後の先

 汗で湿気を含んだ道衣をえいっと掛け声をかけて着ても、その冷たさは肌をさした。あれから、落語の師匠である小楽のところへは行っていない。米蔵師匠のところへ行ったり、歌舞伎や浄瑠璃を聞きに行ったりして忙しい。それでいて、寄席にも出ている。その間合いを縫って、今日も小七は剣術の春川道場に通っているからたいへんだ。しかし、三日も木刀を握らないと、体がむずむずしてきて、どうしようもないのである。
 今日の稽古は十人ほどである。いつもこのぐらいである。実は道場も狭いので、このくらいがちょうどいいのである。この中で侍は二、三人ほどしかいない。しかも、たいていが浪人の子である。このような町道場に禄をもっている武家がくるはずもないのであるが。
 小七が道場に入ると、二、三人のものが木刀をもって駆け寄ってきた。小七に稽古をつけてもらうためである。小七はこの道場の一番の古株であり、また腕も一番立った。
 道場に入ると、落語のことやその他一切のことを忘れてしまうのが常であった。しかし、最近は以前のようにそういうわけにはいかなくなっていた。落語が目に見えて下手になっている。自分でもよくわかる。自分でどうにかしようとするのだが、そう思えば思うほどだめなのだ。寄席に出ても以前ほど客は笑わない。米蔵師匠のところへ行くと、自分ではすらすらできたと思っていたものが全然できない。自信を持ってしたものでも、あそこが悪い、ここが悪いと言われる。落語自体が全然おもしろくなくなってきた。
 道場に来た時ぐらい、剣術のことだけに打ち込もうとするのだが、半月ほど前の例の春川との立合いが思い起こされる。あんなにあっけなく負けてしまった自分の剣を思うたびに、ますます自分の剣術にも自信を失っていた。剣とはこんなにも弱いものなのか。
 先生もあっさり負けたと言った。だのに先生は剣術を続けている。剣を捨てて杖をとろうなどとしない。後にも先にも、先生が杖をもっているのを見たのは、あの時きりだ。こんなにも弱い剣をなぜ先生は続けているんだ。あんなに杖が使えるのなら、剣などいらないではないか。そんな思いが稽古の間も頭に浮かんでしかたがなかった。
 ふと気がつくと、木刀が頭の上ですっととまった。
「小七さん、どうかしてますよ。」先手の親分で文吉という男が言った。
 小七は木刀を置くと、道場の上座にすわっている春川のところへ行った。小七はあれ以来春川と話をほとんどしていない。もっとも小七の方も忙しくて、稽古が終わればすぐ寄席に行ったり、米蔵師匠のところへいかなければならなかったからだが。小七が近づいて来るのを春川はじっと見ていたが、小七が前まで来ると、奥へ来いと言って、さっさと先に入ってしまった。

 中山道を重い足取りで行く春川兵部の姿があった。春川は中山道を帰りながら、どうしてああもあっけなく負けてしまったのかと、考えつづけた。名古屋まで来た時、そこから先にはもう行けなくなってしまった。名古屋に来れば、いつでもやっかいになる小池道場で、あの杖を破るための思案を重ねることにした。
 小池道場でも、師範たちの間に交じってひけをとらない春川兵部である。その彼がこともあろうに、あのようにいとも簡単に杖に負けてしまったとは誰にもいえない。小池道場の門弟たちを相手に稽古しながら、杖を破る策を練った。道場の稽古が終わった後も、春川はひとり幻の杖に向かって稽古した。
 まず、杖の間合いに入るにはどうしたらよいか。さらに剣の間合いに入るにはもう一歩踏み込まなければならない。そこまでそう易々と、入れてくれるものではない。そこまで入ったとしても、目の前にある杖の端と反対側の端が、いつどの方角から現れるかわからなかった。春川の得意技は相手の気が充分にみなぎる前に、気迫で相手を押し込んで、そのまま一気に打ち込むのである。しかし、相手が杖では、間合いが遠すぎて一気に打ち込めない。
 杖を破る策を見いだせないまま、春川は小池道場で悶々とした日々を過ごした。眠られぬ夜、布団の中で春川は自分の剣をふりかえってみた。春川の家は上方の近くにある小藩の要職を勤める身分であった。しかし、春川兵部は次男であったため、家を継ぐことはできなかった。何か別のもので身を立てなければならなかった。幸い春川は剣の腕がたった。ずばぬけてうまいというのではないけれど、なかなかいい筋をしていると、その当時の剣術師範が言った。それがもとでか、自分でもわからないが、いつのまにか剣で身を立てようと言う気になっていた。ゆくゆくは故郷の町に道場でも開いて暮らしていこうと考えていた。
そのためには強い剣を身につけなければならない。春川は勝つために剣を磨いた。何よりも強い剣、それが春川の目標だった。何でも打ち込まずにはおれない性格のため、自分の全生活を剣の修行のために捧げたといっても過言ではなかった。上方だけではあきたらず、武者修行をしながら江戸まで行った。勿論、春川より強い剣士はいくらでもいる。しかし、故郷の町で道場を開くくらいの腕にはなっていた。江戸からの帰り、そろそろ故郷で父に金をださせて、道場でも開こう。そんなことを考えながら、中山道を歩いていたのだった。そのおれが、と春川は思った。十五の時から本格的に剣を人以上に修行し、江戸でも上方でも、剣術界ではある程度名も知られたこのおれが、ああもあっさり負けるとは。
 
 小池道場の主小池彦三郎は無現一刀流の達人として通っている。その彦三郎が高弟のみを集めて、無現一刀流の形を全部見せると言う。こんなことめったにあることではない。春川も特別その場に出ることが許された。
 その日道場は朝から異様な雰囲気に包まれていた。やがて、小池彦三郎が道場に現れた。道場に住み込んでいる内弟子たちが数人、道場の外に見張りに出た。部外者に見られないためである。予め、打ち合わせでもあったのだろう。一番弟子の浜田稔之介が二本の木刀をもって、小池彦三郎に近づき、一本を渡し、自らも一本もった。普通の形稽古なら、弟子が仕太刀、つまり、勝つ方をするのだが、この時はなぜか小池が仕太刀をおこなった。
 小池は五十前後の小柄な男である。その小池が剣をもって立つと、何倍も大きくなって見えた。それでいて、ひとつの気負いもない。まさにただ立っているようにしか見えない。形そのものは、春川もよく知っていた。しかし、その日は全く違って見えた。浜田の剣がするどく動くその瞬間、小池の剣がすっと動く。それだけで勝負はついている。何本目であったろうか。春川ははっとした。思わず声をあげそうになった。頭のあたりから、何かがぽたりと落ちて、腹にたまったように感じた。
 
春川兵部はその日のうちに、木曽路を中津川にいそいだ。日がとっぷり暮れても歩き続けた。次の日の夕刻、ようやく中津川の件の老人の隠宅の前に立った。
 あの立ち合いの後、老人は中津川の自分の隠宅に、失意の春川を伴い、老婆に茶を入れさせ、またおいでと言った。あの時、老人が何を言っていたのか、春川は覚えていない。しかし、いつか又勝負をしてやろうという気持ちはだけは、はっきりしていたので、件の老人の隠宅の道順だけはしっかり覚えていた。
 頼もう、と言う春川の声に、門弟であろうか、稽古着姿のひとりの若者が出てきた。来意を告げると、その若者は中に入ってが、すぐ出てきて、道場に通した。若者と入れ替わるように、件の老人が出てきた。
「こんなに早く来るとは思いませなんだ。して、もう一度立ち合われたいというのかな。」
「いかにも。」
 春川はきっぱりと言った。その声に春川自身もおどろいた。いつもの自分の声ではない。自分の体の別のところから出た声、そうあのぽたりと何かが落ちた、あの当たりから出たような気がした。
 老人の顔から笑顔がすうっと消えていき、そのかわりに目が異様に光りだした。しかし、その光もすぐ収まり、きびしいが澄んだ目になった。深い深い吸い込まれそうな目になった。それでいて、不思議と口元だけは、相変わらず微笑みを絶やさないように思えた。
 春川はそのような老人を見ながらも、老人が座る上座を見ていた。道場の大きさを肌で感じていた。その質素な作りと手入れのいきとどいているのに感心した。この道場と老人がまさに一体となって見えてきた。と、その瞬間であった。
「信吾!」
と言う老人の声に、先ほどの若者が出てきた。
「信吾、このお方と立ち合いをせよ。春川殿と言われたな、今日はこの者がお相手いたす。この者は、須崎信吾というて、杖の振り、身のこなしなど、この者に敵う者は弟子の中にもおりません。よろしいかな。」
「はい、よろこんで。」
 春川は道場にあった木刀を借り受けると、下座に端座した。信吾と言われた若者は杖を一本とると、びゅんびゅんと素振りを始めた。老人が言ったように、まさに目の覚めるような振りである。
 互いに一礼をすると、あの時、老人が構えたように、まさにツエをつくように構えた。春川は右手に木刀をもって、だらりと両手を下ろした姿勢から、ゆっくりと正眼に構えた。いや、正眼というよりも、下段に近かった。春川はそのまま動かなくなった。信吾も動かない。信吾の目が段々殺気を帯びてきた。信吾の構えが変わった。剣でいうなら八相の構えである。剣と違いうのは、右手の握り方が剣とは逆になっていることである。春川の構えは変わらない。
 薄暗い道場の中で、信吾の両目が一瞬光った。裂帛の気迫で杖が春川の間合いの中に飛び込んできた。少なくとも信吾にはそう思えた。しかし、その時には春川は信吾の背後に立っていた。老人の凛とした声が響いた。
「それまで、春川殿、お主の勝ちじゃ。」
 信吾の髷がかすかにずれていた。

「それで、先生はその老人とは立ち合わへんかったんですか。」
「そうだ。」
「なんで、その老人は先生と立ち合おうとせいへんかったやろか。どうもわからへん。まさか、負けるんちゃうかと思おて、立ち合わへんかったんやろか。」
「小七、おれが何故最初立ち合った時、老人に勝てなかったのに、信吾という若者に勝てたのかわかるか。あの時までのおれの剣は、言うならば『先の先』であった。立ち合う前から気を溜めておき、一気呵成に初太刀を打ち込む。それに失敗しても、二の太刀、三の太刀を間髪入れずに打ち込む。まさに勝つための剣であった。おれは勝つために剣を磨いていた。人より強くなるために。何よりも強い剣、それがおれの目標だった。木曾の山奥で、あの老人と武道の話をした時、老人はおれの太刀筋を見抜いていたのだ。後で老人がおれに話したことなのだが、その時のおれは、まさに殺気に溢れた武者修行の若者だったそうだ。ただそれだけなら、そこで別れるつもりでだったが、おれの剣の手ほどきを受けたのが、笹部無庵だいう話を聞いて気が変わったそうだ。とにかく、おれの頭を冷やしてやろうと思って、立ち合ったということだ。その結果、おれは名古屋で眠られぬ夜を過ごすことになった。おれはどうしたら勝てるのか、自分の人生は間違いなかったのか、そんなことばかり考えていた。そんな時、小池先生の形を見た。おれはその時、自分の目標にしていた剣とは全く違う剣を感じた。今の自分の剣をいくら修行しても、ああはなるまい。では、どこがちがうのか。小池先生の剣は、打ち太刀(相手)が動くとすっと相手の隙に吸い込まれていくんだ。しかし、決して後から打っているのではない。気は完全に相手を飲み込んでいる。だから、相手の剣を動かす瞬間にその隙が見えている。剣も自然にそこに吸い込まれていくんだ。つまり、これがほんとうの『後の先』というやつだ。小池先生の形を見ていた時、それに気づいたのだ。おれが信吾という若者に勝てたのは、杖が動く瞬間にできる隙をつくることができたからだ。」
「へぃ……。せやけど、それやったら、その理合で、あの老人とも立ち合えばよかったんとちがいます。」
「小七、おまえはまだ『後の先』の意味をわかっていないな。老人とやったとしても、勝負にならなかっただろう。つまり、それはお互いに勝つ必要がなかったからだ。」

 勝つ必要がなかった。勝つ必要がなかった。小七は道場からの帰り道、何度も何度も繰り返した。どうも、わからへん、と小七はつぶやいた。落語でいうたら、笑わせる必要がない、ということか。
 寄席に出る前に、ちょっと腹ごしらえをしようと、お駒の店に立ち寄った。
「お駒、今日は何がおいしいねん。」
「そうやね、鯖の煮付けがおすすめやね。」
 小七はお駒の用意してくれた飯を食べながら、お駒にさきほどの話をした。
「先生が考えている剣術は、わしにはわからへん。勝つ必要のない剣術なんてやっても、しあないやないか。なあ、お駒、どう思わへんか。」
「うちはそんなむずかしいことわからへんけど、落語のほうはどうなの。本業のほうもうまくいってへんのとちがうの。」
「そうやねん、前ほど客が笑わへんのや。この前笑ったところで、同じ事をしているのに、笑わへんのや。」
 と、そこへこざっぱりした、若旦那風の男が入ってきた。
「お駒さん、今日はなにがおすすめかいな。」
「そうやね、鯛の刺身なんて、どうです。」
「さっぱりして、よさそうやね。」
 それを聞いていた小七がお駒に言った。
「おい、さっき、わしにいったのとちゃうやないか。わしには鯖の煮付けがええといったやないか。」
「当たり前やないか、誰にでも、おんなじ料理をすすめへんわ。客を見て、すすめる料理をきめるんや。あんたみたいに、腹をすかせてやってきて、これから、また一仕事する客と、ゆっくり酒でも飲みながら、料理を楽しもうとする客と、同じもんが出せるとおもうか。うちが今日、一番よくできたと思った料理をみんなに出したかて、みんなが喜ぶはずないでしょうが。」
「……まず、客を見て、……すすめる料理をきめる。……一番よい料理でも、……みんながよろこぶとはかぎらん。……落語もいっしょや。……『後の先』!」
 小七は残りの飯を大急ぎで食べると、そのまま、飛び出して行った。

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