活人剣

守破離

 もうすっかり日が暮れるのがはやくなってしまったというのに、そんなことには全く気づかぬようで、ひとりの若い男が歩いていた。すれ違う人はこの男の風体から噺家であることはすぐわかったが、そのこわもての顔を見ると怪訝そうに目をそむけた。
 この男、小七という噺家である。もうかれこれ十年も師匠のところで修行をしてきた。その道では筋がいいという評判である。もうそろそろ真打を務めてもおかしくないと、まわりはみんなうわさしていた。実は本人もだいぶその気になっていた。ところがである、今日、本人にもおもいがけないことがおこってしまった。いくら考えてもわからない。
「いくら考えてもわからへん。いったいどうなってんねん。いったいおいらが何をしたというねん。小楽師匠のところ入門して以来、おいらは一心不乱に修行に励んできた。だのにこのざまや。自分でいうのもなんやが、おいらは兄弟弟子のなかでは一番ようできていると思っている。これは自惚れなんかやない。だれもが認めていることや。師匠の友達のあの円亭師匠だって言ってたやないか。一番師匠の癖を掴んでるって。十八番の池田の猪買いなんか、師匠がやってるのか、おいらがやってるのかわからへん。おいらのほうがうまいくらいやなんて、もっぱらの評判やないか。そうか…もしかして。いやそんな人やない、うちの師匠は。そしたらなんでやねん。くそうわからへん。」
 ことの起こりはこうだ。半月ほど前から、どうも兄弟弟子たちのようすがおかしかった。いつも稽古のあと、ほかの噺家たちの話をする。そして、いつも自分たちの師匠が一番だなという結論に達する。時には度を過ごすくらい他の噺家の悪口をいうこともある。といいても、せいぜい冗談交じりにいうことが多い。そういえばあの時、米蔵一門の悪口をゆうている時、たまたま通りかかった師匠が横目でにらんで行きはった。それからや、ようすがおかしくなったのは。師匠は日をおうて、だんだん機嫌が悪うなっていった。それにつれて、他の弟子たちも妙に空々しくなってきよったな。
 小七はようやくひとつ原因らしきものをつかんだような気がして、少し楽になった。これから行こうとしている剣術の先生に少し話しやすくなった。
 小七には噺家として妙な趣味があった。それは小さい時から剣術がすきで、ずっと剣術道場にかよっていることだ。江戸時代町人や百姓が剣術をならうことは、さしてめずらしいことでもなかった。江戸や大坂には多くの町道場があった。それを経営する侍たちも侍相手だけでは経営がなりたたない。それで町人や百姓たちの入門を許したのである。小七は洟を垂らして、棒を振り回していた時からかぞえると、剣術の方が落語よりながかった。
 今の道場に通いだしてもう五年になる。道場主は春川兵部という浪人で、以前はさぞどこかの身分の高い御武家であったろうと思うのだが、春川ははっきり言わないし、小七の方でもしいて尋ねなかった。道場は下町のはずれにある。六年ほど前まで、年老いた浪人が道場をかまえていたのだが、その浪人が亡くなり、廃屋同然であったのを五年ほど前、春川が又道場にしたのだ。その間のいきさつは小七にもよくわからない。入門のきっかけは、何かのついでに前を通った時、春川がひとりで居合の形を使っているのを見て惚れ込んでしまった。小七はその時までいろいろな道場をまわっていたが、小七のような町人を相手にしてくれる道場でこれほどの形を使う人を見たことがなかった。小七はその場で入門した。小七はあれ以来三日に一度は通っている。
 すうっと、小七は足もとから吹き上げた冷たい風にぶるっと身震いして、自分が橋の上を歩いているのに気がついた。
「一体なんやねん、十年も師匠のもとで修行を積んできて、もうすぐ真打を務めようかという人をつかまえて、何が気にいらんかしらへんけど、米蔵師匠のところへ行って、修行をして来いとはなんちゅうことや。なあ、そうは思わんか、お駒。」小七は橋の上でぶるっと悪寒を感じた時、馴染みの居酒屋が目に入ったので、寒さ払いのために思わず入っていたのだ。店の中は珍しく客が少なかった。客が少ない時には、よく話相手になってくれるお駒が、この時も、相手になってくれた。
「でも、小七はん、そんなに悪く考えるもんやあらへんよ。師匠もよくよくのわけがあってのことかもしれへんし。」
「米蔵師匠のことは日頃、おいら、よく言ってへんで。あの門下のやつらなんかは落語の何かわかってへんと言っとったで。あんなものすぐすたれると言っとたで。それもこれも、今の師匠を信頼してるからやろ。わしは師匠が今大坂で一番うまいと思てるんや。そりゃ、素人うけはせいへんけどな、見る人が見たら、わかるはずや。だから、師匠の言うとおり修行しといたら、ほんまもんの噺家になれると思とったんや。」
「ほいたら、小七はん、師匠のことを信頼して、その通りやったらええやない。」
「でも、今度ばかりはどうしても納得いかへんのや。米蔵師匠のとこだけやない。大坂で今出ている噺家の落語をみんな、聞き直して来いと言うんや。つまり、わしより下手なやつらから、師匠が日頃けなしている噺家まで全部やで。わしそんなことしなくてもわかっている。挙げ句の果てに、全然落語と関係のない、講談や歌舞伎やあらゆる芸事をみんな見て来いていうんや。その間一切師匠のところに来んでいいて言うねん。これは体のいい破門やで。」
「せやけど、小七はんの師匠への信頼ってそんなもんやの。なにやら話を聞いとったらおかしいわ。あんたの都合のいい範囲だけ信頼しているみたいやね。」
「何ゆうてるねん。おまえに何がわかるねん。」
「そうや、わからんわ。そやったら、わからん相手に話せいへんかったらいいやん。」
 小七は飲みかけのお猪口を地面に叩きつけると出て行ってしまった。日頃物静かな小七なので、一瞬お駒もあっけにとられていたが、黙って後片づけをしはじめた。

 小七の剣術の師匠である春川は黙って、小七の話を聞いていた。小七が興奮さめやらぬ様子で話し終えた後も、しばらくだまっていたが、だしぬけに、小七、夜稽古の用意をしろと言った。照明道具の乏しい時代、稽古はおもに日のあるうちに行われる。しかし、実際に剣を振るうのは昼間ばかりとはかぎらない。だから、時には夜稽古といって、夜の蝋燭の薄明かりの中でも行われる。
 道場の燭台全部に蝋燭をつけおわると、小七は春川に準備のできたことを告げた。
 十人も稽古すれば、いっぱいになってしまう狭い道場であるが、小七にはそんなこと目にはいらない。稽古着は今日は持ってきていなかったので、羽織を脱ぎ、着物の裾を端折り、壁にかけてある木刀をとり、春川を待った。
 春川は先ほどの着流しに袴をつけていたが、その手には木刀ではなっく、見慣れぬ細い棒のようなものが握られていた。先生、それは何ですかと、小七が尋ねようとした時、「さあ、かかってこい。」という春川の声が発せられていた。
 一礼した後、いつもと違う春川の気を感じた小七は、木刀をすっと正眼に構えた。春川は先ほどの棒を右手に握り、ちょうど杖をつくように立った。落語の次に剣術が好き、しかも、春川の激しい稽古をこの五年間やりとおしてきたという小七のこと、並の侍では歯が立たない。春川も小七と稽古する時は、最近では一瞬たりとも気を抜くことができない。だから、小七は自信をもってきている。でも、今日はいつもと違う。
 小七はすっと間合いをつめていった。春川は動かない。小七の木刀は一足一刀の間合いにはいった。と同時に烈迫の気で面を打った。一瞬速く、春川は剣の間合いを抜けでていた。小七が二刀目を打ち込むため、間合いをつめようとした時、あの細い棒が小七の顔面に迫ってきた。剣の間合いでは絶対に剣が届くはずのないところである。小七は避けるのが精一杯であった。これは剣より長い得物と相対する時はよくあることである。ところが、次の瞬間小七の信じられないようなことがおこった。先ほど小七の顔面をおそった棒がすっと引かれた時、もう一本棒があらわれた。いや小七にはそう思えた。それは小七が先ほどの棒が引かれると同時に間合いをつめようとした時、小七の鳩尾のところでぴたりととまった。
 後は何度やっても同じだった。まるで春川が二本の棒をもっているかのようであった。いつでも全く予期しえないところから現れるもう一本の棒で小七は身動きできなくなった。からくりは小七にもすぐわかった。この棒には、刀で言えば刃の部分と柄の部分の区別がないのである。瞬間にどちらにも変化した。
「小七、わかるか。これが杖術だ。」がっくりと道場の中央に座り込んでしまった小七に春川はいった。「わしは落語のことはとんとわからぬ。わしのわかるのは剣術だけだ。だがな、あることを極めようとしたら、根本は同じことだ。わしは先ほどお前の話を聞いていてあることを思い出した。それはな、武者修行にでていた頃のことだ。大坂の道場だけでは、あき足らなくなって、江戸まで出かけて、一年ほど江戸の道場をまわったことがある。わしはその一年の間にある程度の自信もできた。わしは江戸の剣術界で、自分がどの程度の実力かもわかった。そこで、大坂に戻ることにしたと思え。その時わしは中山道を通っていた。どのあたりだったろうか。ある茶店で旅の老人と一緒になった。身なりからいってどこかの武家の隠居といった感じだった。しかし、腰には脇差しひとつさしているわけではない。今から中津川まで帰るのだといって杖を一本ついていたが、その腰つきから、わしはそうとう使える人だとみた。わしは試みに剣術の話をしてみたら、案の定話にのってきた。その老人が言うには、刀などこの年になると重いだけで何の役にもたたない、身を守るだけなら、ほれこの杖ひとつあれば充分だと。わしもその頃はまだ若かったし、江戸で自分なりに修行をしてきたところで自信もあったから、何と言う老いぼれがと、心で思ってむっとした。すると、その老人はそれを察してか、それでは試してみるかといったので、望むところといって、背に結びつけてあった愛用の木刀をはずして、すぐ試合の準備をし、立ち合った。その結果は今の小七、お前といっしょだった。わかるか、小七。おれは一人前の剣士になるために、人並み以上に修行をしてきたつもりだった。わしはそれまでの自分の人生の大事な時間の多くをこのために費やしてきた。そして、これからの人生をこれで生きようとしたやさき、いとも簡単に杖という見慣れぬ得物に敗れてしまった。わしはその老人に悔しかったというより、自分に悔しかった。これがわしにとっての守破離だった。」
「うう…。」と小七は目の前にある一本の蝋燭を見詰めて、低くうなった。
 しばらく間をおいて、春川は言った。
「小七、お前確か今の師匠に弟子入りしたのは、偶然だっていってたな。」
「はい、落語をやってるのも偶然で。チャンバラの次に話がすきやったもんで、口をきいてくれはる人がありまして、半分無理やり今の師匠のところへ入れられたんですけど、いざ入ってみると、やることなすこと、なんちゅうか、おのれにぴったしというか、合ってるというか、…」
「そこのところがお前の守破離だな。」
「…守破離…。」小七がつぶやいた。
 ふた呼吸ほどの沈黙の後で春川が言った。
「もう十年以上も剣術を稽古してきたら、『守破離』の意味はわかっているだろう。『守』とは、師匠の教えを守って、師匠の技を身につけること。『破』は今度それを破って、自分自身の技を究めること。そして、『離』は師匠から離れ、自分自身の技を確立していくこと。むずかしいのは『守』から『破』に移るころあいだ。『守』が短いと『破』の時、たいしたものはできない。悪くすると、何もかもなくしてしまう。反対に『守』が長すぎると、単なるものまねで、師に追いつくどころか、はるかに下のところで、技量が止まってしまう。たまに『守』がうまくいって、師に追いつくところまでいくことがある。実はこれが一番やっかいなのだ。妙に自信があるからのう。今までの自分を全部潰して、すべて作り直すなんて、とてもじゃないができない。わしの場合は、剣そのものの存在理由が問われてしまった。おれが修行してきた剣とは、こんなにもあっさり負けるものなのか。しかし、そこのところを乗り越えないとほんものを得ることができないのだ。」
 もう一度、守破離、とつぶやいた小七の目にはいくつもの蝋燭が見えていた。


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