無刀

 ここはお駒の店の前。
 昼飯どきの喧噪が終わり、夕方までの間暖簾を下ろそうと小七が出てきた。一膳飯屋の主人の格好がもう板に付いている。下ろした暖簾を一番手前の樽の上に置くと、そのままたすきと前掛けもそこへ置いた。
「お駒、そいじゃ、ちょっと行ってくるで。」
「あいよ。あんた、早う帰ってきてや。夕方からの用意もあるんやから。」
「ああ。」
と、気のない返事をすると、もう表の通りに飛び出していた。
 今日も暑いな。川面を通風に橋の上で吹かれながら、小七は思った。もうあれから半年が経つやな。結局あの晩から春川先生に会ってへん。どうしはんねやろう。あの侍と相抜けになったという話やが、どこへ行ってしもたんやろう。そやけど、おいらとお駒が所帯をもって、一膳飯屋の主人におさまっているなんて知ったら……。
 小七は、喜楽亭で浪人たちが暴れたあの一件以来、落語をしていない。もうやめてしまったわけではないが、高座に上がる気にはどうしてもなれないのである。飯屋の主人も悪くはないかもしれないなあ。小七はときどき自分に言い聞かせることがある。が、しかし……。そんな気持ちを抱いて、今日も手のすいた時間を見計らって、春川道場へ向かうのである。
 あの頃、どうしてあんなに落語に悩んでいたんだろう。落語をしなくなってから半年、小七は最近つくづくそう思う。そういえば、剣もかわったなあ。以前のようにがむしゃらに打ち込んで、どうしても勝ってやろうと思わなくなった。打たれることを気にしなくなった。そうすると不思議なことに、相手がよく見えるようになった。河添以外の者に打ち込まれることはめったにない。
 おや、春川道場の前までやって来た小七は訝しげに思った。いつもは、小七が一番早くやって来て道場を開けるのに、この日は誰か先に来て道場を開けている。道場に入ろうとすると、ぴゅっと、刀が空を斬る音がした。誰かが居合の形を使っている。しかし、これほどの音を鳴らせる者がいたか。道場に出た小七は、あっ、と叫びそうになった。春川である。
 その日の稽古は気迫のこもったものになった。春川が特に何を言ったわけではない。以前と同じように神座の前に座っているだけである。その春川に小七に以前とは違う何かを感じていた。
 やがて春川道場の筆頭師範代河添源太郎が立った。正眼に構えた河添に対し、春川の構えは無動作に木刀を突き出しただけのように感じられた。なんだ、隙だらけじゃないか、小七は思った。ヤッー。気合いもろとも凄まじい速さで河添の木刀が打ち込まれていった。次の瞬間小七は信じられなかった。春川の体はゆっくり動いたにすぎないのに、河添の木刀は空を斬っただけだった。河添はすかさず二の太刀を打ち込んだ。今度は春川の木刀はゆっくりと動いた。それは河添の木刀の動きはあまりに対照的だった。一瞬小七は春川の木刀が河添の小手のところで止まるのを見た。小七だけが見えた。しかし、河添はなおも打ち込んだ。ゆっくりと動いた春川の木刀が河添の木刀に触れた瞬間、河添の木刀は道場の隅に弾きとばされていた。
 
 その日、稽古が終わった後、小七の店の奥で主だった弟子たちが集まって、春川のためにささやかな酒宴が開かれた。その宴も半ば、次の肴を用意している小七とお駒のいる調理場に春川が現れて、ちょっとと、小七を今日は早めに閉めた店の表に呼んだ。
「長い間世話をかけたな。」
「いいえ、とんでもありまへん。先生からあんな手紙をいただいたからには、おいらにできることはなんでもやらしてもらいます。」
「で、落語のほうはどうなんだ。このまま飯屋のおやじで終わるつもりか。」
「先生にあの手紙をいただいた日に、実は、喜楽亭で……。」
「いや、そのことなら知っている。わしもあの時、おまえの落語を聞きに行っていたんでな。」
「あの時先生もおられたんで。それはお見苦しいところを……。あの後で喜楽亭でもいろいろ言われ、先生からあおの手紙をもらって、自分でもどこまで本気で落語をしたいのかわからなくなってしまったんですわ。こう、何かふっきれるまで、落語はやめておこうかと思いまして。それで、今日まできたしだいで。」
「ふうむ。」
「でも、飯屋の仕事もなかなかいいもんでっせ。はじめはいやいやだったんですが、だんだんおもしろうなってきましてね。それにこういう仕事でっさかい、いろんな人との付き合いできまして、今までしらなかった世間のことを知ることが多くて、それもまたたのしいんで。近頃なんと言ったらいいのか、落語をしていた時分とは全く世間が見えてきたようなきがします。そしたら、落語もちがったふうに見えてきましてね。つまり、その、ばかなことを言って笑わせるのが落語やないて…。そへんまでは、自分でもわかったような気がするんですが。…。
 ところで、先生、あの晩のあの侍との立合のことですが、文吉さんから、だいたいのところは聞いているのですが、どうもわからないんで。」
「真剣を使いながら、どうして引き分けになったのかということか。」
「はい、そのことで。」
「あの侍と立ち合った時、剣の捌きではわしのほうがまさっていた。しかし、どうしてももう一歩踏み込んでうてなかった。それはな、あの侍は生死を超えた何かをもっていた。あの侍にとっての正義というべきか、迷いがなかった。わしは斬ることばかりを考えていた。しかし、あの侍は生きることを考えていた。その時突然、あの侍の後ろに多くの人生が見えた。あの事件にかかわった多くの人の人生が。活人剣の意味が腑に落ちた。その時、相抜けになった。」
「相抜け。」
「わしはやっと無庵先生の言っていた剣の意味が、そして、なぜ藩の剣術指南役を辞して、大坂で町道場を開いたのか、わかったような気がした。わしは以前から、裏の長屋の大家に無庵先生の遺骨を佐賀へ届けるように頼まれていたのだが、どうしも行けなんだ。それがようやくふっきれたので行ってきたわけだ。帰りに福岡にある信吾の墓にも参ってきた。伊崎によって兄にに会い、この道場のことも話した。よろこんでくれた。」
ちょうどその時、ふたりの浪人連れが店に入ろうとした。
「すいまへん。今日はもう暖簾を下ろしてしもうたんで。」
「暖簾を下ろしたって、まだ宵の口だ。それに灯りだってついているじゃないか。」
「今日は貸し切りでして。」
「お、おまえは小七。」後ろにいた背の低い浪人が言った。
「何、小七。」小七と向かいあっていた背の高い浪人がまじまじと小七の顔を見た。
「あっ。」小七も同時に気がついた。春川道場で小七に剣の試合で負けた後、喜楽亭で暴れた浪人たちであった。
「小七、ここで会ったが百年目だ。おれはあの時もうすこしで牢に入れられそうになったのだぞ。あの借りはかえしてやろう。」
というや、背の低い浪人の鯉口はもう切られていた。
「ちょっと待て。」
 春川が言った。決して大きな声ではないが、ぴたりと浪人たちをおさえてしまった。春川はゆっくりと小七とその背の低い浪人の間に入った。背の高い浪人はいつのまにか、横によけていた。
「わしは春川道場の春川だ。おまえたち何をばかなことをしている。」
 一瞬、春川の気迫におされた浪人たちであったが、春川が丸腰とわかると再び気勢をはった。
「春川さん、あなたには関係ない。小七にちょっと用があるんだ。」
「小七はわしの剣の弟子だ。剣についてのお話ならわしが伺おう。しかし、そのようなばかげたことをするのなら、お引き取り願いたい。」
「ばかげたこととはなんだ。」
 横にいた背の高い浪人が、何か言って背の低い浪人に近づこうとした時、その背の低い浪人は春川に向かって抜き打ちに袈裟に斬った。しかし、虚しく空を斬っただけだった。つづいて、逆袈裟に斬り上げたが、これも空を斬った。すかさず、八相から三の太刀を斬ったかの思えたが、次の瞬間その浪人は多々良を踏んで、地面の倒れていた。目の前には自分の剣が刃を自分の向けて、地面にささっていた。
「お駒さん、こいつらに酒をつけてやってくれ。いいか、小七もあれから高座にあがっていない。ここで飯屋をやっているんだ。わしとてもあの晩以来旅に出て今日帰ってきたばかりだ。伊勢先生とおまえたちの関係も知っている。たまたま知り合った伊勢先生に、道場破りをするからと言って、無理についてきてもらったそうだな。」
 春川はそれだけ言うと、くるりと背を向けて、すたすた店の中へ入って行ってしまった。
「あんた、これ。」
 お駒の声に、我に返った小七は酒の載った盆を受け取ると、呆然と立っているもうひとりの背の高い浪人にそれを渡した。

 いっときほどして、小七は提灯を片手に春川を送って夜道を歩いていた。
「先生、さきほどの技は無現一刀流の無刀やないんですか。」
「ふむ、よくわかったな。」
「しかし、先生、無刀というのは相手の刀を奪い取って斬る技ではないんですか。あの時、奪った刀で、相手を斬るか、二人目を斬るかすればよかったのではないんですか。少なくとも刀を奪っておくべきだったやないですか。」
「ちがうな、小七。無刀というのは是が非でも相手の刀を取ろうとすることではない。要は斬られなければそれでよのだ。ましてや、相手が必死で取られないように握っている刀を無理に取る必要はない。相手を斬る必要もない。相手が殺意をなくせばそれでいいのだ。しかし、無刀の難しいところはその間合だ。刀をあたらないところから取ろうとしても絶対に取れない。刀がまさに自分に当たろうとする瞬間に隙ができる。そこを取る。つまり斬らして、取る。小七、落語も同じことかもしれんな。」
「ああ。」小七は思わず声が出そうになった。
「それからもうひとつ。わしはあの者たちになんの恨みもない。あの者たちを斬ったところで詮ないことよ。あの者たちの気持ちもわからんことはないが。……。誰だ!」
 春川の歩みがぴたりと止まった。小七はすぐ二、三歩前に出ると提灯で夜道を照らした。人影が提灯の薄灯りに浮かび上がった。小七はさらに前に出ようか、一瞬戸惑ったが、斬られてとるべしとつぶやくと、すすっと前に出た。
 そこには先ほどの浪人の背の高い方が立って、深々と頭を下げていた。

「今までのおいらの落語はいかに笑いを取るか、どれだけ笑わせるか、そんなことばかりを工夫してきました。でも、それも大事ですが、それだけではないのです。お客は色々な思いで落語を効きに来ているのですが、一様に言えることは、みなその時は浮き世の憂さを忘れて笑いたいのです。声を出して笑わなくても、浮き世の憂さを忘れさせてくれるそんな滑稽な話を聞きたいのです。結果として笑えばそれに超したことはない。そして、聞いた後に、また明日から生きていこうという気持ちを持てるような、そんな落語が出来ればと思っています。」
 小七は昨日春川を道場に送って行った後、ずっと考えていたことをうまく言えて、今まで溜まっていた胸の支えがおりたような心持ちであった。言い終えてみて初めて喜楽亭の亭主市兵衛の顔を見ることができた。市兵衛はいつものようににこにこしていたが、目だけは異様に光っていた。
「小七はん、あんた、浮き世のことをちっとはわかりなさったよやな。せやけど、どうやってそれを落語でやんなさる。」
「おいらもそこでずっと悩んでいたんで。今のおいらをそのまま出して落語をするしかないと思っていたんですが、でもそれだけではひとり相撲のような気がして。今のおいらをそのまま出して、客の気持ち、寄席の雰囲気をつかまなくてはならないと思うんです。それでたいしたものができなければ、おいらそれだけの野郎なんです。また修行しますよ。浮き世のことを……。」
「わかった。小楽師匠のところについて行ってあげよう。」
 市兵衛はもう立ち上がっていた。。
 小七が落語を始めると、市兵衛はにこにこして聞いていた。時には声を出して笑った。しかし、小楽は表情を変えることなく黙って聞いていた。噺は『藏丁稚』であった。小七が最後に、
「…待ちかねたア…。」と言った時、小楽はにやりと笑ってうなずいた。
 小七はその日のうちに真打ちとして高座にあがった。
  
 完

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