〜スーパービジョン8000の歴史〜

期待されたパソコン能力

 まずは、スーパービジョン8000(以下SV8000)の発表会の様子から振り返ってみましょうか。SV8000の初お披露目は1979年秋に東京で開催された国際玩具見本市です。当時の業界誌は、その特徴を以下のように紹介しています。

『従来商品は専用LSIの開発から製造までに約1年という長時間を要したが、今回のスーパービジョン8000はソフトの開発だけで短期間に新しいゲーム内容を提供できるのが大きな特徴。

本体に開発導入予定の「キイボードコンポーネント」を接続することにより、ホームコンピュータとしても使用できるのが最大の特徴。(中略)つまり、将来大きな需要が見込まれるホームコンピュータ市場への玩具業界からの第一弾という画期的な意味も持っているわけである。』


日本経済新聞の記事(右)では、この見本市でのスーパービジョンをいち早く紹介し、『具体的には10月にも社内にテレビゲーム事業部を発足させ、短期的なゲームの種類の多様化、高度化を進める一方で、長期的な視野にたったホームコンピューター戦略を練ることにしている』というバンダイの方針を紹介しています。

また、当時の月刊アスキーは、ホームパソコンとしての基本能力に注目し
『パーソナルコンピュータとしての骨格は完全にできあがっている。(中略)このようなゲーム志向タイプの専用機を、拡張によって汎用機として使用するシステムは販売方法としても理にかなったものであり、今後の伸びが注目される。』と紹介しています。

SV8000を開発したメーカー

 このハイポテンシャルなハードを製造したのは、TV-JACK2500など、数々のバンダイテレビゲームの製造を担当してきた科学技研(科研)株式会社。さらに外注先としてロジックシステムズ インターナショナル(以下L.S.I.)というメーカーが開発に参加しています。L.S.Iは、現・ロジック(株)としてネットワーク分野の第一線に立つ有名メーカーですが、当時はトレーニング(マイコン)キットの開発などシステムハウスの中堅として活躍していました。
1979年と言えば、まだキット販売のボードでさえ8万円はくだらないという時代でしたから、テレビモニタを利用するようなマイコンボードを低価格で、というバンダイの要求は難しいものだったはずです。ただ、L.S.I.は半導体メーカーとユーザー(ここでは科研を指す)のバランスをとり、性能のよいハードウェアをつくるのには定評がありましたので、バンダイや科研にとっても、まさに渡りに船、といった感じだったと思います。


こなれないハードウェア

 ですが、SV8000プロジェクトは、新ハードゆえの重大なネックを抱えていました。ノウハウを持つ人間が誰もいなかったという点です。プログラミングのコツや、グラフィックの扱い方というものは経験で蓄積されるもの。ましてや、プログラマーにとって、バンダイが要求するインベーダーやパクパクバードといった縦横無尽なアクションゲームは、当時かなりハードルの高いものだったはずです。
そのためか、1979年12月(*1)の本体発売時に揃ったゲームソフトは、付属のミサイルベーダー1本のみ。翌年発売予定だったタンクゲームオセロゲームに差し替えられました。このオセロのできは悪くなかったのですが、それ以外のリアルタイムゲームは、どれも無残な仕上がりでした。
SV8000の展開はそれからおよそ1年半ほど。最後発のビームギャラクシアンのできは良かったようで、後期にはやっとゲーム製作のノウハウが蓄積されてきたのだと思われます。

テスト販売に近かったSV8000

 SV8000にはもうひとつ弱点がありました。59,800円という価格がそれです。当時の業界誌によると、問屋筋が考える購買ポイントというのは、
内容、値段、ブランド、店員のアドバイスだったそうです。ただでさえ第一時ブーム沈下後でテレビゲームが売れなかったこの時期に、この内容と価格では、いくら高機能のマシンとは言え、扱いにくい商品だったのではないでしょうか。
バンダイはSV8000を重点商品として見据え、雑誌広告はもちろん、テレビCMまで製作しプロジェクトに取り組んだのですが、さて実際はどれほど売れたのでしょう?開発導入予定とされていた「キイボードコンポーネント」など周辺器機については、結局”企画中”のまま、具体的に告知されることはありませんでした。

SV8000の発売から3年後の1982年、バンダイは米・マテル社から招いたインテレビジョンを華々しく日本デビューさせています。以後、83年のアルカディア、同年夏の光速船と年度ごとに新機種を投入していきますが、それらはすべて自社開発ではなく、輸入販売というスタンスをとり続けました。
自社開発を敬遠した理由についてバンダイは
『「インテレビジョン」クラスで3年くらいの期間と、3〜5億円の開発投資が必要である点から、自社開発にこだわる必要はない』(玩具市場の動向と展望  1982年版より)、と判断したそうです。

 
  結局「こういった高級マシンを、自社で展開していくのには、まだ時機早々」。それがバンダイが出した答えでした。
最初にも出てきた日本経済新聞9/12の記事に、バンダイのSV8000に対するスタンスを読むことができます。
『スーパービジョンの価格は59,800円。従来のテレビゲームが2万円前後だったのに比べかなり高く、当面はテスト販売といった色彩が強い。むしろこれを足がかりに、数年間はホームコンピューター市場の展開をにらみながら、より広い用途をもったマイクロコンピューターとしての商品を開発、マーケティングに力を入れる方針』だったそうです。
スーパービジョン8000は、マイコンテレビゲームというものが自社開発で商品になるか、という試金石だったと言えるでしょう。70年〜80年というのは、まだまだそういう時代だったんですね。


発売のニュース


日本経済新聞1979年9/4刊より。国際玩具市での発表と展開について。当時、ここまで大きく取り上げられたテレビゲームはありません。





デザイン画


SV8000とミサイルベーダーのデザイン画。当時の玩具業界誌に掲載されたものです。バンダイのリリースの転載でしょうね。





MP-80


L.S.I.がマイコンの講習用に開発した超低価格キット。LEDこそ4ケタなれど、8080Aをセットした一式の価格は39,500円と市場の半額。驚異です。





バンダイエレクトロニクスの広告


右上がSV8000。バンダイが1979年頃に発売していたLSIゲームは15種ほど。よく売れたのはLSIベースボールやミサイルベーダーという安価な電子ゲームでした。





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