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よもやまdansk

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『赤いくつ』

〜あらすじ〜

あるところにそれはきれいでかわいらしいカーレンという名の女の子がいました。カーレンの家は貧しかったので夏はいつも裸足で、冬は木ぐつで歩かなければなりませんでした。ある日カーレンのお母さんが亡くなりカーレンはひとりぼっちになってしまいました。
けれど幸運にもおかあさんのお葬式の時に、お金持ちの奥様に引き取られることになりました。

お金持ちの奥様のもとでカーレンは不自由なく育ちます。きれいな洋服を着て、読み書きやお裁縫を習うことさえできました。やがてカーレンも大きくなり堅信礼を受ける年齢になりました。堅信礼のためにくつを新調することなったカーレンは、くつ屋でぴかぴか光るエナメルの真っ赤なくつを見つけそれがどうしても欲しくなってしまいました。もちろん堅信礼で赤いくつをはくなんてとんでもないことでしたが、目の悪くなった奥様は色が分からずカーレンに言われるまま買ってしまったのです。

赤いくつをはいて堅信礼に臨んだカーレンは、神聖な洗礼の時もその赤いくつのことばかり考えていました。そして、次の日曜日の聖餐式にも奥様に秘密で赤いくつをはいていきました。ところが、教会の入口に立っている年寄りの兵隊がカーレンのくつをみて「なんときれいなダンスぐつじゃ!」と言うと、カーレンはじっとしていられずくつのいうままになって踊り始めたのです。やめたくとも、自分ではどうすることもできません!

やっとの思いで家に帰り、みんなでくつをぬがせそれを戸棚の中にしまいましたが、カーレンはそのくつを見ないではいられません。

そのうちにお年寄りの奥様は病気になってしまいます。けれども、カーレンは介抱もせずにあの赤いくつをはいて舞踏会へ出かけてしまうのです。すると、赤いくつは再び勝手に踊りだしカーレンを暗い森の中に連れていってしまいました。

森の中に入ると、いつの日か教会でみた年取った兵隊が座っていて、「なんときれいなダンスぐつじゃ!」とカーレンに向かって言いました。カーレンはもはやくつを脱ぐこともできず、朝から晩まで踊りつづけました。カーレンが踊りながら墓地の中へ入り教会へ向かうとそこには天使がいました。しかし、その顔は厳しく「おまえはいつまでも踊りつづけるのだ!」と言うのでした。カーレンは踊りつづけました。くつはイバラであろうが切り株であろうがどこまでもおかまいなしにカーレンを引っ張っていきます。手足はひっかかれ血が出てきます。

そうこうするうちカーレンはいつのまにか首切り役人の家の前に来ました。そして首切り役人に泣きながら、赤いくつごと自分の足を切ってもらえるようお願いします。足のなくなったカーレンは自分の罪をすっかり告白し懺悔するために教会へ向かいましたが、そのたびに赤いくつが踊りながら出てきて行けません。そこでカーレンは牧師館へ行き、女中に使ってもらえるよう頼みこみます。カーレンはよく働き、牧師さんの読む聖書にじっと耳を傾けました。
ある日の日曜日、教会には行けないカーレンが自分の小さな部屋で賛美歌の本を広げていると、突然以前に見た天使が現れました。そしてカーレンは気づくと教会の中に座っているのでした。その時、オルガンが鳴り響き、日の光が教会の窓からカーレンの場所まで流れてきました。彼女の心は日の光と喜びと平和とに満ちて張り裂け、その魂は神様のもとへと飛んでいきました。

〜解説〜

『赤いくつ』は日本でもとても有名です。
この作品はアンデルセンが堅信礼の時に、新調した皮長靴に気をとられて神を思う気持ちがかき乱されてしまったことに良心の呵責を覚えたことから生まれました。

ただ、あらすじを改めて読んでみて、この話ってこんなに残酷で悲劇的な話だったかなと首をかしげた方も多いのではないでしょうか。
カーレンが自身の死をもって初めて神から許される最後の部分などは、子供向けの童話とはほど遠い気がします。

実際、この『赤いくつ』には他のアンデルセン童話とは一味違った不気味さや残酷さ、そして主人公の孤独さが漂っているように思います。
そういった要素が読者の恐怖感を煽り、一見夢や幻想的な世界で進行しているかに見えるこの話を現実味帯びたものに仕上げているのでしょう。
そういった要素はドイツのグリム童話にも見られますね。
グリム童話の残酷性については日本でもいくつか本が出版されているので、ご存知の方も多いでしょう。

そこで今回はグリム童話とこの『赤いくつ』の類似点を中心に解説していきたいと思います。
私が注目した類似点は以下の5つです。

第一に、物語中に明確な時間と場所が設定されていないということ。
第二に、主人公以外の登場人物の名前が存在しないということ。
第三に、非現実的世界と現実的世界が同時に存在していること。
第四に、“3”という数字が意識的に用いられていること。
最後に、宗教色が濃いということ。

最初の二つは文字通りですので、説明する必要もないと思います。
第三についてですが、これは天国や地獄からの死者が物語中にたびたび登場することによって、現世と来世の境界が消滅しているという点です。
つまり物語を、夢や幻想の世界にのみ留めるのではなく、それをリアルに描き現実性を追究することによって、より読者の恐怖心をあおり現実味を帯びた作品にしているのです。それがこの作品の美点とも言えます。

次に、“3”という数字がなにを象徴するかについて説明したいと思います。
『赤いくつ』には年寄りの兵隊が3度現れる場面や、カーレンが教会へ行こうと3度試みる場面などで、3という数字が意識的に用いられています。

これはこの作品だけに限らず、アンデルセンの他の童話にもよく使われている技法です。もちろん他の国の民話や童話についても同様です。
ユング心理学では、4という数は完全や完成を象徴し、その前にある3はそこへ向かう力動的な意味を持ちます。
つまり、3という数字は完全なるものを目指す行為の象徴ということになるのです。
では、カーレンが目指したものはなんだったのでしょう。それは、もちろん万能の神です。

最後の場面を少し引用してみましょう。

その時、日の光が急に明るく輝いたかと思うと、すぐ目の前に白い衣をきた神様の天使が立っていました。それは、いつかの晩に教会の入口で見た天使でしたが、もうするどい剣は持っていませんでした。そのかわりに、バラの花をたくさんつけた美しい緑の枝を持っていました。天使がその枝で天井に触れると天井が高く上がり、枝が触れた場所には金の星がキラキラと輝きました。

神からの使いである天使が「花」や「星」を生みだすということは、神が自然の、そしてこの世の創造主であるということを意味しています。
アンデルセンにとって神とは完全性の象徴であり、そこに向かうカーレンの行為を表すために3という数字をあえて使用したのでしょう。

その神の存在は、以前に挙げた4番目のポイント(類似点)にも認めることができます。
例えばカーレンが足を切られる場面は、新約聖書の「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい」(マタ18:8)という厳しいイエスの言葉が投影しているものでしょう。

カーレンの罪は生あるうちには決して許されませんが、神の国では地上の罪を咎める者は誰もいません。
つまり、彼女は「死」によって初めて救われるのです。
そういった意味でこのお話はハッピーエンディングと言えるかもしれませんね。

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