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よもやまdansk

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アンデルセンの生涯

〜プロローグ〜

「アンデルセンは1805年4月2日,デンマークのオーゼンセに生まれました.父ハンス・アンデルセンは貧しい靴職人で,生活に行き詰まり,またナポレオンの崇拝者でもあったことから,後に兵隊に志願しました.母アンネ・マリーは夫よりかなり年上で教養は全くありませんでしたが,働き者で息子を溺愛しました。アンデルセンは風変わりな子どもで,人形芝居や歌に興味を持ち,詩や劇を暗誦することや,美しいソプラノで歌をうたうことが得意でした.また幼い頃から自分で芝居や詩を創ったりもしました.学校にも2,3通いましたが,どれも長くは続かず,自分の空想の世界にばかり閉じこもり,友達もできずにいつも独り遊びばかりしていました.」

・・・と,これが一般に語られているアンデルセンの幼少時代です.
しかしここでは彼の生涯について長々と書いていくのはやめようと思います.というのも,アンデルセンの生涯について書かれた本は日本でも数多く存在しますし,また実のところアンデルセンの出生地や両親については様々な説があり,アンデルセンが本当にオーゼンセで生まれ,ハンス・アンデルセンを父としていたとは断言することができないからです.
また生家についても正確なところは分かっていません.現在のアンデルセン博物館(原語では「アンデルセンの家」)も彼が実際に生まれた家ではないのです.

博物館について詳しくはこちらをどうぞ.

ですから,アンデルセンの生い立ちや人生についてこの説が正しい,いや違うと細かく論述するのではなく,童話を読む上で参考になるだろう要所だけを,特に4つのトピックごとに説明していきます.トピックは「有名になりたいアンデルセン」「恋をするアンデルセン」「旅をするアンデルセン」「本当のアンデルセン」です.

〜有名になりたいアンデルセン〜

アンデルセンが生まれた当時のデンマークはいわゆる7年戦争のさなかで,ナポレオンと同盟したデンマークは,イギリス,スウェーデン,ロシアを相手に戦っていました.戦況は悪く,国家は破産寸前でした.

当時オーゼンセ市が行った貧民の窮状調査には「ありとあらゆる惨状を呈したすさまじい貧困」と表現されているのですから,市民,特にアンデルセンのような下層階級の人々の貧困ぶりは想像を絶するものだったのでしょう.
こうした下層階級に属する人々は,たとえ才能があったとしてもそれを開花させるのは不可能に近いことでした.事実アンデルセンと同世代で下層階級から抜け出し,後世にも知られているのは,彼の他には彫刻家のベアテル・トーヴァルセンと王立劇場女優のハイベア夫人だけだったのですから.

アンデルセンは父親からの影響もあってお芝居が大好きでした.けれども貧しさゆえに,劇場にはめったに行けず,代わりに芝居の広告ビラ配りのおじさんと仲良くなり,ただで芝居を覗かせてもらっていました.
そんなある日,コペンハーゲンの王立劇場の一座がオーゼンセにやってきたのです.子役が足りないことからこの芝居に臨時にかり出されたアンデルセンはこの出来事をきっかけとして将来舞台に立つことを決意します.

アンデルセンは14歳で堅信礼を受けると,手に職をつけて苦しい生活を少しでも支えてくれるよう懇願する母親を懸命に説得します.「ぼくは有名になりたいんだ!それはとても苦しいことだと思う.でもそれを乗り越えればきっと有名になれるんだ!」と.

そして1819年9月4日,14歳のアンデルセン少年はたった独りでコペンハーゲンへ向かいます.彼の手元にはわずかなお金と王立劇場の人気女優宛てに書いてもらった一通の紹介状しかありませんでした.誰の目から見てもこの旅立ちはあまりにも無謀なものと映りました.

〜恋をするアンデルセン〜

さて,コペンハーゲンに到着したアンデルセンは,自分でも予想していた通り,数々の苦しい経験にあいます.俳優になる素質はないと言われ,得意の歌声も風邪をこじらせて潰してしまいます.お金はなく,水ばかり飲んでいるような生活.洋服はオーゼンセを出発した時の一着きりです.
けれども,なぜか不思議な魅力を持ったアンデルセン少年には,次から次へとパトロンが現れます.そういった人々から経済的な援助を受けて,アンデルセンはラテン語学校へ通い,詩人になろうと決意するのです.

さて,学生時代に,アンデルセンはリボーという女性に初めての恋をします.
結局,彼女は他の男性と結婚してしまいますが,彼の恋心はその後も様々な女性に移ってゆきます.パトロンであるコリン家の娘ルイーセや,恩師の娘ソフィー,スウェーデンの歌姫イェニー・リンドなどなど…….
しかし,その度に失恋します.それはアンデルセンの醜い容姿のせいだけではありませんでした.異性との性交渉に対するはなはだしい恐怖心,さらには,相手に対して積極的になりきれないアンデルセンの性格が一番の問題だったのでしょう.アンデルセンはとても繊細で傷つきやすく,他人から自分自身を拒絶されることをとても恐れていました.

アンデルセンは結局,誰とも恋愛も結婚もすることなく一生を独身で通しました.
そのためアンデルセン研究家のなかには彼がホモセクシャルだったのではないかという人もいます.けれど私はそうは思いません.アンデルセンは男女問わず人間が大好きで,だからこそ多くの恋をしたのでしょう.けれどその恋は,あたかも少年が「恋に恋する」といったような感情だったのではないでしょうか.アンデルセンは空想の世界,詩の世界でその恋への想いを膨らませすぎたのかもしれませんね.

〜旅をするアンデルセン〜

アンデルセンは大学に進むと詩やボードビル(通俗的な喜劇)を書くようになり,そうした作品からわずかでも収入が入ると,国内はもちろんのこと,その他様々なヨーロッパの国々へ旅に出ました.
「旅をすることは生きることだ」というのはアンデルセンの残した有名な言葉です.飛行機や自動車などなかった時代に,なんと計29回も外国旅行へ出ているのですから驚きです.

アンデルセンは自分の作品に悪評を下すデンマークの批評家たちの言葉にひどく傷つき,デンマークを窮屈に感じることも多々あったようです.また,失恋の傷を癒すために幾年にもわたる長い旅にでることもありました.
彼は繊細である反面,好奇心旺盛で積極的な面もあり,異国の地での経験を作品に豊かに反映させていきました.

またそういった旅を通して,アンデルセンはロマン主義時代の数々の文豪とも交流を結んでいます.ドイツでは『長靴をはいた猫』の作家ティークや『影をなくした男』の作者シャミッソーに,パリでは詩人ハイネに,イギリスでは『クリスマス・キャロル』の作者ディケンズに,といった具合です.

さらにイタリアでの経験は,アンデルセンの作家としての地位を不動とした小説『即興詩人』を生み出しました.『即興詩人』は日本でも森鴎外の翻訳でよく知られていますのでご存知の方も多いと思います.
余談ですが,私は原作以上に,鴎外の美しく格調高い日本語で訳された『即興詩人』が大好きです.

さてここで重要なことをひとつ.この『即興詩人』の執筆中に,アンデルセンはいよいよ童話を書き始めます.
次回はアンデルセンの童話の魅力と,アンデルセンの複雑な人間性についてお話ししたいと思います.

〜本当のアンデルセン〜

アンデルセンの最初の童話集はあまり好評とは言えませんでした.
それは,当時,童話が確固たる文学のジャンルとしては認められていなかったこと,また名の通った作家が童話を書くということが大変珍しいことだったからです.アンデルセン自身,最初から童話作家になりたかったわけではありませんでした.むしろ一流の文学者として名をあげたいと思っていたのです.
そのため,アンデルセンは童話を書くことを一度は中断しました.しかし,田舎に旅行した際に,コペンハーゲンでは評判が悪かったのに反して,たくさんの大人や子どもたちが彼の童話を読んでいることを知り,再び童話を書き始めたのです.

それでは,アンデルセン童話の魅力とは一体何なのでしょうか.
それはアンデルセンの複雑な人間性と深く関っているように思われます.

アンデルセンは決して誰からも好かれる人間ではありませんでした.人の都合も顧みずに自分の作品を強引に読んで聞かせたり,少しでも悪口を言われると途端に落ち込んだり・・・.いつでも皆の中心にいないと気がすまない人でした.
けれども,その反面で,天性のユーモアや機知,並外れた感受性の豊かさ等といった優れた面も持ち合わせていました.アンデルセンは他人から愛され,受け入れてもらいたかっただけなのだと,私は思います.

ところで,アンデルセンはその生涯に4つも自伝を書いています.また,『みにくいあひるの子』や『即興詩人』にも分かるように,童話や小説にもアンデルセン自身の生涯が投影されているものが数多くあります.

アンデルセンはなぜそれ程までに自分の人生に関る作品を残したのでしょうか?

それは,彼がそういった作品を書くことによって自分の存在を確認しようと試みたからではないでしょうか.またそれは自己表現の方法でもあったのだと思います.
創刊号でアンデルセン童話の魅力はその多彩さにあると述べましたが,それは彼の多様な人間性とそのまま重なるのです.つまり,その一見矛盾した複雑な人間性こそが本当のアンデルセンの総体とも言え,さらには童話の魅力にもつながっているのです.

 

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