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    秦氏と秦野の関係を調べて見よう

    秦氏と秦野

    もくじ

    1. 秦氏と秦野
    2. 秦氏とは
    3. 景教
    4. 秦野の徐福伝承
    5. 秦野の雨乞い祭りと隠れキリスタン

    秦氏と秦野

    インドから来た秦氏

    秦野という地名からして、最初に住み着いたのは秦氏の一族と考えられる。

    秦氏は、朝鮮半島から来たらしいが、朝鮮人かと言うと、 そうではないらしい。

    秦氏は、遠くペルシャあたりから朝鮮半島を経由して日本に来たらしい。

    朝鮮半島を経由して日本に来たと言うと例のシルクロード経由で陸路で来たように思われるが、 そうではなくインドを経由してヴェトナムあたりの海路で来たらしい。

    秦氏は、インドを経由してヴェトナムあたりの海路で来た訳だから、 一部は朝鮮半島の南岸に辿り着き、一部は日本の九州か山陰海岸あたりに辿り着いたと思われる。

    ペルシャは、昔はアッシリアと呼ばれており、当時、アッシリアにはイスラエルの10部族が 捕らえられており、現在のイラク北部あたりに強制的に移住させていたと言う。

    秦氏は、アッシリアに捕らわれの身になっていたイスラエルの10部族の末裔ではないかと言うのである。

    彼らの宗教は、景教と呼ばれるものであった。

    以下のページも見て下され。

    秦氏とは

    日本書紀の記述

    日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が、 朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったという。

    しかし、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている説もある。 新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある。

    いすれにせよ、彼らの出身地は朝鮮半島ではなく、朝鮮半島は単なる経由地であった。

    秦氏はペルシャからウィグルを経由して来た

    弓月君と言う名称で暗示されるように、秦氏はペルシャからウィグルを経由して秦国にやって来た。

    当時の中国の西域には、大月氏、大宛(たいえん)氏、大夏(たいか)といった人々がいたと言う。

    その西域諸国のウィグルあたりに、「三日月王国」という国があり、 中国の史書「資治(しじ)通鑑」では、この国を「弓月(クルジャ)王国」と表記していると言う。

    つまり、秦氏はペルシャからウィグルを経由して中国の秦の国の 万里の長城の建設に従事した。

    しかし、この苦役に耐えかねて朝鮮半島へやってきて、 馬韓の王が秦の労役から亡命人した秦氏を東へ移し、土地を与えたとされる。

    その地の言葉には秦語(漢語ではない)が混じり、秦韓とも書いたのであるが、 秦氏という名称は秦から来た人々と言う意味があるのであろう。

    秦氏はインドから海路で朝鮮半島や日本に来た

    ただ、所謂、シルクロードと呼ばれる陸路は、実際には存在しなかったと言う説もある。 秦氏が陸路ではなく海路で朝鮮半島や日本に来た可能性もある。

    昔は、海路の方が便利で早かった筈であるし、何よりも荷物を積める利点がある。

    秦氏のイメージは、武内宿禰(住吉大神)であるから、 陸路よりか海路の技術レベルの方がはるかに大きいと思われる。

    秦氏のイメージは、浦島太郎で代表される海の民である、

    秦河勝と秦久麻

    秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。 彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。

    またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名が残る。

    秦河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。

    また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、 その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。

    秦河勝は広隆寺を建てた

    聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。

    没したのは赤穂の坂越で、坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、 神域の生島には秦河勝の墓がある。

    本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。

    さらに右京区西京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。

    この地域は明治の初めまで川勝寺村と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた。

    秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。

    また、現在楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるという。

    景教

    景教は、キリスト教のネストリウス派の宗教

    景教は、キリスト教のネストリウス派の宗教であり、 聖徳太子の時代には、福音書の内容などが日本に伝わっていた。

    聖徳太子の家庭教師であった秦河勝(はた・かわかつ)は、秦氏で景教徒であったと言う。

    このルートから聖徳太子母子は景教徒となり、隠れキリシタンになったと言う説がある。

    その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用されたとの 可能性を唱える研究者もある。

    また、唐の時代の景教の寺院は大秦寺と呼ばれていた。


    高野山の景教碑

    聖徳太子は隠れキリスタンだったかも

    秦河勝が聖徳太子に仕え、有力なブレーンであったことから、 聖徳太子は秦河勝の景教の影響を受けた可能性が高い。

    聖徳太子は教科書に書いてあるような仏教立国を目指したのではなく、 天皇を大祭司または祭祀王とする神道国家を目指していたと言われる。

    つまり、景教的な発想で仏教派の蘇我氏に対抗しようとした訳である。

    しかし、聖徳太子の一族は仏教派の蘇我氏に敗北し、山背皇子など子孫もことごとく殺された。

    勝った仏教派の蘇我氏は、聖徳太子の鎮魂のために法隆寺を作り、 聖徳太子を「仏教立国を目指した恩人」として祭ったのだ。

    秦野の徐福伝承

    神奈川における徐福伝承」を引用

    徐福伝承とは

    徐福伝承とは、紀元前219年、秦の始皇帝の時代に童男童女500人を含め総勢3000人の集団を引き連れ、 仙人と不老不死の仙薬を求めて中国大陸から東方の桃源郷日本へ旅立った一団がいた。 それを先導したのが秦の始皇帝からその命を受けた「徐福」である。というものだ。

    これは、中国の「史記」の記録(淮南衡山列伝 BC124年の項 伍被の証言)に、 BC210年、「徐市が秦の始皇帝時代に、親族・部族の「童男女数千人と百工、五穀の種を携え、 東海に船出した。広原平沢を得て王となり、帰らず」という記述に拠ったものである。

    しかし、言語などの文化面で見ると日本語と中国語は全く異なる言語だから、 日本の各地にある徐福伝承が、「史記」の記録にあるものと一致するかどうかは疑問が多い。

    しかも当時の中国人が航海技術に長けていたと言う話も聞かない。 とすれば、「史記」の記録にある徐市は、海の藻屑と消えてしまった可能性が高い。

    日本の徐福伝承はインド人である

    大野晋博士によれば、日本の弥生文明のルーツはインドのタミル地方の文化だと言う。 彼らはヴェトナム沿岸など海路で日本や朝鮮半島の南岸に来た。

    つまり、日本の徐福伝承はインド人であると言うことになる。 中国嫌いが多い日本では、大野晋博士の説の方が受け入れ易い。 我々は死んでもあの中国から来たとは思いたくない。 そもそも中国文化と日本文化とは全く別のものだ。

    徐福の子孫である福田家のこと

    福岡家は、秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着い たのち、秦野に移り、後に、藤沢に移り住んだという。

    尚、「富士古文書」によると、福岡姓は徐福の長男・福永の家系ということである。

    福岡家の先祖、故秦太郎可雄(応永二六年巳交=1419)は、 秦野市今泉村「光明寺」に葬られたと伝えられている。

    「秦徐福後孫秦太郎蔵人可雄十七世」という位牌がある。

    秦野の徐福伝承

    藤沢の福岡家墓碑から、徐福の子孫の旧蹟は、藤沢に近い「秦野」の地であったことがわかった。

    秦野の伝説を資料から探ってみたところ、果たして二つの伝承が存在したことが判明した。

    岩田達治著「丹沢山麓 秦野の伝説」によると、徐福の子孫は、「からこさん」と呼ばれ、 大磯から上陸して秦野に定着したという伝承である。

    また、丹沢山系から降りて定着した「からこさん」の伝承もあったと云う。

    徐福一行の海上ルート

    秦野の伝説によると、「からこさん(唐子さん)は、中国からおいでになり、 大磯の浜辺から秦野に移住したと伝え、徐福一行ではないか」と考えられている。

    定着した場所は乳牛(ちゅうし:町名)とよばれ、今の秦野市中心街・本町になる。

    かつて、唐子明神社が存在したが、現在は郷社・曽屋神社に習合されてしまっている。

    該当場所は、現不動尊の南約二百b付近であると云われる。

    秦野の民話によれば、「'からこさん'と一緒に、こぼしさまが来られたが、 こぼしさまは、大磯の浜からころがりころがりやっとのこと、丹沢の山にたどり着いた。 そして、美しい”こぶし”の花'を咲かせた」という。

    現在も秦野市の民家には、春には「こぶし」の花を咲かせているところが多い。

    からこさんは、乳牛を飼うことを教えた

    「こぼしさま」とは、小方士・法師さまで、徐福一行の童男女を表しているようにも思われるとし、 岩田達治氏によると、からこさんは、乳牛(ちゅうし:町名)で、乳牛を飼うことを教えたと云う。

    乳牛(ちゅうし)近くの曽屋神社の由来は、乳牛から蘇(そ、チーズ)をつくる屋敷からきたともいわれる。

    神社近くの市役所前の道を土地の人は「デーゴ道」と呼ぶが、これは醍醐(ダイゴ=チーズ)からきているということである。

    からこさん達が着岸した大磯の背景をなす山が、高麗山と呼ばれるのは、唐子さんに由来するのかもしれない。

    つまり、蓬莱の地を探し求めた徐福一行は、日本列島に渡航後、熊野、三河、遠州、駿河と、 沿海を船で巡り、東海、関東に上陸した人たちもいたということであろう。

    秦野の雨乞い祭りと隠れキリスタン

    秦野の雨乞い祭り

    乳牛には青竹で十字に組んだ十字架にヤソ様なる仏様(坊さん像)をつけて、 担ぎ回すという不思議な雨乞い祭りがある。

    これも木嶋神社などが雨乞いの神様とい共通点が見られる。

    ヤソ様は今は天徳寺の本堂に安置されている。

    このことから秦野にキリスト教が伝わったことが分かる。

    その他、南矢名の亀谷山・龍法寺にも。「亀の子石」=(神の子)「ヤソじいさん」=(イエスキリスト)による 雨乞い祭りがある。

    秦野の隠れキリシタン

    秦野は隠れキリシタン信仰の地であった。 しかし、ネストリウス派ではなく、フランシスコ派がキリスト教を普及させたという。

    そのためか。秦野にはキリスト教会が多いという。

    また龍法寺から南東800mのところの天台宗の長福寺には、 色々な仏像等に大きな十字の模様が記されていて、それぞれの扉に×印が彫られていた。

    また秦野の多くの地蔵の錫杖に十字が刻まれていたそうだ。

    また渋沢の栗原家の観音堂内の白衣観音など渋沢から大根まで隠れキリシタン伝承が 広がっていたことなど秦野一帯はキリスト教信者が多い。

    また上野の三社祭りで神輿を担ぐ際発する「ソヤ!ソヤ!」というのは、 「ヤソ!ヤソ!」と掛け声をかけているのでしょうか。

    以上