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    秦氏と蘇我氏の関係を調べて見よう

    秦氏と蘇我氏

    もくじ

    1. チェーン店(神社)作りに励む秦氏
    2. 大磯に上陸した秦氏
    3. 赤穂に上陸した秦氏

    蘇我氏(秦氏:新羅系)と藤原氏(百済系)の戦い

    最近まで日本の権力を握っていたのは、藤原氏であった。

    藤原氏のルーツは、百済王子・豊璋(中臣鎌足)とされている。

    660年に唐・新羅の連合軍が急に百済を滅ぼしたので、豊璋は帰国できなくなったという。

    668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされて、帰国できなくなった高麗 若光の境遇とよく似ている。

    一方、蘇我氏ルーツは、神功皇后の愛人とされる超人・武内宿禰(住吉大神)である。 武内宿禰は、360歳まで生きたとされている。

    渡来人の持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられているので、 蘇我氏が、秦氏の系統であることは間違いないと思われる。

    武内宿禰(住吉大神)は、新羅から来たから、 神功皇后は、新羅が好きでたまらなかった。 秦氏は新羅経由でアッシリアからはるばる日本に来たのだろう。

    とすると、日本の古代史とは、藤原氏(百済系)が蘇我氏(秦氏系=新羅系)を制覇(歴史から抹消)した歴史になる。

    藤原氏(百済系)の天下は、つい最近まで続いたから、秦氏は目立たないように暮らす必要があった訳だ。

    藤原氏(百済系)が作った日本書記に秦氏の記述が少なく、蘇我氏のことはボロクソに書いているのも頷けるのだ。


    雅楽は、秦河勝が元祖である

    チェーン店(神社)作りに励む秦氏

    秦氏は、常に海から来る

    秦氏は、常に海から来て、その地の開発に着手した。

    秦氏の常套パターンは、海から来て先ず、その地の見晴らしのいい山に登るのである。

    そして、見晴らしのいい山に神社を作るのである。 なぜかと言えば、将来、この山を観光地にするのである。

    見晴らしのいい山に神社を観光地にすれば、毎年、人が集まり、 秦氏が得意な薬や生糸などを販売できるからである。

    今の自民党のように高速道路を作って、観光地を破壊し、 その工事費用とその利権で儲けようと言うドカチンの貧弱な発想とは全く違うのである。

    秦氏は、先ず大磯に上陸した。いきなり湘南海岸とは、流石に目の付け所がいい。

    秦氏は、チェーン店(神社)を作る

    秦氏は、見晴らしのいい山に登ったら、次のチェーン店(神社)をどこにするかを考える。 人工衛星も地図もない時代であるから、自分でいい場所を探すしかない。

    このようにして、秦氏の作ったチェーン店(神社)は、どんどん増えて言った。 チェーン店(神社)の名前は、八幡神社であったり、稲荷神社であったりするが、大きな違いはない。

    大きな神社の近くには、常設の大きな店ができただろうし、小さな神社の近くにはモバイル型の屋台の店ができた。

    電車がある訳ではなかったが、風光明媚な山と神社には、毎年リピータが来てくれた。 薬など毎年補充しなければならないものを買うためでもあった。

    つまり、神社とは人を集めるための建築物であり、 観光地としてのステータスを保つために、その周りの自然は保存された。

    秦氏は、先ず高麗神社と大山阿夫利神社を作った

    秦氏は、先ず大磯に目を付けて上陸した後、高麗山に登った。そして高麗神社を作った。

    野蛮で知的レベルの低い明治政府の廃仏毀釈により、高麗神社の大半は破壊された。

    いまでも野蛮で知的レベルの低い自民党が高速道路作りで各地の神社や風景を破壊し続けている。 きっとバチが当たるぞ。

    高麗山に登ったら、北の方に丹沢の大山が見えた筈だ。 そこで、次に金目川を遡り、秦野と大山に神社を作った。

    そして、丹沢の大山に登り、次のチェーン店(神社)をどこにするか決めた。 多分、海老名あたりに目を付けたのではないだろうか。

    海老名は、当時は小田急も相鉄線も相模線もなかったが、小高い丘があったので、 湿地帯ばかりだった平地より人が快適に住むことができた。

    大磯に上陸した秦氏

    高麗 若光の大磯上陸

    666年に高句麗の使者として来日した高麗 若光(こまのじゃっこう)は、 668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされると帰国の機会を失った(日本書記)。

    703年(大宝3年)には、文武天皇により高麗王の氏姓を賜ると有り、従五位下に叙された(続日本紀)。

    そして、716年(霊亀2年)に武蔵国(東山道)に高麗郡が設置された際に、 都より同郡に下って郡司となったという(高麗神社の社伝等)。

    その時、若光一族は、海路で都より東海道沖を航海し、大磯に上陸した。 それ以降、若光一族の一部は、神奈川の地に残り、この地を開拓した。

    若光一族は、大磯に上陸した訳だから、大磯の傍を流れる金目川沿いに住んだのであろう。 金目川とは「韓メ川」のことで、朝鮮人の住む集落を流れる川という意味である。

    従って、金目川が「韓川=神奈川」の語源になったことは間違いない。

    金目川の上流は秦野であるから、朝鮮人の住む集落は大磯から秦野まで続いていた。 秦野と言う地名からして、朝鮮人の住む集落らしい名前である、

    金目川の上流である秦野の中心地は、秦野CCの近くの実朝公首塚のある波多野城付近であった。

    高麗 若光は秦氏か

    問題は、高麗 若光は秦氏かどうかと言うことである、

    蘇我氏のルーツとされる百済王子・豊璋(中臣鎌足)は、 660年に唐・新羅の連合軍が急に百済を滅ぼしたので、帰国できなくなったという。

    大磯に上陸した高麗 若光も、668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされて、 帰国できなくなったと言う。

    この二人の境遇も年代も良く似ているが、出身が百済と高句麗と言う違いがある。

    百済と高句麗は、660年と668年というほぼ同時期に滅亡した。

    一方、秦氏は新羅系とされるので、百済も高句麗も秦氏と対立関係にあった。

    しかし、特に新羅と百済は犬猿の仲であり、鋭い対立関係にあったとされる。

    乙巳の変(蘇我入鹿を中大兄皇子や中臣鎌足らが暗殺)

    そうすると、百済王子の豊璋(中臣鎌足)と新羅系の蘇我氏(秦氏)の間も 鋭い対立関係にあったに違いない。

    この対立関係が、622年4月8日の聖徳太子の死後23年経った645年6月12日の乙巳の変 (蘇我入鹿を中大兄皇子や中臣鎌足らが暗殺)を生んだ。

    この年に、三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日したのだ。 三国の調の儀式は朝廷で行われ、大臣の入鹿も必ず出席する。

    中大兄皇子と中臣鎌足らはこれを好機として暗殺の実行を決めた。 (大織冠伝には三韓の使者の来日は入鹿をおびき寄せる偽りであったとされている)

    同席していた古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰ったが、このとき皇子は 「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」と述べたという。

    つまり、古人大兄皇子は「韓人=百済王子の豊璋(中臣鎌足)が鞍作(入鹿)を殺した!」と叫んだ訳だ。

    中大兄皇子と言う暴力団の人殺し専門家のような人間と韓人(中臣鎌足)が組んで、 名門の蘇我入鹿を相手にクーデタを実施した訳だ。

    百済と高句麗の滅亡

    660年、唐は水陸13万人、新羅軍5万人の大軍を動員して百済を攻めた。

    百済王はいったん王都の泗詫城(しひじょう)から旧都の熊津城にのがれたが、降伏して百済は滅亡した。

    百済の滅亡後も、664年まで、高句麗や日本の大和朝廷の支援を受けた勢力が執拗に唐・新羅連合軍と戦っている。

    661年、百済を滅ぼした唐・新羅連合軍は、一時、高句麗の王都の平壌城を包囲したが、 高句麗軍の善戦にはばまれ、新羅の大宗が死去し、百済の復興軍が勢力を増し、 唐の国内でも連年の出兵で人心が動揺しはじめたので、撤兵することとなった。

    唐・新羅連合軍は、百済の復興軍との戦いに専念した。

    666年、高句麗の泉蓋蘇文が死去すると、唐・新羅連合軍は、再び高句麗を攻撃し、 高句麗も善戦したが、668年に降伏して高句麗は滅びた。

    赤穂に上陸した秦氏

    坂越浦に上陸

    兵庫県赤穂市にある瀬戸内海の入り江・坂越(さこし)は、 瀬戸内海の海上交通の要地として栄えた。

    坂越は新羅から渡来した秦氏が上陸した場所といわれるところである。

    播磨国赤穂郡は近世入浜塩田発祥の地として有名であるが、 このあたりは秦氏の勢力が強く及んだ地域である。

    塩田技術も秦氏が伝えたものであろう。

    そして秦氏の一族には奈良時代に塩田開発をしたと思われる者もある。

    また赤穂郡内には秦河勝や秦酒公を祭る大避神社がいくつもあって、 秦河勝をはじめ秦氏にまつわる伝承もすくなくない。

    東儀家と雅楽

    東儀家は1300年以上も雅楽を世襲の仕事としてきた楽家(がっけ)で、 その祖は聖徳太子の参謀だった秦河勝(はたのかわかつ)である。

    帰化人であった秦河勝は、多くの大陸の文化を伝え、 定着させた人物で、文化人でも政治家でもあった。

    聖徳太子が世を去ったあと、京都太秦を本拠地としていた河勝は、 蘇我氏の迫害をさけ、兵庫県の瀬戸内海に面した坂越という地にたどり着き、 80余年の一生を終えたとされる。

    坂越にある大避神社では、毎年10月12日に大きな祭りが行われている。

    10月12日というのは秦河勝の命日と伝えられている。

    雅楽にまつわる言葉

    Wikipedia〜雅楽 」から引用。

    塩梅(あんばい)

    西洋音楽で言うところのメリスマ。近似する音程へ徐々に移行する一種のポルタメント。ゆっくりと慎重に音程を変更するところから、具合を測りつつ物事を進めるさまを表す。

    八多羅(やたら)、八多羅滅多羅(やたらめったら)、滅多(めった)

    現在は矢鱈と書くがこれは明治時代に夏目漱石によって作られた当て字で、本来は雅楽の拍子を指す。2拍子と3拍子のリズム細胞を繋げる変拍子。転じて、リズムが合わずめちゃくちゃで大袈裟な身振りや様を指す。多羅(たら)はサンスクリットのターラ(リズム)に由来する。

    打ち合わせ(うちあわせ)

    管楽器同士で練習をした後、打楽器を交えて、最終的なリハーサルをしたことから。

    野暮(やぼ)

    笙の17本の管のうち「也」と「毛」の音が使用されないことから。

    様になる(さま-)/左舞なる(さまい-)

    左舞(さまい)が上達することから。

    上手い(うまい)

    右舞(うまい)から。

    二の舞を舞う(にのまいをまう)

    「二ノ舞」は「安摩」とセットの番舞。左方の安摩が上手に舞った後、右方の二ノ舞は真似て舞おうとするが、上手に出来ずに滑稽な動きになるという設定。転じて他人の成功 を真似て失敗すること。他人の失敗 を繰り返す例に使われるのは本来は誤用。

    呂律(ろれつ)
    二の句を継げない(にのくをつげない)

    朗詠で、一の句から二の句に移る時、急に高音となるため歌うのが難しいことから。

    以上