猿田彦の神孫として名高い。

    手塚治虫の火の鳥シリーズには、「猿田」もしくは「サルタヒコ」という人物が多く登場する。 それらの多くが、鼻が大きいという身体的特徴を持っている。

    秦野には、道祖神が非常に多いが、猿田彦が秦氏の氏神さまだったのだろう。

    以上