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    大国主神

    大国主神

    もくじ

    1. 因幡の白兎の話
    2. 大国主神とは、どんな神様か
    3. 大国主神と八幡信仰

    猿田彦と和邇氏

    右欄の記事でも分かるようのに、猿田彦と和邇氏との縁は深い。 船(和邇)を操る技術に優れた海神族である和邇氏の祖先が、 猿田彦であることは間違いないところだろう。

    猿田彦は、伊勢の松坂の海で漁をしている時に、比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれておぼれ死んだというが、 この比良夫貝の意味は、猿田彦が琵琶湖西岸の比良の地で死んだと言う意味ではないのか。

    猿田彦は、出雲系であるから、出雲の国譲りの話とも関係がある。

    因幡の白兎の話

    和邇とは船のこと

    稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)が、淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、 和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが、和邇に毛皮を剥ぎ取られて泣いていたところを大穴牟遲神(大国主神)に助けられる、 というのが因幡の白兎の話のあらすじである。

    ここで、和邇(ワニ)の解釈が問題であり、「サメ」「海ヘビ」「鰐」など色々な解釈があるが、 和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当ではないだろうか。

    例えば、滋賀県大津市、JR蓬莱駅近くの天川から以北、高島市鵜川近辺までの比良山麗一帯を指す古い呼称で比良と言う地域がある。

    比良は、古代海族とされる比良一族の居住地としてひらかれ、平安時代に隆盛となり、比良三千坊と称する寺院群があったという。

    古来、比良の湊がおかれ、北陸地方との交易を中心に水運にも従事。中世には比良八庄とよばれ、小松荘と木戸荘がその中心であったという。

    そのJR蓬莱駅の南にJR和邇駅があり、1651年の丸船(丸小船)改帳によれば、 和邇38艘、木戸25艘、南比良23艘、南小松14艘、北小松33艘を有すと言う記録があり、 明治11年の調査では、和邇南浜でイサザ・エビ・ハス・アユ、北比良でヒウオ、北小松でシジミなどの漁獲があったと言う。

    となると、和邇と言う地名は、丸船(丸小船)が多い場所と言う意味に由来していると思われる。 つまり、和邇とは船のことを意味すると解釈するのが妥当ではないだろうか。

    または、和邇と言う地名から、古代海族とされる比良一族は、和邇一族と呼ばれていたのかも知れない。

    因幡の白兎だって、爬虫類の鰐の背中を渡って行くよりも並べた船を渡って行く方が現実味があると言うものだ。

    和邇と言う地名の場所の南には、小野妹子を輩出した小野と言う地名の場所がある。

    ここにある小野神社は、古来当地の産土神米餅搗(タガネツキ)大使主命を祭り、 菓子の神様として崇められ、現在でも全国の菓子製造組合から参拝者が多いそうだ。

    一説にはタガネツキは、鏨とも見られ製鉄関係の鍛治師(和邇一族)との、関連も考えられる。 特にこの地が、和邇一族の支配していた地域であり、比良山麓には製鉄遺跡も、数多く出土しているそうだ。

    和邇川を渡り、少しさか上った処に、天皇神社がある。 この神社は、かって牛頭天王社と呼ばれており、八坂神社同様、 素戔鳴尊=牛頭天王を祭っており、最勝寺の鎮守社として、祀られたと言う。

    和邇は、平安京への北の入口 和邇堺として重要視され、四堺祭(疫病・疾疫など都城への侵入防ぐ祭祀)等が、 都から勅使・陰明師等が来てなされた。天皇神社は、これと同じ鬼門鎮守の役割を果たしていたのだろう。

    素戔鳴尊=牛頭天王と言えば出雲を代表する神様(支配者)ではないか。 ならば、和邇族=素戔鳴尊=牛頭天王と言う関係でではないのか。

    和邇は海上ルート、白兎は陸上ルート

    因幡の白兎の話は、和邇は海上ルートから日本に来た支配者で、白兎は陸上ルートから日本に来た支配者を示しているのではないだろうか。 もちろん、和邇族=素戔鳴尊=牛頭天王の系統は、海上ルートから日本に来た支配者である。

    海上ルートから日本に来た支配者(和邇)は、航海が得意で対馬海峡を北上し出雲の国に上陸した。 陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)は、航海が不得意で朝鮮半島から対馬や壱岐など島伝いに北九州に上陸した。

    出雲の国譲りの話は、海上ルートから日本に来た支配者(和邇)が、 陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)に負けたことを意味するのではないだろうか。

    陸上ルートから日本に来た支配者(白兎)の後裔である神功皇后が、 やたらに朝鮮半島(新羅)のことを懐かしがったり、新羅を攻めようとしたのは、 白兎一族(神功皇后)の先祖が朝鮮半島(新羅)にいたからではないだろうか。

    大国主神とは、どんな神様か

    大国主神は、プレーボーイだった

    大国主神を祀る出雲大社は、日本一の縁結びの神様でもある。 その理由は、大国主神は、日本一のプレーボーイだったからである。

    大国主神は、素戔鳴尊の娘婿であった。素戔鳴尊には須勢理毘売(スセリビメ)と言う末娘がおり、 どうも大国主神にゾッコンだったらしいのだ。

    大国主神の素性は、はっきりしていないが、外国人風のカッコイイ男だったようで、 須勢理毘売(スセリビメ)が大国主神に一目惚れしたのも無理はない。

    例によって、須勢理毘売の父親である素戔鳴尊の色々な嫌がらせがあり、 大国主神も苦労したようだが、眠っている素戔鳴尊の髪を部屋の柱に縛りつけ、 生大刀と生弓矢と天詔琴を持って須勢理毘売を背負って逃げ出したと言うから、 かなり強引な結婚だったようだ。

    どこの馬の骨かも知れない大国主神にとって、須勢理毘売を得ることが政略結婚であり権力への最短の道だと言うことを知っていたのだろう。

    大国主神の子供の数は、古事記では180人で、日本書紀では181人であるから、 大国主神は稀代のモテ男だった訳だ。

    大国主神と大黒様

    七福神は、インドのヒンドゥー教、中国の仏教、道教、日本の土着信仰が入り混じって形成された神仏習合からなる日本的な信仰対象である。

    大黒天は、元々はヒンドゥー教のシヴァの憤怒の化身であるらしい。 本来はマハーカーラといい、マハーは「偉大な」をカーラは「時」もしくは「暗黒」を意味するため「大暗黒天」とも呼ばれ、 青黒い身体に憤怒の表情をした神であった。

    大黒天は、後に仏教や密教に取り入れられ、 日本においては仏教の伝来と共に日本古来の神である「大国主」と習合され、独自の神となったらしい。

    大国主神と恵比寿様

    大国主神の家来に少彦名神よ呼ばれるか一寸法師の元型とされる小人神がいる。 恵比寿様を祀る神社は、東日本には少彦名神系が多いとされている。

    大国主神の子供に託宣を司る神である事代主神がいて、天照大神のお使いが来て日本の国土を天照大神に譲るよう言われた時、 交渉に当たった神の一人としても有名である。 恵比寿様を祀る神社は、西日本には事代主神系が多いとされている。

    いずれにしても、恵比寿は大国主神の家来か子供らしい。

    大国主神と八幡信仰

    八幡信仰と宇佐八幡宮

    八幡信仰のルーツは、宇佐八幡宮だ。八幡は、本来は「ヤハタ」と読んで、幡(秦氏)が多いと言う意味だろうから、 宇佐八幡宮のあたりは、秦氏が多い地帯だったと想像される。

    つまり、「八幡様=秦氏の氏神」と言う解釈が妥当だろう。 秦氏の氏神と言えば、武内宿禰が最適だろうから、「八幡様=武内宿禰」と言うことができる。

    応神天皇は、武内宿禰と神功皇后との間の子供と考えられるから、 宇佐八幡宮は、天皇家の氏神とも考えられるようになった。

    武内宿禰を氏神様とする秦氏は、エンジニア集団であったから、イオンのバカ息子の岡田のように、 政治の前面に出るような愚は犯さず、八幡神社と言うチェーン店を増やすことに徹した。 なにせ、八幡神社は天皇家の氏神扱いだから権威がある訳である。

    イオンのように、バカ息子の岡田がチョロチョロして人様の反感を買うようなこともなく、 天皇家公認の八幡神社は日本全国で愛される存在になって行った訳だ。

    ちなみに、宇佐八幡宮の地は、畿内の大和政権の西端の拠点であったと思われる。 大和政権は、ここに新羅からの外来人を集め、その技術力を活用して北九州の政権(邪馬台国?)に対抗した筈だ。

    神功皇后と武内宿禰のコンビは、大和政権から派遣された遠征軍であり、 北九州の政権(邪馬台国?)を破った勢いで、新羅を攻めて英雄であった。

    しかし、敵を破った英雄は、源義経と同様に味方の妬みに会い、ヒドい目に合うのが常である。 味方に追われた神功皇后と武内宿禰のコンビは、鹿児島の鹿児島神宮(霧島市)あたりに逃げた。 そして、鹿児島神宮(霧島市)から反撃(東征)の狼煙を上げることになる。

    大国主神と八幡信仰

    兎を助けた大国主神は、白兎族(神功皇后)の先祖と考えられる。 一方、武内宿禰は、和邇族出身であろうから、神功皇后と武内宿禰の結婚は、 白兎族と和邇族の融合(仲直り)とも言える。

    融合(仲直り)の条件は、白兎族が政治(天皇)を担当し、和邇族が経済(八幡神社チェーン店の経営)を担当すると言うものであったろう。 そして、和邇族は天皇の后を提供し続けることで、白兎族と和邇族の永遠の融合を狙ったものと考えられる。

    バカ息子の岡田がチョロチョロして人様の反感を買うイオンとは違って、 八幡神社チェーン店の経営者(秦氏、和邇族など)は、頭がよかった訳だ。

    一般の人々は、神功皇后と武内宿禰の結婚を祝って、仲のよい道祖神を作ったのだろう。 神功皇后と武内宿禰の結婚は、政略結婚ではなく、今で言う自由恋愛に近いものではなかったのか。 そのため、なおさら一般の人々に愛され続けているのだろう。

    政略結婚と言えば、神功皇后と仲哀天皇の結婚は政略結婚だったのだろう。 しかし、神功皇后は仲哀天皇の結婚が嫌で、仲哀天皇が死んだ時に、その前で 武内宿禰とHをしたと言うAVみたいな話は、自由恋愛の証として当時の一般の人々に愛された筈だ。

    好きな皇后とHをするなんて願望は、昔、「皇后陛下と何とかで・・・」と飲み会の歌にもあったが、 武内宿禰も大国主神なみのプレーボーイだった訳で、「武内宿禰=大国主神」と言う仮説も成り立ちそうだ。

    武内宿禰は300歳(実際は75歳)まで長生きしたと言われるが、「プレーボーイ=長生き」であったのだろう。 確かに大国主神のように180人もの子供ができれば、ボケることもなくホルモンの分泌も旺盛で病気もせず、 最後まで健康で青春を全うできたのだろう。

    まさに、神功皇后と武内宿禰は日本人の理想であった。 楽天的な日本人と単細胞な西洋人との違いは、この辺にありそうである。

    以上