最初のゲームアイデアのメモ
メモ魔だったベア氏(^^;。最初にゲームのアイデアを思いついた時の雑記は、今も保存されています。クリックすると、氏のホームページの画像が見れます。
(c)Ralph.H.baer
CHASSIS No.1
4+2の真空管、3つの分圧器を要したステンレス製の制御装置。人間が画面に映る点の位置を手動でコントロールすることができたことを証明する実験機だったそうです。合理的な値段でつくれるかもこれでさぐったそうですよ。
pumping game unit
2つ目の試作機。カラー表示。光線銃ゲームを含め、6〜7つのゲームを盛り込んだゲーム機。右下のポンプコントローラーを必死に上下して赤い画面を青くするFIREFIGHTER(消防士)も遊べました。もっともこれはつまらなかったそうですが・・・。この消防ゲームには家の絵を描いたオーバーレイが用いられました。
(c)Ralph.H.baer
光線銃ライフル
今でもアミューズメントセンターの人気イベントであるガンゲームが、世界初のテレビゲーム、いや、その試作機から存在していたことは特筆すべき点でしょう。
|
テレビゲームの父の歩み
ブラウンボックスの歴史は家庭用テレビゲームの誕生の歴史、そして、開発責任者であり、テレビゲームの父と言われる
Ralph H.Baer(ラルフ・ベア)氏の半生をたずねる旅でもあるのです。じっくりと解説していきましょうー!
ラルフ・ベア氏は1922年のドイツに生まれました。ユダヤ人である彼は、当時国内に吹き荒れたナチスの迫害により、1936年、家族とともにアメリカへ逃れて来ます。
このため彼は、幼い頃に正式な教育を受ける機会が無かったのですが、独学で知識をはぐくみ、国立ラジオ研究所(NRI)に入り、ラジオの修理などをしながら実務知識を身につけ、やがてテレビ工科大学(ATIT)を卒業、テレビ技術の学士を取得しました。
その後起る第二次世界大戦にベア氏も兵役で参加したのですが、このような精密機器の技術を持つベア氏は、情報機器を手がける部に配属され、通信機器などを担当したそうです。戦後もその流れから、彼はさまざまな会社で、同じような製品を手がけたようですね。
1957年、彼はその実績をかわれ、ナーシャ(Nashua)という都市にあるサンダース・アソシエイツ社(Sanders Associates)に、いきなり設備設計部門のマネージャーとして招かれるのです。
テレビでゲームを遊んでみようか?
サンダース社もまた、この頃多かった軍事関連の土建業者のひとつで、ベア氏も最初の15年くらいはそういった仕事ばかりをしていました。ただ、彼はラジオやTVの技術でもあったわけで、以前からテレビ受像機を使って何か新しいことをやってみたい、設計を手がけてみたい、という考えを持っていたようですね。
そんな1966年8月のある日、バス停で仕事の同僚(どうりょう)を待っていた彼は、ふと「TVでゲームをしてみてはどうか?」と
思いたち、すぐさま構造やら何やらをメモにまとめ、試作品の開発にのりだしました。それが左の「シャーシその1」(CHASSIS No.1)です。
画面に表示される2組の点を、二人のプレイヤー人間がそれぞれ上下用のスイッチ&左右用のスイッチで動かすだけの実験装置でしたが、それは同時に、世界初の家庭用テレビゲーム誕生の瞬間でもあったわけです。
「このゲームはひとつの点をきつねに、一方を猟犬とみなすものだった。猟犬ががキツネを単純においかける、つまりキャッチするまでおいかけるものだった。全く原始的極まりないけれど、それはビデオゲームそのものだったよ。それにおもしろかったよね。それは、我々がプロジェクトを前進させるためのはげみになったんだ。」(「SUPERCADE」p.52より)
「そんなくだらないものはやめろ!」
”FOX&HOUND"と名づけられたこのゲームを、ベア氏は直接の上司に見せたところ、R&D開発部取締役であるHerb
Campman(ハーブ・キャンプマン)は感銘を受け、$2,500の援助をベア氏に申し出ました。それまで、ベア氏が個人で動かしていたテレビゲーム開発計画は、ここではじめて、社の正式なプロジェクトとなったのです。
1967年1月、このテレビゲーム研究班に。トランジスタ技術に詳しいビル・ハリソン(Bill Harrison)氏が参加しました。彼はトランジスタを使って、ベア氏のアイデアを具体化したり、また、おもちゃのライフル銃を買ってきて、それを光に反応する受光銃に改造し、ラケットの一方を撃つことでポイントするという、いわゆる「光線銃」ゲームを開発しました。
同年6月14日、研究班は、今度は社長を含めた役員会でデモンストレーションを行われます(何千人もの従業員を雇う会社での正式なデモというのは、計画の今後を左右するため、ものすごく重要な意味を持つんですよー)。
しかし、役員の中には「ベアは会社の資産をムダに使っている、やめさせるべきだ!」という辛辣(しんらつ)な声があったそうですね。キャンプマン氏の尽力もあり、研究開発は延命しますが、ベア氏にとってはこの「経費の無駄づかいだ」という言葉は最後までプレッシャーとして、重く重くのしかかっていきます。
マシンが動かす”第3の点”
もうひとつの問題として、ベア氏やハリソン氏はすばらしい技術者ではあったものの、元来、遊びというものに深い人ではなかったということがありました。早い話、彼らがつくるゲームには、正直、おもしろさが足りなかったのです。
そんな折(67年6月頃)、キャンプマン氏の指示により、研究班におもしろい人物が転がり込んできます。ビル・ラッシュ氏(Bill Rusch)。ギターが好きななまけもので、厳格なベアさんは、彼の態度に大いにイラつかされたものですが、反面、彼は実に創造性にとんだ人物だったのです。
彼は、研究班の中にシステム自身が制御する3つめの点、すなわち、画面を横切るボールという考えをもちこんだのです。それまで、画面に映るものはすべて人間がコントロールするという発想で煮詰まっていた研究班にとって、これは大変大きな前進でした。このアイデアは、やがて二組のラケットで、二人のプレイヤーがボールをうちあうゲームとして磨かれていくわけです。
|