ベルリン国立歌劇場の「ニーベルングの指輪」
ハリー・クプファーの演出について


神奈川県民ホールの第一チクルスを鑑賞.2002年1月16日ラインの黄金,17日ワルキューレ,19日ジークフリート,23日神々の黄昏.

演出・舞台装置・効果の面に絞って,今回の指輪公演の印象を書いてみたい.つまり,指輪を「観る」観点からの感想である.なお演出はハリー・クプファー.彼が演出した1991年バイロイト公演の「指輪」*1(以下バイロイトと呼ぶ)はレーザーディスクになっている.これと比較することから入りたい.

先ず全体として,舞台の抽象化が進んだ.舞台後方の壁には,大きな格子状のパネルが常に置かれる.この格子は自ら発光し,例えばワルキューレの終幕のシーンでは,燃える炎をイメージして赤く輝く.黄昏では,都市のイメージが映し出される.

バイロイトの舞台は,具象だった.ミーメの鍛冶場は,原子炉容器の廃墟だった.ジークフリートがおこす竈の火は,放射性物質を表すかのように緑色に光っていた.

バイロイトと比べて,特徴的なのは,観客を驚かせる見せ場がいくつも用意されたことだ.
例えばジークフリートの第一幕の掉尾,ジークフリートは自ら鍛えた剣ノートゥングを振り下ろすと,ふいごをイメージした巨大なファン(扇風機)の4枚の羽根が砕け散る.
また同じくジークフリートの第2幕,大蛇に変身したファフナーをジークフリートがうち倒すと,大蛇の身体の一部であり,あるいはトネリコの樹の一部のようでもある巨大な物体が,舞台上にすさまじい勢いで落下する.
さらに黄昏では,ブリュンヒルデをグンターの妻にするべく,ジークフリートが炎を乗り越えると,岩屋の巨大な丸窓が壁から外れ,舞台上に落下する.
テーマパークのような仕掛けの数々.観客サービス.まるでガンダムのような「ラインの黄金」の巨人の衣装.大蛇を表すメカニカルなロボット群.こうした要素はバイロイトにはなかった.

黄昏の第三幕ラストは,指輪全体を締めくくる上で重要である.ここでアルベリッヒが顔をだす.バイロイトでもアルベリッヒは出てきたが,今回はさらに芝居が増えて,その表象するものが明確になった.彼はラインの乙女から,指輪を奪い返す.そしてやっとのことで手にした指輪を頭上にかざし歓喜にひたる中,その指輪は輝きを失い,塵芥のように崩れて粉々になってしまうのだ.
また,同じくラストで,ワーグナーの指定にはない少年と少女が登場する.バイロイトでは,テレビ中継でワルハラ城の破滅を見守る大人たちから離れ,少年が少女の手を引いて歩き出す.少年はアルベリッヒに近づきそうになるが,うまく避け,ポケットから懐中電灯を取り出して,確かな道筋をたどりだすのだ.
今回も少年と少女は登場したが,動きは違った.少年は少女と共に,トネリコ(?)の樹の小さな残骸に取りすがっている.そして最後まで動かない.少年も少女も薄汚れ,憔悴しきった姿である.

バイロイトと今回との間の10年以上の時の流れ,情勢の移り変わりを感じさせる.今回の公演プログラム中にクプファーへのインタビューが載っている.
「(聞き手)−ワーグナー自身,最初はユートピアとしてのジークフリートを信じていたことは明らかですが,仕事を進めるうちに...
クプファー:だんだんと当初の構想から離れていきました.(中略)ワーグナー自身,ひょっとすると遙かな時を経た後に,良い世界が実現することを信じようとしていました.(中略)核武装の時代を迎えて≪指輪≫の結末はワーグナーの時代とは異なる印象を与えずにはおれません.こうした時代には希望の微かな光を見出すことがきわめて難しくなっているからです」

オペラにおける演出とは不思議なもので,どんな演出であれ,原作の歌やせりふが変わることはない.パトリス・シェローの演出した指輪も,悲劇のバイエルン王ルートヴィヒ二世が観た指輪も,目を閉ざしていれば基本的に同じ音楽が鳴っていた.しかし,「胸甲のよこにスモーキング(仕事着)がならぶことこそが重要」*2という舞台と「人々が古いゲルマン人たちがそうであろうと想像していた通りに,..頭の上は山羊の角だらけになった」*3舞台とでは,聴衆の感動ははるかに異なったものとなろう.

今回のクプファーの演出に,私は刹那的な快楽への渇望と未来への絶望を感じ取った.それが彼の意図するものなのかは知らない.しかし,バイロイトで感じたあふれ出る熱情のようなものは,少し冷めた気がする.それは彼が年をとったせいなのか,あるいはこちらが年をとったせいか...
最後に.演出はオペラの要素のあくまで一部分.私のこうした印象も,デボラ・ポラスキーのパワフルな歌唱,ご贔屓のワルトラウテ・マイヤーさんの素敵なジークリンデ,ヴォータンにはまり役のファルク・シュトルックマン(「パルジファル」のアムフォルタス王にはしびれた)などなど,にほとんどかき消され,理性を失いかねない興奮を味わったことは間違いない.
それほどまでにワグナーの楽劇には,悪魔的な魅力があるのだ.
「私は,ワグナーと同時に生まれなくて,ルートヴィッヒのような国王でなくて,よかったぞとおもうくらいだ.正気に戻れば慄然たるおもいのする陶酔だ.ワグネリアンは皆そうに違いないが」*4

*1:指揮は今回と同じダニエル・バレンボイム.収録は1991年6月&7月.於バイロイト祝祭劇場.発売元はテルデック・ビデオ

*2:ディートリッヒ・マック編,「ニーベルングの指輪 その演出と解釈」パトリス・シェロー寓意と舞台効果,pp186,昭和62年,音楽之友社

*3:*1のレーザーディスク付属のパンフより.ハリー・クプファーとのインタビュー.1994年ハンブルグ国立歌劇場にて.

*4:五味康祐,「天の聲 西方の音」16トリスタンはなぜ死んだか,pp215,1976年,新潮社