ファミコンの歴史

任天堂の家庭用ビデオゲームの歴史

 今でこそ、世界にとどろくビデオゲームメーカーの任天堂ですが、昔は花札や麻雀パイ、光線銃からコピラスまでやる雑多な会社でした。

  任天堂がビデオゲームと出会ったのは、昭和47年(1972年)頃、世界で初めて家庭用テレビゲームを発売したマグナボックス社が、日本でODYSSEYの商談会をおこなった時、山内博社長(当時)や、上村雅之氏(後にファミコン開発者となる方)が招待され見にいかれたのが最初だったそうです。
  お二人の評価は芳(かんば)しいものではありませんでしたが、それまでトランプや花札などをつくっていた任天堂が、こういう遊戯マシンの分野でも可能性を探れないものか?という考えを持つきっかけになったのですね。

 その後、任天堂はレジャー分野に進出、ゲーム機の製造やリース業を行うようになります。やがて1975年末、初のビデオゲームとなるEVRレースという競馬ゲームを発売しました。このゲームの開発のために、任天堂は三菱電機から技術協力を得るのですが、その三菱電機ラインから売り込まれたビデオゲーム用のLSIチップを、組み込み発売したのが1977年のテレビゲーム15とテレビゲーム6(任天堂初の家庭用テレビゲーム)でした。
  1977年は第一次テレビゲーム戦争のまっただ中。各社がさまざまなポンテニス専用機を発売していたのですが、任天堂は15,000円と9,800円という値段で勝負に出ます。カラー表示で9,800円という6(シックス)は当時驚異的な低価格で、それを呼び水として15(フィフティーン)を売るという戦法。ゲーム性にも優れ、画像も美しいということから売れに売れ、最終的に80万台という大ヒットを記録。後発ながら他社を圧倒しました。
  続いて'78年にはカーレース専用テレビゲームレーシング112、翌'79年にはその名もズバリのブロック崩し、'80年にコンピューターTVゲームを続々と発売し、家庭用テレビゲーム開発のノウハウを蓄えていきます。

ゲーム&ウォッチの隆盛

 ただし、当時開発主任だった上村氏の談話(現代出版:「任天堂の秘密」)によりますと、氏が所属していた開発課はこのあたりでいきずまりが出てきたとのことです。テレビゲーム15/6以降は売り上げは徐々に落ちており、何をつくれば売れるのか、そういうものが見えなかったということでした。

 1980年、任天堂は携帯型液晶ゲーム「ゲーム&ウォッチ」を大ヒットさせます。これはゲームボーイを開発した(横井軍平氏率いる)開発一部が開発を担当し、世界中で3,000万個以上の販売数を数えました。技術畑出身だった上村氏は、その前のスペースインベーダーのヒットとともに、マイコンを使った娯楽機器の例ということで、非常に刺激を受けた、と話されています。
 しかし、電子ゲームはバンダイをはじめとする他のがん具メーカーが独自のものをいっせいに発売し、早くも飽和状態を迎えつつありました。玩具見本市に累々(るいるい)と出展された電子ゲームの山を見た任天堂は、いち早くこの市場に見切りをつけ、続く商品として、マイクロコンピュータを使った家庭用テレビゲームにスライドしていくのです。

  ファミコンの開発は81年の10月にスタートしました。そのテーマはゲームセンターのゲームも、またゲームセンターにないゲームもプレイできる新しいゲーム機であり、また、ゲーム&ウォッチの飽和状態を反面教師とした他者に数年はまねできない仕組みづくりでした。

  その開発における苦労話、特に心臓部であるカスタムチップを担当したメーカーとしてのリコー社の提携話は有名で、あちこちの書籍で詳しく語られていますので、興味がある方はく調べてみてください。
  例えば、かのYMOにアルファレコードという前例にとらわれない会社の存在があったように、ファミコン開発もまた、リコーという絶好のパートナー(新工場を稼動させるためとにかく大口のお客がとにかく欲しかった、6502系のチップをつくる下地があったなど)の存在が不可欠だったことがよくわかります。

すべてのゲームがここに集まる

  発売は1983年の7月。本体14,800円という衝撃的な低価格はもはや伝説ですが、カセット1本が3,800円というのも、当時のテレビゲームと比べて安い部類に入るものでした。第一弾はアーケードの名作ドンキーコング。さらに、新発売にあわせて放送されたテレビCMでは、当時業務用機として登場して間も無い人気ゲームマリオブラザーズのゲーム画面まで見る事ができるなど、こうふんさせられるものでした。
84年にはハドソンのロードランナー、同時期にはナムコがギャラクシアンパックマンをリリース。そしてアーケードの歴史的ヒット作ゼビウスが85年に発売されると、翌年年にはコナミがグラディウス・・・と、当時大ヒットしたビデオゲームがこぞって、しかも高いクオリティで移植されたものですから、これで火がつかないわけがありません。オリジナル方面でも今なお人気の高いドラゴンクエストファイナルファンタジーゼルダの伝説等で不動の地位を築いていきました。
ハードの拡張も'85年のファミリーベーシックやロボット、'86年のディスクシステム、さらにゲートアレイを独自搭載し、ハード以上の表現力を見せ付けたコナミのカートリッジなど、後にセガやNECが新機種で追い抜きをかけるにも関わらず、後継機種スーパーファミコン登場まで、その人気は10年間トップに輝いていました。

なぜファミコンはヒットしたのか

 一見順調に見えるファミコンの歴史も、ふりかえってみるとさまざまな危機的問題に直面しています。そもそもが第二次テレビゲーム戦争(82年〜83年)の最後発組であり、ソフトは当初たった3本。発売初年度の本体リコール(画面のオブジェクトが消えたんだとか)、ヒットしてからも深刻な半導体不足etcetc・・・。

 だけど子供たちは他のテレビゲームではなく、あくまでファミコンを求めました。品切れでおもちゃ屋になくとも、彼らは入荷するまで友達の家に通ってプレイしていたのです。その理由はなんだったのでしょう?
  CGアニメを自在に操作する楽しさ、難関をクリアする快感、裏技をさぐる・実践する探求的楽しみ・・・、それらを他のテレビゲーム(ソフト)より高度なレベルで実現していたのがファミコンだということは確かによく言われていることです。

  しかし、そこには子供たち側の事情もあったのではないでしょうか。当時から、ファミコンを持っていないと仲間に入れないという声はよく聞かれました。カセットの貸し借り、ウラわざ探し、あの面をクリアした、こんなソフトが欲しいなあ、などなど、共通のキーワードとしてコミュニケーションの手段として、それはファミコンでなくてはなりませんでした。
 時代の移り変わりもファミコンの追い風になりました。例えば、1984年の風俗営業法(ふうぞくえいぎょうほう)の改正で、夕方のゲームセンターから子供が達がしめだされ、その情熱の多くがファミコンに向かいました。”かぎっ子”が増加し、家族の中心が父母からテレビにゆらぎはじめたのもこの頃。そこにあったのが、子供のために買い与えられたファミコンでした。 学習塾のための遊び時間の減少、減りつつある空き地に代わる遊び場、増築された子供部屋にすえられたお古のテレビ・・・、そんなポッカリ空いたすきまに、ファミコンはバシっとあてはまる存在だったのです。
 本来のテレビジョンの主であるテレビ番組にしても、ドリフターズの「八時だよ!全員集合」の(85年)終了、紅白歌合戦の視聴率低下に象徴されるように、黄金期が終えんし、あらたな転換期を迎えていた時代でした。
  ざっと業界を見回してみても、80年代中期の家電メーカーはMSXなどにパソコンや、ビデオデッキに集中していましたし、巨人・ナムコはアーケードゲームの黄金期で、北米はビデオゲームクラッシュ後の沈滞ムード・・・。
  ファミコンブームは、任天堂の力だけではなく、こうしたさまざまな外的要因が相互作用(そうごさよう)していった結果なのでしょう。
  1985年末の本体の売上は約500万台。まさに、磐石(ばんじゃく)の構えをみせはじめていた頃、満を持してドラゴンクエストシリーズ(86年〜)など奥の深いRPGが登場。一時期のブームから、やがて日本文化に根をおろしていく存在になっていくのです。
 

21世紀の向こう側へ

 やがて1993年、ファミコンはマイク機能を割愛し、ビデオ端子と音声端子をつけた新型となりました(これは俗にAVファミコンと呼ばれています)。価格も7,400円とそれまでの約半額となります。やがて新作は発売されなくなりましたが、その後、ニンテンドウ64(1996年)やゲームキューブ(2001年)が発売されても、中古ゲーム屋を中心に、あいかわらず根強い人気をほこっていました。2001年春頃、任天堂はファミコンを月産5,000台で製造していたことが知られています。

2003年はちょうどファミコン発売20周年にあたり、それを記念して東京写真美術館で「レベルX」 という、ファミコンが主役のテレビゲームの展示会が行われたり(この模様はニュース番組でも取り上げられました)、ゲームボーイアドバンスでも、本体がファミコンカラーの記念モデルが発売されました。
しかし同じ年の年5月、部品調達が難しくなったという理由で任天堂はファミコンの製造中止を発表。 その年の4ヵ月後、2003年9月。ファミコンの生産は中止されました。

こうしてファミコンは生誕20周年で一応のピリオドがうたれました。しかしながら、ゲームキューブ/ニンテンドウ64の、どうぶつの森(任天堂)というソフトの中では、ファミコンソフトの一部がプレイできるようになっていますし、学術分野では、ファミコンゲームを資料化して研究していこうという流れから、立命館大学でファミコンソフト・エミュレーション・ボックスが任天堂認可の元開発されました(2003年)。任天堂未公認のファミコン互換機も、毎年シリーズを重ねるほどにショップで売れているということで、その優れたソフトは今もハードを変えて、どこかで遊ばれています。

2004年1月には、本家任天堂よりファミコンミニシリーズが発売されます。これはゲームボーイアドバンスソフトに、ファミコン初期の名作ソフトをほぼそのまま復刻したもので、以前ファミコンに熱中した世代をターゲットにしたラインアップでした(同時に、20周年記念とは色違いの、ファミコンカラーのアドバンス本体も発売されています)。初登場時には売り切れ店も続出し、ファミ通売れ筋ソフトBEST10にランクインするなど、その人気ぶりを示した形になりました。

そして2006年末、wiiのバーチャルコンソールとしてファミコンソフトはお茶の間に帰ってきました。

ミレニア館長近年「最近のゲームは難しくなりすぎている」と、任天堂の岩田社長が低迷気味のゲーム業界見解をしめしたり、ここに来て家庭用テレビゲームが見直される時期に来ていることはまちがいないでしょう。それがファミコン20周年と重なるのは偶然でしょうか。ともあれ、この先20年後、または40年後、100年後。いずれまた、ファミコンゲームとそのソフト・ハードの開発思想を振り返る時代がくるのでしょうね。
時を越え、場所を越え、あるいは親元の任天堂の手すら離れつつ今後もプレイされつづけるであろうゲーム、それが”ファミコン”なのです。

(初稿:2001年9月/第2稿:04年2月/第3稿:04年11月/3稿補足:08年2月)


山内任天堂

任天堂は、山内取締役相談役の曽祖父にあたる山内房治郎氏が、1889年(明治22年)に京都に開いた花札製造業にはじまる。その地は京都市下京区正面通り大橋西入で、ここには今も「山内任天堂」の名の、年季の入った建物が建つ。


電子レンジ・ファミコン

グリル「ファミコン」
(クリックしてください)

「ファミコン」という商標は、そもそもシャープが持っていたものであることは知られているが(後に任天堂が同社より買い受けた)、なぜシャープが持っていたのか,、その理由についてはほとんど知られていなかった。で、2004年11月、ODYSSEYが調査して出した結果がこれ!(1979年のシャープ新聞広告より)。

誰かトリビアの泉にハガキ出してみる?(笑)


ファミリーコンピューターマガジン

ファミリーコンピュータマガジン

バグ技、ウラ技を発見し、それを雑誌メディアが紹介し、逆にメーカー側がウラ技を仕込む・・・。ファミコンブームの陰の立役者は攻略本であり、専門誌だったのだ。

1986年NHK制作の番組「首都圏」によると、編集部には月35万通(!)ものウラ技ハガキが届き、1日4万本(!!!!)の電話がかかってきていたという。



HINT de PINT
  • 参考文献は、参考文献&SPECIAL THANKSコーナーにまとめてあります。
  • ファミコンの歴史は、テレビゲームの歴史コーナーで、前後の時期を含めて詳しく説明しています。あわせてご覧ください。また、テレビゲーム6とテレビゲーム15当時の任天堂の流れについては、ポンテニスの時代のコーナーで詳しく取り上げる予定です。

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