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    応神天皇と秦氏は、日本の文化の基礎を作った

    応神天皇と秦氏

    もくじ

    1. 応神天皇と秦氏の関係
    2. 秦氏が建てた建物
    3. 稲荷神社
    4. 八幡神社

    日本の文化の基礎は秦氏が創った?

    秦氏は言うなればエンジニア集団であり、政治的な成功を求めず経済的な成功のみを求めた。

    従って、秦氏は様々な政治環境のもとで、生き延びて経済的な成功のみを収めた。

    様々な政治環境のもとで「目立たないが役に立つ」集団であることを目指したのであろう。

    秦氏は、大山阿夫利神社のような多くの神社を各地に作り、 大衆が求める薬を売ったりして、現在のコンビニ的な役割を果たし、 日本の文化の基礎を創ったと言えるのではないか。

    そして、秦氏の価値を最もよく理解していたのが、昔の天皇家ではなかったのだろうか。

    昔の中国や朝鮮は、秦氏の価値をよく理解できなかったらしい。 だから、秦氏は昔の中国や朝鮮を去り、日本に定住し同化した。

    秦氏は、中央で伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造にも寄与したが、 日本全国にも散らばり、稲荷神社や八幡神社などを作り、 彼らの文化と技術(景教、建築、絹、薬など)を日本に広めた。


    応神天皇

    応神天皇と秦氏の関係

    初期の天皇の系譜について」を引用。

    応神天皇の時、秦氏一族が渡来

    応神天皇の時、記録にあるように、大陸から渡ってきた秦氏一族(120−127県(あがた)=数千人から1万人規模)が、 天皇に協力し、大和朝廷の設立に初めから関わったことになる。

    また、このときから急に古墳が巨大化し、秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。

    秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、 新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、 五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。

    すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、 羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した、

    現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、 彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、 アミシャブからも認められている。

    秦氏によるユダヤ文化の導入:

    ここで、最も驚くべきことは、大和朝廷を建て上げるために天皇家を大いに助けた秦氏一族は、 クリスチャン、しかも、ユダヤ教的な(あるいは、ユダヤ人の)、 しかも、原始キリスト教徒(一部、景教徒も含む)であったことである。

    それは、秦氏が設立にかかわった宗教的な建物や習慣に、 ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ性だけではなく、 新約聖書からの教理や教えが、秦氏が渡来した初めから含まれているからである。

    秦氏が建てた建物

    初期の天皇の系譜について」を引用。

    伊勢神宮の外宮

    外宮が建てられたのは21代雄略天皇の時(内宮は11代垂仁の時とされるが詳しいことは分からない)と 言われている。

    神道用語で「造化三神」である、アメノミナカヌシ(豊受大神)、クニノトコタチ、ウカノミタマ(顕現の神、稲荷大神)は、 明らかにキリスト教の三位一体(それぞれ、父なる神、子なる神、聖霊)を表している。

    外宮には、このうちのアメノミナカヌシ(天の真中に座す神=父なる神)が祀られている。

    秦氏は、内宮で祀られている、カナンやエジプトの地にもあった偶像崇拝起源の「太陽神(アマテラス)」ではなく、 旧・新約の両方に共通の「父なる神」を祀ったのである。

    稲荷神社

    景教(ネストリウス派・東方キリスト教)では、イエス・キリストのことを、 しばしば、「JNRI」、あるいは、「INRI」と表現する。

    これを読むと「インリ」、すなわち、「イナリ」となり、「稲荷」は当て字である。

    安閑天皇の時代に、秦氏はイエス・キリスト神社として稲荷神社を建てた。

    最初に建てられた稲荷神社は、和歌山県有田市の糸賀稲荷で、 この地方は現在も「王子信仰」が盛んな地でもある。

    建立時の稲荷神社は霊験あらたかで、瞬く間に日本全国へ広がった。 (狐が祀られるようになったのは、後の8世紀になってからで、空海による)

    四天王寺

    聖徳太子が建てた四天王寺は、実は神社であり、玉造(たまつくり)の地にあったことがいくつかの文献にある。 イナリの神が祀られ、聖徳太子はそこで戦勝祈願したといわれる。

    587年に最初に建てられた地には、現在「玉造稲荷神社」が建っていて、 鳥居は赤くなく、西向きであり、現在の四天王寺の西門にも鳥居がある。

    宇佐八幡宮

    現在応神天皇が祀られている宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は、 元々、応神天皇が拝んでいた神が祀られていた。

    宇佐八幡宮は、秦氏が創建した全国の八幡神社の中心であり、 そこには本殿が3つあり、本来は3つの神(三位一体の神)が祀られていた。 「八幡」とは、元々「ヤハタ」と読み、「ユダヤ」を意味するヘブル・アラム語の 「ヤェフダー」、あるいは、「秦氏の神」の「ヤハ・ハタ」から来ている。

    749年に、ここから初めて神輿(みこし)が上京したが、 神輿は旧約聖書の「契約の箱」に酷似している。


    宇佐八幡宮

    稲荷神社

    稲荷神(Wikipedia)」を引用。

    日本にある稲荷神社は2万社とも3万社とも言われており、 屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものまで入れると、 稲荷神を祀る社は無数と言って良いほどの数になる。

    江戸時代には、江戸に多い物として「火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞」というはやり言葉があったほどである。

    本来は穀物・農業の神であるが、現在は産業全般の神として信仰されている。

    伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。

    稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)される前のまだ幼少のある日、 「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、 天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、 和銅4年(711年)2月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。

    諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、 中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、 また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化したという記録があるが、 近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられている。

    雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、 とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。

    朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろう。

    彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。

    こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、 山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神を鼎立した。

    深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理(はたのとり)の弟が、 稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようだ。

    八幡神社

    八幡信仰」を引用。

    八幡神社のルーツは宇佐八幡宮

    八幡系の神社は稲荷社についで多く、その数は全国に二万ともいわれる。 その起源は大分県宇佐市の宇佐神宮にある。

    神格の起源については不明な点が多いが、もとはこの地の土俗的な神だったと思われる。 本来の神格については、海神・鍛冶神・渡来系の秦氏の氏神など諸説がある。

    豊前北部のヤハタ神と南部のヒメ神の信仰が融合したとも考えられている。

    「比賣大神」(卑弥呼?)が主役

    現在,宇佐神宮の本殿は三殿で構成されているが、 「比賣大神」の鎮座する「二の御殿」が中央に位置し、最も大きい。

    応神天皇(一の御殿)と神功皇后(三の御殿)はむしろ「脇役」であるかのようである (京都の岩清水八幡宮では応神天皇が中央に祀られている)。

    宇佐神(比賣大神)を中心としたこの地の初期の信仰を伝えているのであろうか。

    宇佐神の祭祀集団(秦氏)のこと

    宇佐神の祭祀集団は中国・朝鮮とのつながりも持っていたらしく, 道教系(注:景教系と言うべきか)の医術をよくし,しばしば天皇の治療にも当たったという。

    六世紀なかばに大神比義(おおがのひぎ,おおみわのなみよし)なる者が祭祀を主宰していたが、 その時、宇佐神から「われは応神天皇(ホムタワケノミコト)である」という神託が下った。

    これにより宇佐神は、天照皇大神を祀る伊勢神宮につぐ皇室の第二の宗廟としての地位を得て、 天皇家にさらに接近することになった。

    神亀二年(725)には現在の地に奉斎され,天平三年(731)には官幣を賜った。

    奈良東大寺の大仏の造にも活躍した秦氏

    745年に奈良東大寺で大仏の鋳造が始まったが、神託によって大神氏は奈良に入り, 鋳造にともなう諸問題を神託によってたびたび解決した。

    宇佐神の祭祀集団が最先端の金属加工技術を持っていたことをうかがわせる。

    大仏が完成した天平勝宝元年(749)には宇佐神が奈良に入り, これをきっかけに宇佐神が国家の重大事に関与することになった。

    弓削道鏡を退ける託宣を下したことがよく知られている。 (神託を得た場所は宇佐神宮の摂社大尾神社とされる。)

    早くから仏教と深く習合したことも八幡神の特徴である。 天平十年(738)には早くも宇佐神宮の境内に弥勒寺が建立されていた(今は礎石が残っている)。 最澄の崇敬も厚かった。

    柞原八幡宮のこと

    天台僧の金亀(こんき)が宇佐で「大分郡に別宮を建てよ」という神託を得て, 由原の地に宇佐神を分霊した(天長四年−827)。

    これが大分市八幡(やはた)に鎮座する柞原(ゆすはら,いすわら)八幡宮である。

    貞観二年(860)には大安寺の僧が京都男山の地に宇佐から八幡神を勧請して岩清水八幡宮を建て、都の守りとした。

    清和源氏の氏神になった八幡宮

    十世紀ころから清和源氏が氏神として信仰し、源義家は岩清水八幡宮で元服して「八幡太郎」を名乗った。

    これ以後,武士の勢力範囲の拡大とともに、八幡信仰は関東・東北にまで広がっていった。

    鎌倉幕府が岩清水八幡宮から分霊して鶴岡八幡宮を建てて崇敬するようになってからは、 武神としての性格をいっそう強めた。

    ことに十三世紀末に中国が企てた侵略戦争(文永の役、弘安の役)では、 神威を遺憾なく発揮し、中国(元)朝鮮(高麗)連合軍の戦意をくじいてこれを殲滅した。

    現在,八幡神社の祭神は、誉田別尊(ホムタワケノミコト;応神天皇)、 比賣大神,気長足姫命(オキナガタラシヒメミコト;応神天皇の母すなわち神功皇后)の三神である。

    以上