真剣

 喜楽亭の奥桟敷で初老の町人風の男がふたり、目立たぬように座って、何やらぼそぼそ話している。
「なかなかうまくなったやないですか。ふた月ほど前とは大違いや。そろそろ真打ちにして、真打ちをやらしたっても、いいんとちゃいますか。」
「いやいや、まだやな。」
「また、例の小楽師匠の十八番ですか。」と、話しかけた方の男はにやりとした。「でも、あのやり方はすこし厳しすぎまへんか。これで、充分ですよ。あの籠の担ぎようなんて、なかなかできるものやおまへん。客もあんなに笑ってるやありまへんか。」
「うん、なるほど喜楽亭はんの言うとおりや。せやけど、あとひとつ足りないものがありますねん。それができれば、あいつは、ほんとうの真打ちをやれるんやけどな。あいつには、それがわかる素質があるはずや。」
「小楽師匠が小七はんに望むそれっていうのは、…」
と、喜楽亭の主人市兵衛が言いかけた時、下の桟敷がにわかに騒々しくなった。
 桟敷の隅で誰かが叫んでいる。その一角だけ人がいなくなった。そのなかに浪人風の侍がふたり。長身の侍と小柄な侍。その内の小柄な侍の方がなにやら叫んでいる。舞台では、小七が相変わらず落語を続けているが、客席はしだいにしらけてきた。
「おい、誰かおらへんのか。棋助!棋助はおらへんか。」
 喜楽亭の亭主市兵衛が出入り口の方へ叫んだ。
「へい、旦那はん。」
「あれや、何してんねん。そうそうにひきとってもらいなはれ。」
「へい。」
 棋助と若い衆が二、三人、走って行くの見えた。棋助がしきりに何か言って、頭をさげている。と、突然さきほどから叫んでいたほうの小柄な男が、
「おまえではわからん。亭主をよべ。」
と叫んでいる。
 その侍は棋助を鞘でこずいた。棋助がよろめいたのを見た若い衆が、三人、その侍に飛びかかった。しかし、あっという間に、その侍にふたりとも、鞘と柄で当て身を入れられてしまった。三人目の腕がねじ上げられた時、その侍の動きがとまった。右肘をだれかに掴まれて動けなくなってしまったのだ。小七である。ただ単に右肘を掴んでいるのではない。ちゃんとツボを親指と人差指でおさえている。小七はそのままの状態で、しきり頭をさげて、なにやら言っている。まわりの客たちが騒いでいるので、小円や市兵衛の耳には入らない。
 その侍が若い衆を話すと同時に、小七も手を離した。その刹那、小七は大きく飛びさがった。侍が鯉口に手をかけたからである。しかし、侍は抜き打ちをせずに、ゆっくりと刀を抜き、小七の眉間に切っ先をつけた。
 あれほど騒々しかった桟敷が、水を打ったように静かになった。蝋燭のじりじりいう音まで聞こえてきた。客たちも喜楽亭の芸人たちも雇い人たちも、どうなることかと、固唾をのんで見守った。
 侍はじりっ、じりっと間合いを詰めた。その度に、小七はじりっ、じりっとさがって行く。
「どうした。木刀試合と真剣勝負では、全く違うだろう。剣はな、真剣勝負に勝たなければ意味はないんだ。これがほんものの剣だ。」
言い終わるや、その侍の足がすっと動くと同時に、小七を袈裟に斬った。小七は思わず飛びさがった。微かに肩に血がにじんだ。しかし、痛みなど感じる暇はない。すぐに胴を払ってきた。小七はまた飛びさがった。木刀なら相手が踏み込んで来る時に、自分が飛び込んで、木刀を制することぐらいはできたはずである。なぜか、小七は白刃の下をくぐって飛び込もうとはしなかった。いや、できなかったのかもしれない。三の太刀、四の太刀が襲ってきた。かろうじて避けたが、遂に転倒してしまった。片膝をついて小七は、もはやこれまでと、振り向いた。その時、五の太刀を振りかぶった侍を後ろから、誰かが羽交い締めにした。その羽交い締めにした腕の先から十手が見えた。
「先手や。こんなところで刀を振り回すなんて、なんちゅうやつや。はよう、小七はん、こいつの刀取り上げたって。」
 あ、文吉。その声に、我に返った小七であったが、それでもすぐには体が出て行こうとしない。文吉は羽交い締めのまま、投げ飛ばされようとしている。文吉と侍は、もつれ合いながら、どっと倒れ込んだ。侍が起きあがろうとした時、はやくも文吉は、十手を構えたまま、その侍に体当たりをしていった。小七もあわてて、侍の刀をもっている腕を手刀叩いた。刀が落ちると、文吉は、いつの間にか、現れた文吉の弟分の溜と二人で、ようやく押さえつけた。
 文吉が手際よくその侍を縛り上げた時には、もう一人の長身の侍は姿を消していた。いつその長身の侍がいなくなったのかということ、そして、それを追うようにして、頭巾をかぶった侍が出て行ったことを、文吉以外誰も気がつかなかった。
 さきほど姿を消した長身の侍は、日がもうとっぷり暮れたために、いよいよ活気づいた町など、まったく目にはいらないように、足早に歩いていく。頭巾の男も一定の距離をおいてついて行く。人混みにまぎれて見失っても、前をいく長身の侍の行くところがわかっているかのように、すぐに見つけ出してつけて行く。今とちがって、町並みがとぎれると、すぐそこは、人通りもまばらな田舎道になる。さきほどの長身の侍はその田舎道をどんどん歩いていく。とその向こうに、旅籠の集まっている町並みが見えた。あの長身の侍がその町並みを目指していくのを見届けると、頭巾の侍は、とある橋のたもとの木の後ろに身を隠した。
 しばらくすると、さきほどの長身の侍をつれた四十がらみの侍が、足早に橋を渡ってきた。その時、頭巾の侍がすっとふたりの前に現れた。
「われらは道を急ぎまする。そこをどいてくだされ。」
「お久しぶりでござるな。」
 頭巾の侍はおもむろに頭巾をとった。
「おお、これは昼間の春川道場の春川先生ではありませんか。して、今はなにか。拙者、急用があって出かけますところ。何かあれば後日、またお伺いいたします。」
「まだお気づきになりませぬか。今は総髪にしておるから、面変わりしたかもしれん。しかし、お主は忘れても、わしは、お主の左の眉の刀傷は忘れない。」
「はて、何のことやら。」
「ちょうどこのような所であったろうか。あの時は、今と反対に、わしが橋を渡りきったところを…。」
「もしやして、五年前の…。」
「やっと、思い出したか。」
 春川兵部はすでに鯉口を切っていた。

 名古屋から大坂に戻った春川は、以前修行していた沢木道場で、再び修行を始めていた。
 久ぶりに春川の剣を見た沢木道場の門弟たちは、その剣の冴えに目を見張った。
 春川は十八歳の時、伊崎藩の剣術指南役笹部無庵の紹介状を持って、この無現一刀流の沢木道場に入門した。この道場には、町奉行所の与力や同心の子弟たちや蔵屋敷の武士の子弟たちが稽古していた。入門した当時は、全く目立たない存在であった。故郷の藩では将来を嘱望されたのだが、世間は広かった。大坂においては、中堅どころの道場である沢木道場で、しかも序列で言えば、後から数えた方がはやかった。それでも、春川はがんばった。同じ時期に入ったものたちが、稽古の激しさに耐えきれず辞めていくなかで、春川は歯をくいしばってがんばった。つらくて仕方がないことも、何度もあったが、不思議と辞めようとは思わなかった。やがて、三年が過ぎた頃、ようやく頭角をあらわし始めた。後は早かった。やがて師範代の末席につくようになった。
 当時、武家で跡を継げない次男、三男は、養子の口を見つけるか、学問や剣術で身を立てるしかなかった。春川のように、剣術で身を立てようとするなら、師範代では充分ではなかった。武者修行をして、それ以上の実力をつける必要があった。だから、春川は、沢木から武者修行に出てはどうかと言われた時、当然のような気がしたのだった。また、沢木道場での稽古に何か物足りなさを感じていた。与力や同心の子弟たちは将来の仕事の上で必要であるための稽古であって、剣で身を立てようとはしていなかった。子弟たちの中には次男や三男で跡を継げないものもいた。しかし、大坂の与力や同心たちは町人や近隣の農民と親戚関係のもの多く、比較的裕福であったため、次男や三男たちも剣術で身を立てようとするものはいなかった。それは当然剣術にも現れていた。
 沢木は、春川が武者修行から戻ってきて、師範の技量があると認めれば、大坂城代主催の剣術試合に、沢木道場の代表として、出させると言った。試合に勝てば、大坂の剣界にその名をとどろかせ、道場を構えることも容易になる。負けたとしても、故郷に帰れば、大坂城代の試合に出たというだけで、門人はいくらでも集まって来るだろう。
 春川兵部は武者修行の旅に出た。
 東海道を武者修行を続けながら、江戸に向かった。江戸で数年修行した後、今度は中山道を名古屋に向かった。その途中で、杖術に出会い、多くのものを得た。
 沢木道場にもどった春川は、数ヶ月後に迫った大坂城代主催の剣術試合のための稽古を再び始めた。その春川の稽古を見て、沢木道場の門弟たちはおどろいたのである。わずか数年の武者修行でこれほどまでに上達した者を見たことがなかったからである。
 春川は決して自分から打ち込もうとはしなかった。春川と稽古したものはみな、同様にこのようなことを言った。春川の構えは隙だらけのようで、それでいて打ち込めない。こちらが剣気をおこして打ち込もうとすると、もうその時には春川の剣がどこからを打っている。
 沢木道場に戻って数日経ったある日、春川は沢木の居間によばれた。
「春川、相当腕を上げたな。小池さんから書状がきている。名古屋では大分苦しんだようだな。御城代の試合が終わったら、もう教えることはないだろう。」
「といわれますと…。」
「まあ、免許皆伝とはいかんが、目録はいけるだろう。」
「ほ、ほんとうですか、先生…。」
 春川の胸に熱いものがこみ上げてきて、何も言えなくなった。沢木もこういう話は苦手とみえて、話題を変えた。
「ところで、春川、無庵先生が大坂におられるのを知っているか。」
「無庵先生が…。いいえ。私が大坂へ出てからすぐ、伊崎にあった道場をたとまれ、伊崎藩の剣術指南役も辞されたとだけ聞いております。その間の詳しい事情もその後の消息も私は知りません。私が剣の手ほどきをうけた先生ですし、もう大分の高齢なので、心配していたのですが。確か、ご家族はおられなかったように思うのですが。」
「わしも、無庵先生から手ほどきをうけたので、気にしてはいたのだが、なんでも天満のほうにおられるらしい。詳しくは知らん。」
 その時、廊下から声がかかった。
「失礼します。先生、春川さんは今こちらにおられますか。」
「なんだ、春川ならおるが。」
「春川さんに客人です。」
「おおそうか。それでは、春川、行ってよい。無庵先生のこと、何かわかれば、知らせよう。」
「はい、是非お願いします。」
 春川は席をたった。
 道場の玄関には、旅装束の若者が経っていた。
「春川さん、お久ぶりです。」
「おお、これは信吾ではないか。どうしたのだ。筒井先生に何かあったのか。」
「いいえ、実は春川さん、いいえ、春川先生にお願いがあって参りました。」
「まあ、いいからあがって、おれの部屋に来い、おい、誰か、濯ぎをもって来てくれ。」
 信吾の話というのは、春川の弟子にしてくれと言うのであった。ふつうの侍の子なら、剣術をやるところを自分はずっと杖術をやってきた。剣も一応は知っているが、それはあくまで杖術の修行をするためのものにすぎない。一人前の侍になるには、剣術のほうもしっかりしておきたい。そこで是非、春川先生について剣の修行をしたい。そのことについては、筒井先生にもお許しを得ているということであった。
 しかし、春川にしても、自分もまだ修行中の身であるし、まして道場を構えているわけでもない。しいて言うなら、この沢木道場の門弟になるのが、一番よいのではないか。
 それに対して信吾は、実は夕方からしか時間がないので、たとえ門弟になったとしても、稽古が充分できるかどうか、心配である。それよりも、その時間に春川先生にしっかり教えてもらったほうがいいのではないかと思ったというのである。こんな我が儘なことを言う者は誰も弟子にはしてくれないと思い、春川先生ならとお願いしに来たのだといった。
 そんな我が儘な弟子なら、おれもお断りだと春川が言うと、信吾は春川の目をじっと見詰めた。自分のはない何かを感じた。春川はそこに何か断りきれぬものを感じた。
 春川は沢木に事情を話し、道場の稽古が終わった後、春川が個人的に試合のための稽古をするという形で、特別に許しを得た。さっそくその日から、稽古が始まった。剣の基礎は充分できていた。ただ、いつも杖を相手にしていたため、はじめ間合いが、なかなかつかめなかった。しかし、それもすぐ慣れ、めきめき上達しはじめた。剣をもった時の信吾の目は、杖をもっていた時の目とは全く違っていた。春川はその中に、あの自分を見詰めたときに感じたものと同じものを感じた。一切の妥協をゆるさないもの。一太刀、一太刀に命を懸けているような、すさまじい殺気を感じた。技量では格段に勝る春川であったが、その気迫にたじたじになることも、しばしばあった。
 信吾が昼間何をしているのか。詳しくは語らなかったが、信吾の父が仕えていたどこかの藩の仕事を手伝っているのだとだけ言った。ときどき稽古を休むことがあった。そんな時は、源助という年老いた下男が、今日若旦那は仕事で来られませんと言いにきた。ということは、信吾の家は以前は相当なものであったが、今は浪人ということかと、春川は思ったぐらいで、それ以上深く聞こうとはしなかった。春川自身来るべき試合に備えての稽古で、それどころではなかった。とにかく試合が終わってから聞こうと思っていた。
 春川も信吾を稽古台にすさまじい稽古をした。信吾もまけてはいない。春川にとってこの試合が今後の自分の人生を左右するのだから当然である。しかし、何故信吾はそこまで、とふと考えることがあったが。二ヶ月も経つと信吾は沢木道場の中堅ぐらいの実力を備えるようになっていた。
 そんなある日のこと。春川は他の門弟たちが稽古を終えた後、ひとり残って信吾の来るのを素振りをしながら待っていた。しかし、いつまで経っても信吾は現れなかった。来ない時はいつも、昼間の内に源助が知らせに来るのだが、その日は源助も来なかった。このままでは日が暮れてしまって、稽古ができなくなってしまう。
「もし、すみません。誰かおられませんか。」この道場には似つかわしくない若い女の声である。「もし、春川先生はこちらにおいででしょうか。」
 その声に春川は自ら玄関まで出た。そこには武家造りの女人が、肩で息をして立っていた。外には、籠が待っている。
「私は黒田藩士大坂蔵屋敷詰めの富田十兵衛の姪、いえ、というよりも、須崎信吾の姉の夕と申します。」
「おお、これは信吾の姉君でござるか。拙者が春川でござる。」
 二十歳前後であろうか。目鼻立ちのはっきりした、まだ眉も落としていない、お歯黒もつけていない女人であった。それにしても、この時代、二十歳前後の未婚の女人が、一人で、しかも、剣術道場へやってくるというのは、尋常ではない。
「信吾に何かありましたか。」
「春川先生、すぐ来て下さい。わけは途中で。源助、春川先生をご案内して。」
 春川はその時はじめて、玄関の外にうつ向いて立っている源助に気がついた。
 どうぞ、お乗りになってくださいまし、と言う夕を制して、夕を籠に乗せ、春川はその横を急ぎ足に歩いた。
「実は、弟は今晩父の仇討ちをしようとしているのでございます。」
「仇討ちを。」
 夕の話によれば、須崎信吾の父は、黒田藩士で徒歩頭であった。剣の腕がたった。ところがある日、たまたま福岡にやってきた鍋島藩士と試合をしたのだが、右腕の骨を砕かれ、負けてしまった。負けたのは信吾の父だけではなかった。中には死んでしまった者もいた。この鍋島藩士は、不穏な気配を感じて、その夜の内に福岡を出て、唐津藩に逃げ込もうとした。すぐに知れるところとなり、数名の黒田藩士が追ったが、その中に、死んだ者の兄で、杖術師範がいた。この者が国境で追いつき、仇を討った。両藩は、これが幕府に知れるのをおそれ、内々にすませてしまった。ところが、黒田藩と鍋島藩とは弁財岳の境界の訴訟以来、仲が悪かった。鍋島藩に対して、恨みをもっている者もいる。桑原勘左衛門もその一人で、ある酒の席で、試合に負けたことで父をなじった。その席には信吾の父に味方してくれる者も何人かいたのであるが、桑原に同調する者との間で言い合いになり、ついに、両者の間で刃傷沙汰になってしまった。信吾の父は、一度右腕を砕かれていたため、うまく太刀を振ることができなかった。死人はでなかったが、信吾の父は、そのことが無念であったのか、喧嘩の原因が自分にあるとして、その夜、自ら切腹した。酒の席で信吾の父をなじった桑原はそのまま出奔して、以後行方がわからなくなってしまった。須崎の家は取りつぶされ、まだ幼かった夕と信吾は、母とともに、母の兄である冨田十兵衛のもとに引き取られた。母はまもなく死んでしまった。その後、冨田十兵衛が、大坂蔵屋敷詰めになったので、それにしたがって大坂に出てきた。弟は、亡き父の遺言で、剣術ではなく、杖術の修行をするために、同じく元黒田藩士筒井右近のもとにやられたのであった。しかし、弟は、父の死の経緯を知るにおよんで、再び須崎家を再興しようと考え、元下男である源助に父の仇である桑原勘左衛門の行方を捜させていた。それがどうも、大坂にいるらしいということがわかり、春川をたよって大坂に出てきた。その仇討ちのために、春川から剣を学んでいたのである。そして、今日、ついに桑原の居場所がわかったので、仇討ちに出かけるという知らせをもって、この源助が自分のところに来たことで、初めてわかった。父の遺言では、仇討ちをするにはおよばぬ。須崎家は再興さずともよい。幸い富田十兵衛には、子がおらぬゆえ、養子になって、富田の家を継ぐようにということだった。富田の方でも、それを望んでいる。だから、無益な争いはやめるように、春川に頼みに来たのである。桑原の剣の腕はたいしたことはないのだが、仇討ちを予想して、助太刀をたのいんでいると思われる。なにとぞ、弟を止めてください、と言うことであった。
 春川は、仇討ちが行われる場所を聞くと、一人駆けだした。
 考えてみれば、春川は自分の剣のことで、いつも頭がいっぱいで、信吾とはほとんど身の上話などしたことがなかった。剣の修行のために、中津川から大坂まで出てくるなど、おかしな話だ。ましてや、自分のような者について剣の修行をするなんて、筒井先生に言えば、いい道場はいくらでも紹介してくれたろうに。そうか、筒井先生のもとを無断で、飛び出してきたのかもしれない。春川は自分のばかさ加減が、つくづくいやになった。
 仇討ちの行われる河原は、今渡っている橋の向こうの土手を、右に曲がって、川下に行けばいいはずだ。
 そういえば、稽古の時のあの殺気、尋常のものではなかった。あの稽古に見せる気迫は、おれの試合に懸ける意気込み以上のものだった…。あっ、夕殿の言う杖術師範というのは、もしかして、…。
 突然、細い冷たい鉄の棒を、左方から胸にかけて、押しつけられたように感じた。凄まじい殺気。そうとわかった時には、春川の体は数メートル跳躍して、左膝をついて、鍔に手をかけて、自分のいたとろを刀が、空を切る音を聞いていた。鯉口を切る間に、二の太刀が迫っている。身をかわすだけで精一杯であった。三の太刀が打ち込まれてくる刹那、抜き打ちをした。刀の激しくぶつかる音がして、相手は間合いを切った。
 春川はゆっくり立ち上がり、青眼に構えた。相手の左手に、今春川が渡って来た橋が見える。どうやら道に立っている。今自分のいるところは、道と藪の間の空き地か。そうすると、おれのすぐ後ろは藪。逃げ道はない。しかし、何故。何者。
「人違いではないか。それがしは、…」
と、春川が言い終わらない内に、剣が裂帛の気迫で打ち込まれてきた。しかし、鍛え抜かれた無現一刀流の剣は、まるで生き物のように、相手の剣気を飲み込んで動いた。春川の剣は相手の剣をはねのけ、まっすぐ相手の頭上に吸い込まれていった。まさに相手の頭を叩き割ろうとした瞬間、春川は心の中の何かが動いたのを感じた。春川の剣は相手の左眉を浅く斬った。血が一筋、鼻と頬の間に流れ落ちた。
「拙者、春川兵部と申す。人に恨みを買う覚えはない。」
 その声に、相手の目から殺気が消えていった。間違いに気が付いたようだ。春川より、五、六歳上であろうか。風体から、剣を商売にしている浪人者のようだ。
「このような時刻に、このような場所を走っておられたものだから、てっきり。人違いでござった。申し訳ない。」  この浪人は、深々と頭をさげた。
「拙者、道を急いでおる。お主にかまっている暇はない。そうそうに立ち去られよう。」
「かたじけない。」
 その浪人は、橋とは反対の道を小走りに立ち去った。
 春川は刀を修め、土手を川下の方へ行こうとした時、左足首に激痛を感じた。一の太刀をかわした時、痛めたようだ。これでは走れない。
 痛い足を引き摺りながら、土手の上から、仇討ちの行われていると、おぼしき当たりを見た時、その向こうでは、二人の侍が斬り合っていた。春川が川上から土手をおりていくと、川下の方から誰かが駆けてくるのが、小さく見えた。やがて、三人がもつれ合った。春川が半分ほどの距離を行く間に一人が倒れた。二人は春川に背を向けて、倒れた一人を見ていた。春川は倒れているのが、信吾であるのをはっきり認めた。
「信吾!」
 春川は思わず声をあげた。振り向いた二人の侍との距離は二、三十メートルほどになっていた。二人は、すでに抜刀している春川と視線を合わすと、一人が叫んだ。
「これは、正式な仇討ちではない。しかし、命をねらわれた以上、自分の身は守らなければならない。」
 春川は、それにかまわず、刀を八相に構えると、二人に迫った。春川はそのとき、一人の侍の左の眉に血がにじんでいるのを見た。春川の凄まじい形相におされて、刀を手に持ったまま、二人の侍は走り去った。
 春川は追うのをあきらめ、信吾を抱き起こした。しかし、信吾は事切れていた。
 『あの時、あいつを斬っていれば。』
 春川は、濡れた頬に川風を冷たく感じていた。

  小七が、文吉からわたされた春川の手紙には、このようなことが書いてあった。あおの騒ぎの後、文吉は小七に、春川先生がもう道場にはしばらく戻らないかもしれないとおっしゃっていましたよ、と言いながら、この手紙を渡したのだ。すぐに小七は楽屋でその手紙を読み始めた。そして、今、信吾が死ぬところまで読んだ時、旦那様が呼んでいるので、ちょっと来てくださいと棋助が呼びに来た。
 喜楽亭の亭主、市兵衛は、奥の来客用の座敷で待っていた。小七が廊下で声をかけると、お入りといつもと同じ、穏和な声でいった。四十をすこし越えたぐらいであろうか。少し小太りで、いつもにこにこしているところが、まさに喜楽亭の亭主と言う感じだ。
「今日はほんまにすいまへんでした。」
 小七は頭を下げた。
「いやいや、かまへん。こういう事は、こういう商売をしていると、まあありますよってに。うちの若い衆を助けてもうたことや、文吉はんといっしょに、あの侍を取り押さえてもうたことやらで、こっちがお礼をいわなあかんことや。なによりも、お客様に怪我がなくて、ほんまよかったわ。まずは言っておくよ。すまんことやったな。ところで、今来てもうたんは、その事だけやないんや。実は今日、おまえはんの師匠の小楽はんとしっしょに、奥桟敷でおまえはんの高座を見せてもうたんやが、わたしはね、そろそろ小七はんを真打ちにしても、ええんやないかって、言うたんや。そしたら、小楽はんがね、わたしもそう思うてんねんけど、ひとつだけ気になるところがある、と言いはるんや。わたしはその時、よくわからへんかった。しかし、師匠というものは弟子をよくみてるね。わたしは、あの騒ぎがあってよくわかったよ。ひとつ聞きたいねんけど、おまえはん、ほんとうに心から、芸人になりたいんか。」
 市兵衛の目がきらりと光った。
「え、ええ、そりゃ。」
「わたしには、そうは見えへんかった。ほな、芸人てなんやねん。落語家てなんやねん。何のためにおんねん。それにこたえられるか。そこが納得できたら、わたしは小楽はんが反対しようが、おまえはんを真打ちに推薦するよ。」
「……」
「ところで、あの背の低い方の侍、なんて言ってたか、聞こえてましたか。何があったかしりまへんが、『ずるいやつや』とか『ひきょうなやつや』とか言ってましたで。あそこまで、怒らしてしもたら、あきまへんな。」 

   小七は春川の手紙を懐に、本当の芸人、芸人ってなんやねん、落語家ってなんやねんとふぶやきながら、お駒の店にやってきた。、座敷をかりるで、とお駒の返事も聞かずに、ずかずか上がってしまった。お駒も承知したもので、すぐに銚子と肴をもって来た。しかし、小七がむずかしい顔をして、手紙を読んでいるのを見ると、何も言わずに障子を閉めて戻って行った。
小七は、さっきから同じ所ばかり読んでいる。それは、信吾を死なせてしまった事に対する春川の後悔の念の書かれているところであった。
 春川の手紙には、こう書かれてあった。信吾を殺したのはまぎれもなく、私を橋のところで襲った侍であった。私があの時、迷わず剣を打ち込んでいたら、と後悔した。何故、あの時躊躇したのか。私の中のある物が、人を殺すということを許さなかった。いや、殺せなかったのだ。あの時、無現一刀流の理合に自分を任せていたはずなのに。私はその時どうしてもその理由がわからなかった。人を殺せない自分が、はたして一流の剣客になれるのだろうか。剣客になる資格はないのではないか。しかも、そのために自分のたった一人の弟子を死なせてしまった。そして、信吾のまわりの多くの人を悲しませてしまった。自分のしてきた剣の修行とはいったい何だったのだ。剣とはいったい何なんだ。所詮人殺しの道具でしかなかったのか。
 小七は手紙に目を落としたままつぶやいた。そう、おれはあの時こわかったんだ。自分のしたことに、納得できない自分がいたんだ。
 そのころ文吉は、あの暴れた侍を留といっしょに、近くの番屋に放り込むと、春川の後を追った。侍たちの旅籠はわかっていた。春川が待ち伏せている橋も聞いている。町方だけあって、夜道も苦もなく走っていた。件の橋のところまで来た時、その草むらの中に、一人の男がうずくまっているのに気づいた。喜楽亭にいたもう一人の長身の侍である。しかし、そこには、春川の姿も左眉に傷のある侍もそこにはいなかった。
「あんたのとこの先生と、うちの春川先生はどにいったんや。」
「おれは知らん。ついて来るなと言われた。」
 春川はどこへ行ったのか。文吉は川から吹く、小雪混じりの夜風に吹かれながら、途方にくれていた。

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