〜ビジコンの歴史〜

次代の旗手・時代の機種

 ビジコンが登場したのは1978年。 前年まで好調なセールスをとばしていた各社のポンテニスはすでに息切れを見せており、マイクロプロセッサを搭載した次世代機の発売に期待がよせられてた頃でした。

 東芝は'77年までにすでにアポロ着陸注1)というマイコン仕様ビデオゲーム(試作)を発表するなど、この分野には早くから積極的に取り組んでいたようです。 '77年終盤、東芝テレビゲームというLSI方式のポンテニステレビゲームを発売するも、この頃にはすでに、マイコンテレビゲームの商品化に向けてGOサインがでていたと思われます。

 さて、実際に開発されたビジコンは、厳密には東芝オリジナルではなく、米RCA社が'76年に発売したSTUDIO II(スタジオII)というビデオゲームとほぼ同じ仕様でした。心臓部であるCPUにもこのRCA社のチップを採用しています。どういう経緯でそうなったかは不明ですが、実はこのアポロ着陸が発表された77年エレクトロニクスショーで、RCA社の日本代理店であった大倉商事もまた、スタジオIIと同じ仕様であると見られるTVゲームを発表しているのが確認されていまして、ここで何かしらのきっかけが生まれたのかもしれません。
  しかし、むしろ注目すべきは、アポロ着陸ゲームで自社製ハードを採用していた東芝が、ビジコンであえてRCA社のハードを採用した点でしょう。その方が商売的に効率的だった、つまり、マイコンシステムのテレビゲームは、当時いかに採算に載らない商品であったかということが推測できます。前作東芝ビデオゲームでも、東芝はチップを製造する能力を持ちながら、あえてエポック社からOEMで譲り受けていますが、それは、販売・開発をパソピアなどコンピュータ部門を担当したオフィスオートメーション部ではなく、テレビ事業部が担当した点にもあるのかもしれません。

 さて、そのビジコンは1978年4月1日、東芝の戦略商品「V製品」のひとつとして発売されました。V製品とはValued(ヴァリュード=価値ある)製品の意味で、従来より進歩した機能を盛り込むことで売上アップをねらうシリーズのことです。例えば、選局にマイコンを内蔵したテレビや、従来より3倍吸い込む掃除機などで、これらの製品は特に積極的な拡販がおこなわれたそうです。

雑誌記事に見るビジコン

 ビジコンの記事は当時の大衆誌を通して見ることが出来ます。サンデー毎日や週刊サンケイの記事によると、ポンテニス系テレビゲームが単調な内容が原因で飽きられていった現状から、内容も複雑なマイコン仕様の新テレビゲームがいよいよ登場、今後の展開に興味津々といったレポートがされています。
これらの取材には当時の東芝テレビ商品部・企画課長矢崎 武氏が応じておられ、どれも意欲的なものでした。
「ゲームのバリエーションの多さから言っても、能力的に言っても、アメリカの十数万円のTVゲームに比べて少しも遜色ないばかりか割安ですらあります」
「記憶されているゲームだけでも五つある。そこが単純なテレビ・ゲームとは比較にならない面白さでして。子供の年齢に応じた算数や模様書きの遊びもできる。ちょっと言葉は悪いんですが”教育ママ用”ともいえます」


家電メーカーゆえの難しさ

 「この冬、ビジコンは5〜6万台の需要が悠に期待できる」と、鼻息も荒かったビジコンですが、皮肉にも現在、もっとも知名度の低いマシンのひとつに数えられています。

 1978年10月3日の日経産業新聞に「早すぎた発売 売れ行き不振」としてビジコンの顛末が早くも掲載されています。要約してみると、まず54,800円という値段の高さ、そして浜野毅 東芝副社長(!)の「やはり年末に向けて秋頃から出すべきだったかも」と、発売時期が需要期とかみあわなかったというコメント、最後にいくら高度で複雑なゲームが楽しめるとは言え、あくまで遊戯用機器というイメージが強く、一般の玩具同様売り方は難しい。がん具店の利用も検討すべき という記者のコメントでしめられています。
 5月頃の同紙には、東芝V製品は一部を除いて予想以上の売れ行きを示しており、ラインアップの拡充(さらに10品目追加)、開発体制の一段の強化等がなされていたという記述が見られます。
 そこで考えられるのは、先の価格、時期、販売ルートの3つに加え、なまじ、このような結果を求められる戦略ラインアップの中にビジコンが置かれてしまったことが、逆にビジコン自身の寿命を縮めてしまったのではないか、ということです。ほぼ同時期のアタリVCSが後に大ヒットをとばすように、ソフト重視のビジコンは、本来長いスパンで見守っていく必要があったのですが・・・、まあ、それはあくまでソフトウェア市場を知る現代人の視点なのでしょうね。

 右の一番下の写真は、東芝グループの機関誌機関誌「東芝レビュー」(1978年秋頃)ですが、マイコンを使った東芝家電製品の紹介グラビアの中にあって(主役であるはずが)、すでにビジコンという言葉はでてきません。一方、よく見ると、バックのブラウン管の中には、開発の方がこの撮影ためにつくったと思われる「TOSHIBA ビデオコンピューター VISICOM」の文字が見えます。なんというか、東芝内での温度差を表しているようですね。


 後に本家RCA-STUDIO IIがインベーダーゲームを発売するように、このビジコンも'79年のインベーダーブームの波にのっていれば、あるいはアタリVCSのような一矢を報うことができたかもしれません(東芝自身もマイコンショーでインベーダーをデモっていたそうですし)。その時にはきっと本体価格も下がり・・・いや、仮にそうだったとしても、ビジコンは潤沢な利益をもたらしたでしょうか?
 そう考えると、ビジコンは70年代マイコン方式がかかえる「価格」という高い壁に加えて、現在でも言われるところの、電機メーカーが家庭用ビデオゲーム市場に参入する難しさをというものを体現した、最初のビデオゲームだったように思われるのです。
(初出:2001.9/第二稿:2004.7)


見にくいのでコントラストを変化させてみました



東芝のハードルゲーム


アポロ着陸はCPUに東芝のTLCS12Aという12ビットCPUを搭載していたが、これは同社が市販していたワンボードマイコンEX-5と同じ仕様である。そのEX-5で稼動していたデモゲームがこれ('77年頃のマイコンショーより)。




サンデー毎日のコラム

ゲーム情報誌もmonoマガジンもなかった時代の情報発信源。 ちなみに玩具業界にとって家電メーカーは脅威であったため、業界関連誌などその守備範囲でビジコンの名が出ることはなかった。
ADVT.







「ビデオゲームの開発」

東芝グループ全体の機関誌「東芝レビュー」の1978年秋頃のグラビアより。7月号には、開発チームによるビジコンの紹介記事が5ページにわたって掲載されているが、数ヵ月後のこの号・マイコン製品特集には、「ビデオゲームの開発」と説明文はあっても、ビジコンの名前や、それにつながるヒントは見当たらない




HINT de PINT

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