相抜け
道の両側の家並みはひっそりと静まりかえっている。時折駆け抜ける木枯らしを全く気にかける様子もなく二人の侍が歩いている。
「どこがよかろうか。」小ぎれいな身なりをした総髪の方の侍が言った。
「どこでも。」少しくたびれたなりをした眉間に傷のある侍が言った。
「されば、我が道場へ。」
「承知。」
二人の間でかわされた会話はそれだけであった。
ここはお駒の店。表の方で起こった騒ぎにふと春川の手紙から小七は顔をあげた。騒ぎはすぐに収まった。小七は先を読みはじめた。
わしは唯無庵先生に会いたかった。無庵先生にあの活人剣の話をもう一度聞きたかった。聞かずにはおれなかった。
大坂の町を歩き続けた。息をすることさえ苦しかった。立ち止まれば今までの自分の全てが崩れてしまいそうだった。
ようやく捜しだした無庵先生の道場は下町の外れにあった。町人か浪人相手のささやかな道場であった。あおの伊崎藩の剣術指南をしていた人の道場とはとても思えなかった。
無庵先生は病床だった。目は昔ながらに厳しかったが、口もとは穏やかだった。
「よう来てくれた。」
と言われた時の先生はようやく自分の居場所を得た人のようであった。
「先生、活人剣とは何かもう一度教えてください。」
「何かあったのだなあ。言ってみよ。」
わしは中津川で会った筒井先生のことから初めて、信吾の神だいきさつを話した。無庵先生の口元を見ると引き締まっていた。
「たぶん、それは筒井右近殿だ。信吾の父というのはその昔、わしに腕を折られた須崎殿だろう。」
と、ひとりごとのように言われた。
重苦しい沈黙があった。どこか遠くを見るような、悲しい顔をなされた。が、すぐにわしの目を真正面から見詰めて言った。
「おまえはわしに、あの侍を斬らなかったのは活人剣だからど言ってほしいのだな。どうだ。あおの侍を斬るべきだったかどうかわしにもわからぬ。だが、わしの剣の理合を聞いてなんとする。今のおまえにとってそれは活人剣でもなんでもない。ただの言い訳じゃ。春川、何の為に修行をしておるのだ。名を売る為か、道場を開く為か、それだけの為の剣など教えたつもりはない。そんな剣術ならやめろ。そんな剣なら捨ててしまえ。」
そのまま先生は眠ってしまわれた。すかさず、先生の世話をしているどこかの町家の女房が、あまり話をさせてはならぬと医者にいわれとりますと、わしを遮った。わしは先生の道場に行ってみた。神座に向かってひとりすわった。私は斬らなかったのではない、斬ろうして斬れなかっただけなのだ。斬ることのできぬ剣術など……。ふと見ると神座に軸が掛けてあった。『活人剣、兵法はひとをきるとばかりおもふはひがごと也。ひとをきるにあらず、万人をいかすのはかりごと也』わからなくなった。なにもかもわからなくなった。
それからわしは、大坂城代の試合に出ることもなく、故郷に帰るべく、大坂を出た。
夜稽古の時のように、春川の道場にはあかあかと蝋燭が灯っている。刀を左に置いてふたりの侍が道場の両端に座っている。
「得物は何にいたす。」
春川が言った。
「お主にまかす。」
眉間に傷のある侍が言った。
「では真剣で。」
「承知。」
ふたりはすばやく帯刀すると、ゆっくりと刀を抜いた。合正眼である。じり、じりと間合をつめる。剣と剣との間が一寸ほどのところまで来た時、両者とも動きが止まった。後もうひと足入れれば、一足一刀の間合である。外は小雪がちらつきはじめているというのに、ふたりの額には汗がにじみはじめた。
ぱたんと、裏のほうで何かが落ちる音がした。と、一歩踏み込んでいったのは、春川の方であった。激しく剣がなること数度、両者はすばやく間合を切った。
『強い!』
春川は思った。あの橋のたもとで切り結んだ時と比べものにならない。その強さは技術的なものではない。剣捌きなら春川の方がはるかに勝っている。何故、……。
また、何やら店先が騒々しくなってきた。時折お駒の声が聞こえる。しかし、小七はそれにかまわず手紙を読み続けた。
故郷に向かったはずのわしの足は、途中から九州に向かった。
笹部先生があの事件の後、担ぎ込まれた寺に向かった。そのころの和尚はもう亡くなっていたが、新しい和尚はあの事件の時寺にいて、よく覚えていた。わしが阿修羅像を見たいというと、どうぞと快く見せてくれた。わしは一日中それを見たが、笹部先生のように深い何かを読みとることはできなかった。寺にあった書物を読んだ。老子を読んだ。「兵は不祥の器なり。」孫子を読んだ。「兵とは生死の地。存亡の道。」書物の中の一字一句が心にしみた。「葉隠」を読んだ。その無念さがよくわかった。
故郷に帰ったわしに、父の死後家督を継いでいた兄は、
「そうかものにならなかったか。おまえは、相変わらず弱いのう。人がよすぎるのだな。まあ、たかが剣術のことだ。」
と、言ったきりだった。
そう、たかが剣術ではないか。人は剣術の為に生きているのではない。生きる為に剣術をしておるのだ。侍として、人として一番大切なことを忘れていたのではないか。無庵先生の『活人剣』を自分の言い訳にしていたのだ。あの時人を斬れなかった自分、あれがほんとうの自分の姿なのだ。人はそれを弱いと言い、人がよすぎると言うかもしれない。それを認めて、そんな自分を鍛錬することこそが剣の道なのだ。それが剣を修行するということなのだ。わしは再び剣をとった。
一年あまり経って、わしは再び大坂の無庵先生の道場を訪ねた。しかし、無庵先生はもう亡くなられたあとだった。荒れ果てた道場にしばらくたたずんでいると、あの無庵先生の世話をしていた町家の女房がやってきてわしを大家のところへ連れていった。わしはそこで無庵先生の遺言として、わしに道場を開くようにたのまれた。そこでわしはわしなりの活人剣の道場を開くことにした。
しかし、わしの剣が乗り越えなければならないものがひとつだけまだのこっていた。それは信吾を殺したあの侍だ。小七、先日わしの道場に来た三人連れの浪人を覚えておるか。あのひとりの年配の浪人を見てわしが驚いたのに気がつかなかったか。まさにあの浪人があおの時の侍だった。あおの者たちが帰った後、文吉に頼んで居場所を突き止めてもらった。
今のわしはあの侍に対して、信吾の仇を討とうなどとはおもっていはおらぬ。ただもう一度立ち合ってみたいのだ。自分の剣がほんものかどうか、それが知りたいのだ。わしはすべてを捨てて、あの侍に臨む。それだけだ。
鍋島藩蔵屋敷から漕ぎ出した舟の上。堂島川を天満へ急いでいる。
「文吉さん、急いでください。」
巧みに竿を操る文吉に、頭巾をかぶった武家づくりの女人が声をかけた。
「お夕様、いよきよ信吾様の仇が討てるのでございますね。」
と、源助が言った。
「何を言うのですか、源助。もう人が死ぬのはまっぴら。そうんらないうちにお止めするのです。相手があの桑原ならまだしも、相手は名前をわからぬ助太刀の者ではないですか。」
「しかし、信吾様を手にかけたのはあの侍だと、春川様が言っておられました。」
「このことは藩庁にも届けていないし、もちろん、大坂奉行所にも。これは単なる私闘です。あとで、春川様にどんなおとがめがあるかわかりません。」
「しかし、お夕様……。」
切り結ぶこと数度。しかし、勝負は決しかねた。切り結ぶ時は必ず春川の方から踏み込んだ。ところが次の足がどうしても踏み込めなかった。いや春川に踏み込むことを許さない何かをこの侍は持っていた。
呼吸こそは乱れてはいないものの、ふたりとも汗が額を濡らしていた。
この時ちょうど春川は、この侍の背に道場の正面を見る形になった。春川の目に『活人剣』の文字が飛び込んできた。
と、相手の侍の切っ先が動いた。一瞬、春川の剣が遅れた。が、それに構わず飛び込んでいった。次の瞬間、春川の剣が相手の喉仏のところでぴたりと止まっていた。
「何故そこで止める。」
と言ったのは、意外にも春川の方であった。
相手の侍の剣は春川の髷のところで止まっていた。
「お主こそ。」
お駒が小七のいる部屋に銚子を持って入ってきた。
「いったいどうたんや。やけに店がうるさいようやけど。」
「いえね、お糸に酔っぱらいがからんでいるのよ。いけすかん客やわ。お糸もお糸やけど。」
「相手が酔っぱらいなら、お糸は悪くないやろが。」
「ちがうんよ。うちが出ていって酔っぱらいをあしらうぐらいわけあらへん。でもね、お糸にそのぐらいしてほしいの。あの子、この店に来てもう一年。それに歳だってもう二十歳よ。そのぐらいの酔っぱらい、相手にできないようではこの商売勤まらへん。あの子はどうもすぐ自分を取り繕うくせがあるんよ。だから、ああやって酔っぱらいがよけいにからんでくるんよ。あ、また何かやってる。ちょっとすんまへん。」
『自分を取り繕う、か。』
小七は口の中でつぶやいた。
一艘の小舟が小さな舟着き場に漕ぎ寄せられた。一つの人影が待っていた。そこに三つの人影が降り立った。
「留、おのれの勘働きもたいしたもんや。よく、春川先生の居場所がわかったな。」
「文吉の親分にそう言ったもうて、うれしいですわ。」
「そんなことより…。」
「へい、こっちです。」
先頭に立つのは留である。しばらく行くと町家のはずれにそれはあった。
「春川先生の道場か。明かりがともっている。ここで待っていてください。どうなっているか、おいらが様子を見てきます。」
入りかけた文吉に、夕は後ろから、
「いいえ、一緒に行きます。いいですか、源助。」
源助は懐に忍ばせた小刀をぐっと握りしめた。
「それじゃ、こちらへ。留、お夕さまから離れたらあかんで。」
文吉は習慣的に十手を取り出した。
文吉と源助が身をかがめて行く後ろから、夕だけは平然とした体で歩いていたが、左手は胸の懐剣を押さえていた。
外から見ても道場の窓は高い。稽古を見られないようにしているためである。玄関に入っても、何も聞こえてこない。人の動く気配はない。廊下を通って、道場の入り口から文吉が中を覗いた。
狭い道場の正面に向かって座っている人の背を見た。すぐに春川であることがわかった。
ほっとして声をかけようとした時、
「文吉か。」
「へい、お夕様をお連れしました。」
春川は手入れをしていた刀を納めると四人の方に向き直った。
小七は春川の手紙の最後の部分を読んだ。
小七、わしがおまえを師範代にしなかった理由がわかるか。剣の道を極めようするなら、剣の中に自分の一生を賭けるものを見出さなくてならん。しかし、おまえにとって一生を賭けねばならぬものは剣ではなく落語のはずだ。いくら剣の腕がたってもそれはおまえの生きる道ではない。しかも、おまえは今落語でたいへん大事なところにいる。小七、おまえの師匠小楽がおまえを真打ちにしない理由がわかるか。それは今言ったことと同じことだ。落語の中に自分の一生を賭けるものを見出していないからだ。自分の全てを捨ててみよ。そうすればそこに何かが見出せるはずだ。それで見出せない時は落語を捨てよ。
わしは道場で、ただ強くなるための剣は教えなかったはずだ。自分が生きるための剣、人を活かす剣を教えてきたはずだ。おまえのこれからの落語に道場で学んだ剣が活かされるなら、それでわしは満足だ。
一番弟子のおまえにわしの今までのことを書き残しておく。これからわしはあの侍と立ち合う。その後どうなるかわしにもわからぬ。死ぬか、生きるか、剣を捨てるか、剣に生きるか。ただ、その時自分が見い出した剣に生きるのみだ。これで思い残すことはない。
さらばだ、小七。
もう暖簾をおろす時刻は過ぎているというのに、店はまだ騒々しかった。
銚子や皿が割れる音と、女の悲鳴がした。
小七が襖を開けるのと、廊下を駆けてきたお駒が、小七さんと叫んだのが同時だった。小七は何も言わず店まで素早くかけて行った。
店では酔っぱらった浪人がわけのわからないことをわめいていた。店の隅ではお糸が震えている。そのお糸へ浪人がなにやらわめきながら近づき、袖をつかもうとした。小七はとっさにその間に入った。
「どけ!おまえに用はない。その女に用がある。」
「どうか勘弁してやってください。まだ子供ですか。」
「うるさい。」
浪人は間合を切ると、刀を抜いた。居合ではない。しかし、すぐ八相から小さく袈裟に斬った。小七はお糸をかばいながら、少し身をかわしただけだった。これはとどかないと思ったからだが、それでも着物のどこかが切れたのが分かった。
次の瞬間、構え直した浪人の鼻先にお駒が立っているではないか。
「ええかげんにしてんか。」
浪人は一瞬ひるんだが、左手でお駒を突き倒した。お駒はそのまま横向きに倒されてしまった。腰掛けの樽が倒れ転がって行った。小七は頭の中がすっとからっぽになっていくのを感じた。今まで震えていた膝がぴたりと止まった。浪人は両手で刀を持ち直した瞬間、小七の手が浪人の刀の柄にとどいていた。もう間合いを切ることはできない。浪人が刀を動かした時、どうこをどうされたのか。もんどり打って、地面に叩きつけられていた。刀は小七の手に握られていた。
「春川様、仇討ちはどうなりましたでしょうか。」
お夕は春川の前に小走り来て、座るやいなや、挨拶もなしにこう尋ねた。
「信吾の仇が見つかったという手紙を見て、もうびっくりして駆けつけてきました。春川様、前にも申しましたとおり、私は仇を討とうなどと考えてもおりません。もし、まだでしたらお止めください。」
「お夕殿、心配なされぬな。もう終わった。」
「えっ、そ、それでは……。」
春川の声はおだやかであった。
「あの男とはこの道場で真剣をもって立合いましたが、お互い怪我もしておりません。お夕殿が以前言われたこと、信吾のしようとしたことは正式の仇討ちではないし、相手のほうにもそれなりの事情があったのだということ。それがしもわかってはおったのですが、どうしても自分に納得できないところがあったのです。それはそれがしが今まで修行してきた剣のことなのです。それがしの剣はこれでよかったのか。そこのところを知るためにどうしてももう一度その男と立ち合ってみたかったのです。結果はやはり斬れませんでした。そしてあの男もそれがしを斬れませんでした。あとであの浪人からあちらの事情も聞きました。」
「あの桑原の事情ですか。」
「はい、桑原が出奔した経緯も聞きました。あの酒宴の席で先に刀を抜いたのは須崎殿であったため、自ら切腹してしまったが、先になじったのは桑原だったことに本人も責任を感じて、藩にいたたまれなくなったそうです。その後浪人して、大坂にきて寺子屋を開き、妻を持ち子も生まれ、生活もようやく安定した時、信吾が現れたのです。自分はあの時責任を感じて自ら桑原の家を潰して浪人したというのにまだ自分の命をねらわれていたのです。桑原は自分の今のささやかな幸福を守りたかった。桑原は剣には自信がなかった。そこで、あの事件で同じく浪人していた伊勢利兵衛の弟、伊勢四郎に助太刀を頼んだそうです。これは正式の仇討ちではない。藩の許可もおりていない。こんなことをしても何もならないと、初めは説いて聞かせるつもりであったが、結果はあの通りのなってしまった、というのです。」
「え、伊勢殿の弟。もう人が死ぬはいやでございます。実はもしまだ立ち合っておられないのならお止めしようと思いまして急いで参ったのです。弟は死に、私は叔父の養女になりました。須崎の家のはもうなくなりました。今のあの男、いや、伊勢殿を討ったところで何もうまれません。これで安心しました。お礼の言葉もありません。」
「いいえ、こちらこそ、自分の剣にも納得できました。伊勢殿の剣は殺人剣ではなかった。二度立ち合って二度斬れなかった。しかし、これは臆したのでの、負けたのでもない。だから、相抜けになったのです。」
「人を斬る覚悟もないくせに、むやみに刀を抜くもんやない。」日頃噺家としての小七には似つかわしくない低く、ドスの利いたような声で言った。その浪人は気が抜けたようにその場に座り込んだ。さてどうしたものかと、片手に刀をもったまま半歩進んだ時、
「止めて、小七さん。」
と、小七の腰にすがりついたのは、意外にもお糸であった。
「もうよして、うちもわるかったねん。」
小七は片手にもっていた刀を横の樽に置くと、そのとなりの樽に腰掛けた。小七はただ狐につままれたように、お糸がその浪人を抱き起こし、泥を払ってやりながら、店の外へ連れ出すのを見ていた。お駒が刀をもって、その後から追いかけていった。
すぐにふたりは連れだって店に戻ってきた。
「どうしてこんなことになったか、あんた、わかってるの。」
「……。」
「あんた、あのお侍そんな好きじゃないんでしょ。だのにどうしてあんなに愛想をするの。そりゃ、うちだって、客商売だから愛想するわよ。でもね、あんたのは違うのようね。愛想というのはね、お互いにどこかこれが愛想だとわかっててするのよ。でもね、あんたの愛想はね、自分のこころの奥を知られるのが恐ろしいから、本心のふりをするのよ。」
「そんな器用なまねできまへん。」
「なにもあんたの愛想の仕方がどうこう言ってるんやあらへんの。」
「これは愛想なんですよ、とわかるような愛想なんて、そんなことお客はんに失礼やありまへんか。」
「本心でもないのに本心のようなふりをする方がよっぽど失礼やないの。」
「そんなの。心なんて誰にでも見せられるもんじゃあらしまへん。」
「それやったら、見せられるところまで見せなはれ。」
小七はすっと立ち上がり、奥の座敷にって春川の手紙を懐に入れると、そのまま裏口から出て行った。
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